古今集の「仮名序」はよく考えてみると冒頭から難しいことを言っている。
和歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事、業しげきものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひいだせるなり。
植物だね、というのはいいのだ。心を種としてしかし形を変えて出てくるのが言葉で、それも思い切り多くの葉なのだというのはうまいこと言いやがったな、という感じである。「万の言の葉」は、「事、業」の「茂っている」様と響き合っている。とはいえ、植物のように茂る「事、業」という森のような空間では、見ても聞いても何かを言い出されなければならないごとく閉ざされてもいるわけである。我々の心は植物の種であり、森の中で感覚を包囲されて周りに反応せざる得ない敏感すぎる心なのである。なぜかというと、我々は「生きとし生けるもの」だからである。
花になく鶯水にすむ蛙の声を聞けば生きとし生けるものいづれか歌を詠まざりける
歌を詠むことは、生きとし生けるものとして当然である。生きとし生けるものであることは強制である。「世の中にある人、事、業しげきもの」は心(歌)として対処すべきであり、それは強制である。
この「心」は、人間的であるよりも、鶯や蛙のようでなければならない。
庭に来てみても、やはりうぐいすはいませんでした。雄二と山田君はその写真と庭の梅の木を見くらべて調べてみました。ちょうど、あのうぐいすがとまっていた枝が見つかりました。
『あそこのところにとまっていたのだね』
『うん、あそこのところだ』
『あそこのところに何かしるしつけておこう』
山田君はポケットから白いひもを取出しました。そして、それをうぐいすのとまっていた枝のところに結びつけました。
――原民喜「うぐいす」
昭和26年の原民喜は、もう鶯も人間もいないことを知っていた。それで、印だけを付けようというのであろう。墓碑も欺瞞である。印だけの世の中が始まっているのである。