「然ないいそ犬田生、熟思えば這金を、遺されたるも亦所以あり。他とわれとは義を結びて、異姓の兄弟なりといえども、金のみ受けてわが意に悖らば、貪るに似て潔からず。然とて金を返しては、又義を破る憾あり。この故に俺們が、贈りし金を受納めて、沙金三包を遺せしは、是贈答の礼にして、他よりわれに餽りし也。昨宵の金を返すにあらねど、沙金は原是煉金より、その価廉ければ、這三包は十金の、答礼によく相当せり。恁てぞ受けて貪らず、返したれども義をも破らず。智慧勝れたるものならずば、これらの事をよくせんや。恨むは要なきことにこそ」
毛野が五両包みの沙金三包みを残して荘介と小文吾のもとを去った。なんだか、漢文と和歌も残していたが、この言葉の方はすぐ理解できた。問題は贈り物の方であった。小文吾は、いまさら金を置いていくとは「浮薄の友」だなあとぶつぶつ言っている。それに答えたのが、荘介の上の言葉である。結局、物の贈与は言葉によって解説されなければ収まりがつかない。贈られた物というのは、どんなものであっても不気味なものなのだ。いまなら、何とか祝いに対するお返しは、だいたい値段が言葉の役割をしている。それでイーブンということにするのである。そうでなければ、贈られた物から発するパワーを押さえ込むことは出来ない。モースがをそれをマオリ族を引き合いに「ハウ(呪力)」とか呼んでいたことは有名である。
確か柄谷行人もどこかで言っていたように、こういう「呪力」を構造主義的に解消し「浮動するシニフィアン」のように言ってみたりしてもあまり意味はないのは、最近の世界をみれば、まあそうだろうという感じがする。やはり「力」はあったのだ。
映画「レオン」のなかで、最後にこんなやりとりがある。
Léon: Stansfield?
Stansfield: At your service.
Léon: This is from... Mathilda.
Stansfield: Shit.
わたくしは、この映画のあたりから、贈与はコミュニケーションの一部ではなく、テロの一部となったような気がしていたのだ。無論、この御時世ではコミュニケーションもテロの一部である。これを押さえ込むため「国民国家」が逆襲しようとして頑張っているのは周知の事実だ。そしてその逆襲は、自由気ままにみえる為政者によって担われている。――自由は安全とセットなので、自由であるために法律でコミュニケーションを基礎づけてテロリズム的なものを排除する。しかし、法による管理のもとでは自由がなくなるような気がすごくする訳で、だから言葉の世界ではなるべくテロリスト風にふるまってみる――呪力としての言葉を用いるのである。この逆説を心理的に納得するには、品行方正な為政者ではなく、法の外にあるような為政者が求められ、それに同調することが必要になるのであった。しかし、この為政者が実際に行うことは、自由なコミュニケーションの縮減である。国民国家の為政者なんですからね……
馬琴は彼が生きる時代ではなく、室町時代にその義兄弟のコミューンを描き出したのだが、もう自分の時代ではそんなものはなくなっていたからでもあろうが、――まだ安全とセットではない自由というものが、その「平和ぼけ」の中で夢想されていたのかもしれない。贈与を呪力とともに健全に働かせることへの夢が、我々のなかにはあるとはいえないであろうか。
かくして、今回のお花見騒動はいろいろなことを想起させるのであった。