
子曰、聴訟吾猶人也。必也使無訟乎。無情者、不得尽其辞、大畏民志。此謂知本。
本を知れば、訴えそのものがなくなる、結局、上に立つものが「本」を体現してりゃ、末はそれに従うのでその些末な問題は起こらない。
これは、結局、下々は上に自然に従うべし、問題がおこったのは上が本をしらぬ奴だからだよと、二方面への説教になっているのである。そりゃそうなのだが、上が腐っている場合、前半だけが機能して大変なことになるのがいつものパターンである。だから、我々はいつも腰が重くなったあとで、「本」を体現しない人間を狙い撃つということになりかねない。
度々起こる為政者の暗殺はそういう風にして起こっているのだろうし、島本和彦の『炎の転校生』なんか、そのマレビトたる転校生が熱血馬鹿であることによって起こる破壊=革命を学校を舞台に描いており、その転校が、頻繁に起これば、日常これすなわち革命となるというプランを描いているw。これは熱血漫画化した高★留美子みたいなものである。八〇年代は、ときどき起こる暗殺ではなく、革命を志向するフィクションが花盛りである。ある意味で、学生運動の蹉跌後に、革命がフィクションをつくる視点を必要とすることにみんなが気付いたということもあるであろう。だから、決して、わたくしはあの時代が革命後のお祭りであったとは思わない。
その余波はまだくすぶっている。そういえば、わたくしは80年代のおわりに高校生であったが、昨日テレビでやってた「風の谷のナウシカ」ではなく、「木曽谷なう」であった。ナウシカの影響ではないが、わたしも高校の頃手乗りインコを肩に乗せてたけど、世直しもできなかったし虫にも轢かれなかった。そのかわり、その頃から鳥のウンコを肩にのせる傾向がある。私は常に
冗談ではなく、こういう視点が革命に必要なのである。四書五経を読んでいて思うのは、ここにあるのは、秩序維持に限りに近づいた王殺しの論理であって、鳥になった視点がたりない。これでは、結局、何もやらないままでおわる。民は民であり、王は王でありつづけるしかない。
たぶん誰かが言っていると思うが、「風の谷のナウシカ」における王蟲はカフカの「変身」のザムザが死なずに世界中から集まって連帯したものではないかと思う。ナウシカと王蟲は同一人物でありながら、集合体である。宮崎駿であり、ファンでもあり、プロレタリアートでもある。ここまで表面上形が違う自らの姿は、ある種の誤読と誤読への警戒心が生み出したものであるが、それがない作者がありえないのに対して、論文の書き手はしばしば著者としての自分を同一物として認識してしまう。
他人の論を要約して「~に回収してしまっている」と批判して自分は別の見方を、みたいなのはあとから見ると他人への誤読である場合が多い。小説に対して我々がやらかすのと同じだ。しかし、やらかしてもなんだかんだで面白いことが発見されることはある。自分の論に対してすらわれわれは自分で誤読する。この誤読を最小化しようとして、キーワードや論文の書き方の形式化をすすめる方向性は副作用も大きかった。読解の余地があまりにない論文はやはり面白くはない。研究は進んだ気がするんだが、よく考えてみると何かを付加しているのを進んだと思っているだけの場合が屡々だ。