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爾程に船中の、著席も既に定まりければ、信乃毛野の二犬士は、迭に初面会の口誼を舒るに、是宿因の致す所、心同じく、意相かなえば、一面にして故旧の如し、親愛宛ら骨肉と異ならず。
七犬士たちが集結、信乃毛野の二人は初対面なのに、まるで旧故のようであった。「親愛宛ら骨肉と異ならず」。確かに、こういうことは現実にもある。初対面なのに、考えていることがかなり似ているのである。
我々の業界の場合は、同じような本を読んでいることから説明がつくが、七犬士だって、同じようなものであろう。別に彼らが犬野郎であるからではなく、戦いのプロ同士なのだ。本当は、彼らが血祭りにあげて、首を晒している方々ともまあまあ心は通じたはずである。それでも敵味方になるためには、犬であるとか入れ墨だとか、――そういうつまらない理由が逆に理由になるわけだ。理由は別にそれがファクトの場合は頑張って言い立てる必要がないが、そうではない場合は頑張らなくてならない。その頑張りがそのまま暴力となって顕れる。
そういえば、水島新司の『大甲子園』のなかで、里中と荒木という瓜二つの投手が実は兄弟ではないか、という疑念を持ったフリーの雑誌記者が真相を突き止めようと明訓高校の周囲を嗅ぎ廻っているうちに、結局、荒木の母親に行き当たってしまい、疑惑は間違いであったことが分かるという挿話があった。そのあとの展開があったのかもしれないが忘れた。里中は荒木が試合中にやろうとすることを、山田より理解できる。それを「血」のせいにしようとする考えの挫折であった(ちなみに、この記者がこの可能性に賭けたのは、うだつの上がらないルサンチマンからであった。確かに血が問題になるときにはそういうことがあるかもしれない)。里中と荒木は、同じ体格のピッチャーであり、実力も伯仲していたからお互いが分かったのである。
山田太郎は、里中より理解が浅いことを気にするが、それを「絶不調」のせいにして、一人海辺にバットを振りに出かける。
ドカベンの物語は、たまたま同じ学校に居合わせた仲間が「四天王」だかなんだかになってしまう話であり、それは「普通の練習」の賜である。昭和の野球少年の夢をかき立てたのはそのせいである。彼らの幼少期の悲劇やトラウマが語られるのは、かなり話が進んだあと(試合中)である。読者は、それを、だから、彼らの優秀さがトラウマのせいだとは思わず、普通の人間にも悲劇やトラウマがあるんだと思い、自分も悲しみやトラウマを問題にしたいのなら頑張らなくてはと思うのであった。過去をサボる理由にしたい気持ちを排除しているのが、この漫画であり、一定の教育的効果を持っていたと思う。
太郎といえば、桃太郎や金太郎である。
金太郎がいよいよ碓井貞光に連れられて都へ上るということを聞いて、熊も鹿も猿もうさぎもみんな連れ立ってお別れを言いに来ました。金太郎はみんなの頭を代わりばんこになでてやって、
「みんな仲よく遊んでおくれ。」
と言いました。
――楠山正雄「金太郎」
桃太郎はどこかの田舎から動物たちをひきつれ鬼ヶ島に乗り込んだ。芥川龍之介によれば、そこで略奪強姦なんでもござれであったらしいが、まだ地方の一犯罪人であるからまだ唯のクズである。しかし、金太郎は動物たちを棄てて立身出世したのであった。「渡辺綱、卜部季武、碓井貞光といっしょに、頼光の四天王」になったのである。金太郎は、熊もねじふせる力持ちではあったが、ホントは唯の犬であった。