★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

勧善懲悪・花見のバカ騒ぎ・資本主義

2019-11-14 23:13:37 | 文学


「俺們犯せる罪あらず」
といわせもあえず堯元は、はたと睨みて声を苛立て、
「大胆不敵の毒婦主従、汝等何でふ罪なからんや。木工作が身の痍は、突き痍に似たれども、鳥銃痍に疑いなし。


代官堯元は見事傷の真実を見破った。突き傷と銃でうたれた傷がどれだけ違うのか知らないが、こんな簡単なことを見破っても大したことはないのではなかろうか。

代官はもっと難題を解決すべきである。たとえば、「桜を見る会」みたいなものがないと興奮しない人間を、ただだひたすら頑張って働かせるにはどうするか、とか……。最近は、相手の地位によって仕事をするかしないか決めるようなゴミクズが増えている。こういう輩は桜でも見せとかないと心が浄化されずますます地獄に墜ちるばかりである。といっても、本人は地獄に墜ちている自覚がないし、実際地獄なんか存在していないので――、代官が必要だったのである。我々は、悪い事をする奴を代官が裁くのをみて、自分を正当化するが、自分が何のために如何に働くかを考えることをそこで忘れてしまいがちである。我々の「勧善懲悪」的伝統は、自らを内省し決定することの回避そのものなのであろう。だから、我々は自分の行動が意味のない労働だと自覚すればするほど、正義による懲罰の見物に頼るようになる。

ファンファーニの『カトリシズム プロテスタンティズム 資本主義』を読んでいて、なんと贅沢な議論であろうと思った。我々だったら『勧善懲悪 花見のバカ騒ぎ 資本主義』という感じなのである。

もっとも、八犬伝の世界は、今の政治の世界ほど一元的ではなく、まだまだ権力が二重以上存在する世界であるようだ。だから、本質的には、これは「勧善懲悪」の話ではないと思う。善悪の彼岸のような感覚が、闘いのそこここにある。そのことと、八犬伝とは違う一元的な世界に住む我々が、屡々浜路をヒロインにしたがる傾向についてはいろいろ考え方がありそうだから、調べてみると面白いかもしれない。たぶん、八犬伝が本質的に、善悪の彼岸の話なので、「浜路どころじゃない」世界だからなのであろう。わたくしは、『トラック野郎』シリーズが好きだったが、これも本当はトラック野郎たちが「女どころじゃない」という側面があったのだ。「野郎」たちの生きた走り自体の方が善悪の彼岸的権力闘争のようで面白かったのであろう。「源氏物語」は、権力闘争が恋愛にぴったりくっついているので、恋愛が過剰さを持つことはあっても、一元的に目的化することはないが、――それが離れている場合、権力と恋愛は、前者が衰微すれば後者が無意味に盛り上がるということになる。現在の映画のように。

我々は労働も恋愛もそれ自体の楽しみをまだ知らない。