★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

三浦哲郎対村神春樹

2023-07-24 23:23:13 | 思想


生財有大道。生之者衆、食之者寡、為之者疾、用之者舒、則財恒足矣。仁者以財発身、不仁者以身発財。未有上好仁、而下不好義者也。未有好義、其事不終者也。未有府庫財非其財者也。

生産の速度が速くて、消費の速度が遅ければ財貨はいつも満ち足りる。君子は無駄遣いしちゃならぬ。民に金を回せ。いまはこう簡単にはいかないんだろうが、これは勉学とか研究の場合にも適応されている場合がある。テストの回数や報告書や生産する論文が多く、勉強や活動そのものが遅ければ、なんだか満ちたりるみたいな理屈である。みんなが疲弊している原因である。いつもうまくいかないときには、努力するべき主体がひっくりかえっている。

思うに、村上春樹が人気があるのは、読者に労働や生産を要求するようなかんじを醸さないからである。大学生の頃、小説をつくる宿題が出て書いていったら、先生に「三浦哲郎みたいな才能がある」と言われて、当時はなんかイヤだった。わたくしは安部公房みたいなものが書きたかったから。しかし、最近ちょっと三浦哲郎を読みなおしたら、すごく故郷に帰ったような気がした。戦後とはこういう人の文学の時代でもあったのである。村上春樹が嫌われた理由はいろいろあるんだろうが、三浦哲郎みたいな純文学の現代化を拒否したというのはあると思う。三浦の小説は、学生時代が部活と受験みたいな「労働」になってしまいつつあるなかでの、現実には既にありえない「青春」を乗り越えるようなあり方であった。村上はそれを逆撫でする文体で現実を突きつけたところがあった。旧世代に対してはそれは逆撫でであったが、「労働をさぼる」若者のような文体であったことで、若者には共感してもらえたのかもしれない。

しかし、若者にもいろいろいたのである。わたしの世代の田舎もんは、村上の描く学生運動がやたらシティボーイみたいなので、描かれた対象が過去なのに未来が描かれている妙な憧れをもつやつがいたんじゃないか。ちなみにわたくしは、村神春樹は島崎春樹みたいなもんで、とか言って読むことを拒否していた。村神は藤村のように田舎者が上京したに過ぎないと。上京すらできないわたくしの自意識のやっかいさを示していよう。

時代は変化して、わたしのような遠近感が何重にも狂った者がようやく村上春樹を読みはじめることが出来る。いままで喜んで読んできたシティボーイ・ガールたちは、春樹のつくった現実的な文体で労働を疎外しながら、労働に苦しむダブルバインドにはまり込んだ。わたくしはいまだに、三浦哲郎みたいな故郷を持っているから関係がない。