★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

賢人を学び、狂人に出会う

2021-07-02 23:18:56 | 文学


人の心すなほならねば、偽りなきにしもあらず。されども、おのづから、正直の人、などかなからん。己れすなほならねど、人の賢を見て羨むは、尋常なり。至りて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見て、これを憎む。「大きなる利を得んがために、少しきの利を受けず、偽り飾りて名を立てんとす」と謗る。己れが心に違へるによりてこの嘲りをなすにて知りぬ、この人は、下愚の性移るべからず、偽りて小利をも辞すべからず、仮りにも賢を学ぶべからず。狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。驥を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。


正直な人を嫉妬するのは普通だが、憎む人がありとても愚かなことだ。これは、大概の大人が知っている真理であるが、「大きなる利を得んがために、少しきの利を受けず、偽り飾りて名を立てんとす」と思っているかどうかは分からない。ここまで理屈っぽく考えているのであれば、まだ見込みがあるが、ほとんどの下愚の輩は考えていないと思うのだ。もっと他の理由があるのだ。正直な人であるから憎んでいるのでさえないのである。兼好法師は、ここで一貫した論理を造ろうとして、下愚の具体性を取り逃がしているのではないかと思うのだが、――問題は、正直さというのは、自分に対する意識のことではなく、自分が何に反映されてあるかということに対する素直さのことなのである。自分に拘って居るから、本心ということにこだわってしまい、利を逃す。そんなことをするより、素直に賢人を真似た方が早いのだ、兼好法師のいいたいのは、そういうことであろう。

しかし、それはそうなのだが、こういう素直さにも様々な種類があるとおもうのである。そして、そのなかには、ほんとうに「大きなる利」を狙っているような輩も混じってはいるのである。下愚の心も複雑だが、一見すると賢人みたいな人間の心も複雑である。

 成程世人は云うかも知れない。「前人の跡を見るが好い。あそこに君たちの手本がある」と。しかし百の游泳者や千のランナアを眺めたにしろ、忽ち游泳を覚えたり、ランニングに通じたりするものではない。のみならずその游泳者は悉く水を飲んでおり、その又ランナアは一人残らず競技場の土にまみれている。見給え、世界の名選手さへ大抵は得意の微笑のかげに渋面を隠しているではないか?
 人生は狂人の主催に成ったオリムピック大会に似たものである。我我は人生と闘いながら、人生と闘うことを学ばねばならぬ。こう云うゲエムの莫迦莫迦しさに憤慨を禁じ得ないものはさっさと埒外に歩み去るが好い。自殺も亦確かに一便法である。しかし人生の競技場に踏み止まりたいと思うものは創痍を恐れずに闘わなければならぬ。


――芥川龍之介「侏儒の言葉」


しかしまだ芥川龍之介は甘かった。ホントに狂人がオリンピックを行う羽目になるとは思っていなかっただろうからである。

未完の完とロッキー

2021-07-01 22:18:14 | 文学


一部と有る草子などの、おなじやうにもあらぬを見にくしといへど、弘融僧都が、「物を必ず一具にととのへんとするは、つたなきもののする事なり。不具なるこそよけれ」と言ひしも、いみじく覚えしなり。「すべて何も皆、ことのととのほりたるはあしき事なり。し残したるを、さてうち置きたるは、面白く、いきのぶるわざなり。内裏造らるるにも、必ず作りて果てぬ所を残す事なり」と、或人申し侍りしなり。先賢のつくれる内外の文にも、章段の欠けたる事のみこそ侍れ。

章段の欠けたものは、意図的なものではないのではなかろうか――、とも思うのであるが、このような「未完の完」のような哲学も、未熟者がいうとただの言い訳だ。ほんとうは、兼好法師が感心しているものは、美的なあり方の話で、完成しているかしていないかという問題ではないのではないかと思うのである。

それは親と子というものは、いわゆる血をわけた仲なので、天然自然に本能的に愛し合っているものだから、愛情の方面は、おたがいに濃やかなれと祈るまでもなく、希望するまでもなく、安心なものだという気があるからでしょう。しかし親子の愛を、ただその本能の力にばかり任せて問題にしないのは、差しつかえないことでしょうか。
 親子の愛もまた親と子が双方から多くの努力をしなければ完成することのできないものです。近来いろいろと世上の有様を見るにつけて、親子の愛情の完成は、夫婦の愛の完成とおなじように、すべての人々によってふかく考えられ、強く主張されなければならないことだと、もっとも切に感じています。


――羽仁もと子「親子の愛の完成」


この意見なんか、なんとなく未完の完とかを唱える人たちにとっては人工的なものと思われるであろうが、案外、こういう考え方こそが重要だ。ルソーではないが、――(違ったか?)親子関係は実際長続きしないと考えた方がよいのではなかろうか。最近、映画「ロッキー」のシリーズを通してみてみたんだが、「ロッキー」と「あしたのジョー」の主人公の帰趨を比べてみたばあい、日本人が家族を大切にしないのは明らかのようにおもわれる。ロッキーがどうみても負けそうな試合に突っ込んで行くにしてもこれは生き方の問題であって、べつに特攻をしてるわけじゃないが、ジョーはなにか実存のための一種のそれである。戦時中のそれにしてもジョーにしても、根本には、社会や家族へのある種の絶望=薄情さが潜んでいる。我々のその薄情なところが、この道しかないみたいなかたくなな頭の悪さを作り出しているのではなかろうか。社会は、――というよりそもそも家族は、特攻みたいな一発の自然的お気持ちの波及でどうにかなるものではない。

ロッキーの成功の理由は、妻エイドリアンのクズ義兄ポーリーがいることにあった。彼にとって、高利貸しの取り立てをやる場合でもたとえ上司の指示でも相手を傷つけないことが重要であったのと同じで、ポーリーみたいな義兄を見捨てないところが重要である。ロッキーが天涯孤独だからじゃなく、これは他人を疑似家族と見るような思想の問題である。(クソ義兄が、エイドリアンに「この豚兄貴!」と言われたときに見ている観客は結構傷つく、これによって、観客も擬似家族となる。)最近のスピンオフ「グリード」という映画でもそうで、アポロの遺児のセコンドとして生きるロッキーは、恩師、友(アポロ)、妻、義兄、息子に去られた人間で、その遺児を家族みたいなものにする。これは家族の維持を目的とした養子的なものじゃなく、自分の生き方をその彼とともに生きることで教えるという思想の実現である。すなわち、その「生き方」は理念ではなく、共に生きる中で実証されなければならないから、ロッキーは生きているかぎり、何回もリングに上がらざるをえない。

むろん、この場合、頑張る個人(ロッキー)がいない場合は、ただの烏合の衆に100%転落してしまうし、頑張る個人が狂人の場合は犯罪集団となる。

孤独に耐え、一匹狼となる人たちのなかにはすぐれた人も多いが、――晩年に、なんとなく自分の見たいものだけを見るタイプに変化してしまうのをわたくしは沢山目撃してきた。おそらくその原因は、上のような思想の欠如にある。厄介なのは、兼好法師のような隠遁さえが、その原因を作り出しさえすることである。