★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

いわでもしるき一朝の、筆ならざるを思うべし

2019-11-24 19:21:21 | 文学


嗚呼時なる哉、至れる哉、八犬爰に具足して、八行の玉聯串の功、丶大の宿望虚しからぬを、看官もうち微笑まるべく、作者は二十余年の腹稿、その機を発く小団円、いわでもしるき一朝の、筆ならざるを思うべし。


ついに八つの玉は、一つの聯串となった。まさに「団円」という感じである。感激の余り、作者自ら「二十年以上もこのことを書こうとしてきたのだ」と泣いている。八犬たちと作者は一心同体、二十年も一緒に生きてきたのであった。

最初から会わせれば問題ないのでは……、と思うが、人生、人が集まるのにも二十年以上かかったりするのはよくあることだ。本当の師や友との出会いなんてのはそういうものだ。伴侶との出会いはもっと意図的なものが多いのでなんともいえない。わたくしは、八犬たちの「縁」と、結婚みたいな「縁」を一緒にするから社会がクズみたいなものになってゆくとおもうのである。親との出会いは「縁」ではない、「因果」である。これも師や友とは比べものにならないほど浅はかなものだ。八犬伝がやや社会に媚びているのは、この犬たちの魂が、一緒の腹に居たという設定を持ち込んでいることである。血のつながりとは異なるが、それに接近してはいるのだ。

間話休題(あだしごとはさておきつ)、登時丶大照文も、七犬士を相迎えて、親兵衛が救厄の戦功と、風雲天助の崖略を、箇様々々と告知して、躬方三所の勝利を問うに、……

作者の感慨によって終わった小団円は、「あだしごとはさておきつ」と言われて更に続いてゆく。無論、あだしごとは、作者が顔を出してしまったことなのであるが、いままでのお話が「あだしごと」であった気もする。

盗人にも三分の理ありとか、虎はかく人畜を残害するもののそれは「柿食いに来るは烏の道理哉」で、食肉獣の悲しさ他の動物を生食せずば自分の命が立ち往かぬからやむを得ぬ事だ、既に故ハクスレーも人が獣を何の必要なしに残殺するは不道徳を免れぬが虎や熊が牛馬を害したって不道徳でなくて無道徳だと言われたと憶える。閑話休題(それはさておき)、虎はまず猛獣中のもっとも大きな物で毛皮美麗貌形雄偉行動また何となく痒序たところから東洋諸邦殊に支那で獣中の王として尊ばれた。

――南方熊楠「十二支考 虎に関する史話と伝説民俗」


「徒し事」(あだしごと)を自ら言うときには、ほんとうはその「無駄なこと」が重要なことだってあるのである。合理的な熊楠は本当の話題転換として「それはさておき」と言っているけれども馬琴は違う。わたくしは、馬琴の方に共感する。長さというのは、儀礼ではない。それだけの意味を読者に向けて探ってくれと言っているのである(「いわでもしるき一朝の、筆ならざるを思うべし」)。わたくしは以前、「源氏物語」が平安時代を終わらせたのではないかと思ったが、「八犬伝」は武士の時代を終わらせたのではなかろうか。時間が時代になるためには、長さが必要だったということである。