★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

転向とオートマティズム

2024-11-25 23:10:13 | 思想


科学理論は実存の再現であるといふ独断も、科学の発達により、科学者自身の間でも信じられなくなつてきた。かういふ反動期から、象徴派詩人たちの仕事を顧みると、それは単なる頑固な孤独な審美的作業とは考へられなくなる。彼らは、あたかもこの反動を最も熱烈に準備してきた

――小林秀雄「詩について」


たしかにそうかもしれないが、文系なのに科学的であるところのマルクス主義者たちなんかは、上の事態に気付くのが遅かった。しかし小林の目に映っていないのは、熱烈ではなく準備する者達である。そのなかにはキリスト者たちの裏切りを反復して、古典的劇をメランコリックに再現しようとする連中までいるのである。彼らも何かを準備していることはたしかなのだ。

そういえば、なんだか、台湾に負けたら投手に転向すると言ってしまった選手が話題であるが、米国に負ける前にマルクス主義者が転向したのと同じで、また再転向するから何の問題もない。大谷ばっかりに注目していると、科学的なものが却って目標曼荼羅みたいなものを呼びよせるのだ、みたいな亜哲学が生じるのであるが、もっと転向を繰り返す愚鈍な人々を見なければいつまで経ってもこのよのなか戦乱である。

昨日、大河ドラマで、紫式部に棄てられた道長が坊主になったらしいのであるが、良く思い出して★い。紫式部と奴が何処で子供をこさえたかを。寺で生を生じさせたんなら、道長は世を捨てたつもりでまた恋の道に舞い戻ったとも言えるのである。出家はやはり転向の一種である。

のみならず、昨日は野球の日本代表か何かが台湾に負けていた。これには既視感がある。大谷を擁する最強日本チームもそういえば中日ドラゴンズだけには負けていた。現在の日本代表の監督はもと中日の選手である。落合監督が中日の監督のときも、たしかはじめて中国かどこかにまけていた。中日がそもそも中国を想起させるみたいな頭が沸いた御仁がネットにはいたが、それはともかく、――もはや、歴史の必然として戦後復興がくるのではなかろうか。

「桜島」が私の処女出版。(なぜ童貞出版といわないのか、男をばかにするな)

――梅崎春生「桜島(気宇広大なあとがき)」


梅崎も、丁寧に処女作に転向(回帰)していった。その「幻化」はすさまじい傑作である。

いまわたくしが注目しているのは、短歌がその転向の反復を阻止する役目をいつもやっているのではないかという仮説である。したがって、わたくしは、――三島由紀夫の作戦に乗って、今週の共通科目の授業で、三島事件もあさま山荘もなにゆえ本人たちは短歌で総括し決着しようとするのか、みたいな話を少しするつもりである。

技術社会の進展が、技術の自己目的によるオートマティックな一人歩きをはじめる傾向に対抗して、国家はこのような自己内部の技術社会のオートマティズムを制御するために、イデオロギーを強化せねばならぬ傾向にある。

――三島由紀夫「反革命宣言」


転向はむしろ、上のオートマティズムに似てるんじゃないかという直観は私でなくてもだれでも持つきがするのだ。三島の萬葉集による楯の会、その短歌を最後とする作家人生、その三島由紀夫の最期が狂気に見えてしまうほど、連合赤軍のそれがなぜかオートマティズムに見えてしまうというそのことについては、むかし少し書いたことがある気がするが、最近短歌の勉強してもう少し分かったこともあった。短歌は都合良くオートマティオックにならない機械であったのである。

しかし――

俵万智の「サラダ記念日」は、当然、「カラダ記念日」とかにパロディにされることを見込んでいただろうし、それを承知でやってしまう筒井康隆もあれであるが、これは連合赤軍とも三島とも違う、オートマティズムだったのではなかろうか。

もはや、五が七より少ない、最後は多い数の連続で始末をつけようといった、ささやかな数の戦略も無効になりそうだ。ほんと現実でもテレビでもネットでもみんなマジョリティとマイノリティの話ばっかりしている。ほんと勧善懲悪とは実は支持者の数の暴力である。それを写実で乗り越えようとした歴史がついに教訓に見えてきた。二葉亭四迷萬歳。

紫式部チンギスハーン説

2024-11-24 23:48:57 | 文学


印象批評とは良識批評であつた。その源はモンテエニュの批評文学にまで遡るモラリストの批評であつた。残念な事には、わが国の所謂印象批評に、さういふ確固たる近代的性格があつたわけではない。

――小林秀雄「文芸批評の行方」


小林的モラリスト批評に対して戯作的な穿ちを有効とみるか、みたいな問題はいまだに問題で、それは批評の業界だけの問題ではない。(問題3回)そして、それは研究の業界でも批評理論で武装したからその問題が終わったわけではない。

わたくしは、上の問題に無縁なものにはいままで興味がなかったが、短歌の授業をやってみて、かえって、それは何かからの逃避であるきがしてきたものだ。それは谷川俊太郎の問題ともかかわっている。わたくしが、断固俊太郎の親父の方を支持するで、とか言っていたのも上記のモラリスト的問題に親父が関わっていたからにすぎない。

そもそも親父の徹三の方が94まで生きているわけで普通に息子の負けなのであるが、息子が最後まで危険な帯域をさける御仁であったのにたいし、天皇崩御のときの徹三氏の文章はある意味一貫していた。『世界』といった雑誌は、そういう一貫した意見がのるために用意されたに違いない。

澁澤 〔稻垣足穗は〕未来とか何とかいっても、結局みんな過去なんですね。時間概念としては仏教的だな。
三島 過去なんですよ。それはお能とぴたり合うんです。お能は、ドラマがみんな終っちゃたところからはじまるでしょう。〔略〕みんな過去なんですからね。


――三島由紀夫・澁澤龍彥「タルホの世界」


わたくしは、それが仏教的かどうかはともかく、ドラマが終わったところから始まるみたいなドラマは、歴史が長いみたいな感覚に言い換えに過ぎない気もするのである。この長さを宇宙の広さにしても同じ事だ。息子の「二十億光年」の詩なんかは、みんな過去であり始まりでもある天皇制的なものである。父は、こんな風には考えなかった気がする。

先週、吉本隆明の「短歌命数論」についての講義の準備をしているときに、やはり吉本は、この時期までは、ほんとに五七調が終わったときのことまで考えていたのだと思う。しかし、歴史は、吉本の方向にも、かれが批判した小野十三郎たち(短歌否定論者)が考えた方向にも行かなかったように思う。

そのエビデンスが息子である。数年前に谷川俊太郎についての授業やったときにも思ったけど、このひとは詩人というより「国民歌謡」の異能者という感じなのだと思う。わたくしは、谷川が人々に読まれすぎて抑圧されてしまったものがすごいと思うのであくまでマイナー詩人の味方をしたいと思っているのだ。しかしそれ以上に、わたくしでさえ、――だいたいいつ頃からかわからんが、童謡的国民歌謡の時代がながく続いていることぐらいは自覚しているのである。JPOPもその一部で、もはや萬葉以前的なところに逝ってしまったんだ「二十億光年の孤独」とか言うてるあいだに。息子の「孤独」が全く孤独ではなかった証拠である。

しかし、現在のように――民主主義はとくにそうなんだろうが、「お前に言われたくない」みたいなことをお互いに思うようになると全く機能しない。ある意味、君主への帝王学みたいなことをすべての人間に行う必要がある。ここにだけ、天皇制が終わってからかえって我が国が優位性をもつポイントがあったような気がする。

さっき、大河ドラマで紫式部が道長をすてて旅に出ていた。どうやら、太宰府で昔の宋の恋人に会い、戦乱に巻き込まれるようである。当時だって紫式部にとっては、摂政関白も天皇もどうでもよかった。しかし、そういう思い切りがよすぎる人が大胆に行動すると、――例えば、どさくさに紛れて中国に渡りチンギス・ハーンになったりすると、やつの才能ならいける、とはいえ、元寇以降の日本はもはや日本ではない。幸か不幸か、わたくしなんかもいないであろう。

わたくしの妄想もまた、過去を弄んでいるだけで、ながい国の歴史に依存している。

校務で出勤

2024-11-23 23:43:08 | 大学


夏が好きという文人が意外に多いのだが、わたくしは木曽にいるときから夏が苦手であった。小学校の頃は毎日プールもあるし、夜の冷え込みで喘息になるからだ。冬も苦手であった。寒すぎて喘息になるからだ。春も秋も遠足やかけっこで喘息になるから苦手であった。いまは喘息の発作はないが、仕事が苦手である。


【万歩計】校務の準備【たくさんカウント】

2024-11-22 23:41:45 | 大学

昆虫動物記15

2024-11-21 23:20:34 | 日記
昆虫動物記15

大和男子の本懐之に過ぐるものなし

2024-11-20 23:09:20 | 思想


皇国は不滅の神州なり、小官突入に当たりては最後の一瞬まで「神州不滅」を絶叫しつゝ醜艦を木つ端微塵に砕かん、あゝ幸ひなるかな我、神州に生を享け、神州に生を捧ぐ、大和男子の本懐之に過ぐるものなし

神州不滅

天皇陛下萬歳


朝日新聞の昭和20年8月15日の記事の中には、特攻隊員の遺書もあった。負けても勝っても同じのようにみえる我々の風土が完璧に表現されている紙面であった。

これに比べると、昨今の朝日新聞はそこまでの緊張感がない。火曜日は、授業で「ゴジラと靖国神社」みたいな「天声人語」の記事を扱った。授業は、ゴジラ靖国加藤典洋大批判に展開。やはり日本のゴジラにかんしてはとっとこハム太郎と一緒に上映するみたいなことが重要だという結論にいたる。

「天声人語」に偏執狂的に注をつけてみるという演習なのであるが、別に反朝日をやろうとしているわけではない。「天声人語」という題名に美事に顕れている構造を問題にしているに過ぎない。以前も朝日新聞を模倣して記事を書いてみる演習をやったことがあるだが、朝日は注釈や突っ込みに向いているだけまだましなのかもしれない。だいたいよのなか論外のものや触れるとやばそうなものほど何もいわれず、そこそこのものこそ炎上しているのである。

最近出来心で『日刊ゲンダイ』を買ってみたが、新聞というのは明治の昔からこんなかんじのものが一番勢いはあるものであって、朝日読売なんちゃらとなってくると本質的に大本営的になるわけである。

タタタターの強弱

2024-11-19 23:57:37 | 音楽


マーラーの五番のスコアを見てみると、改めてクレッシェンドとディミヌエンドをちゃんと演奏するのけっこうむずかしそうだと思った。最初のトランペットとか、、


平面

2024-11-18 23:49:16 | 文学


五月雨のふり出すより、いとしめやかに、窓よりやぶ雀の飛入り、ともし火むなし。闇となるを幸ひに、この男ひしと取りつき、はや鼻息せはしく、枕ちかく小杉原を取りまはし、我がよわ腰をしとやかに叩きて、「そなた百まで」といふ。 「をかしや、命しらずめ、おのれを九十九まで置くべきか。最前の云分も悪し。 一年立たぬうちに、杖突かせて腮ほそらせて、うき世の隙を明けん」と、昼夜のわかちもなく、たはぶれ掛けて、よわれば、鱧汁・卵・鰹・卵・山の芋を仕掛け、あんのごとく、この男次第にたたまれて、不便や明くる年の卯月の頃、世上の更衣にもかまはず、大布子のかさね着、医者も幾人かはなちて、髭ぼうぼうとながく、耳に手を当て、きみよき女の咄をするをも、うらめしさうに顔をふりける。

昨日の記事で、戸坂潤の、学会じゃなくて世のなかには学界があるんだみたいな文章を引用した。しかし、彼の言っていることは、むろん学者の一途な頑迷さあってのことなのだ。全体が学界じみてくるとそれは失われる。だいたい戸坂だって西田の弟子であって、それぬきで彼はありえなかったわけだ。

しかしこういう逆説の主張は、現実の制度や政治においては、大きな犠牲を出す。原爆で死んだ人間は幸いである、とは言えない。我々はやはり、そういう塞翁が馬式弁証法みたいなことを性急に言うのではなく、Blessed are those who mourn, for they will be comforted.とでも言うべきであろうか。わたしはやはりそういう思いを棄てきれない。ただし、よのなか、戸坂のような革命を夢みることをやめないことも重々承知でいかないと、思い込んだら視野狭窄に極端に陥る様々な人々に対応できない。それがめんどうだからといって、最初から悲しまず、上の一代女のように相手の男を殺してしまわずに、にこにこ友情を暖めれば良いというものではない。そういう平面的な平等化は、そもそも現実的に無理なのである。

身内にいるからいろいろ感じるのだが、官僚制と政治家との関係は一筋縄じゃいかない。普段からいろんな綱引きや駆け引きがある。しかし最近は、馬鹿みたいな評価システムを気にしすぎてるのか、どっちももう少しすっきりしたいという欲望が強いようにみえる。こういうのはたぶんだいたいの職場と一緒で、もっともっと難しい仕事の筈なのに合理化して頭が悪くなって行く。教員も官僚も政治家も人気がなくなり、確かに人不足なんだろうが、――これは長い間、これらの職業を実際よりもものすごく簡単なものとしてイメージしてきた人々のせいだ。で本人たちもそのイメージに侵されている。そこに仕事は全部「労働」だみたいなアレントもびっくりの決定打がきた。もはややる気が罪に昇格した。

職場の平面化は、逆にパワハラを生み出す。安富歩氏がむかし言っていたように、それは連鎖する一部なのだが、心配されていたように、――いろんな人がいろいろな場面で、パワハラについて「がんばっている人を能力や倫理上問題がある人が逆恨みで告発する」みたいなイメージを持つに至ってしまった現実はある。相手を組織上のしかるべき非人間性と見ないからそういう恨み辛みが果てしなく連続して見えてしまうわけである。かくして、人間がそうかんじたらハラスメントみたいな定義をふりまわされる結果となる。そもそも仕事が、仕事の平等な配分の連続性みたいな、チャップリンの工場のあまり違わないイメージから脱却せず、もっともっと判断が難しい合意形成を組織そのものの問題として議論しなかったつけがまわってきたと思う。

同じような平面化は、文学の業界にもある。最近は、文学的みたいなものを観念化し、それをいうやつはみんなナショナリストみたいなことを前提にしているひともいなくはないのだ。そんなの大学生でも高校生でもどこかおかしいなとおもうにちがいない。一部の学者が「むかしは文学を崇めていた時代があって」とか言い始めたときに、かくも×ってるのかと思ったが私も事態をなめておったわ。

宮崎駿は堀田善衛を尊敬してたとどこかで言ってたが、宮崎駿は堀田とは全然資質が違う常軌を逸した人であるからこそ影響をうけてもたいしたことがなかった面があると思うのである。堀田のような平面的で国際的な感じがする作家というのは、普遍的な感じがするが普遍的なだけだという可能性があると思う。戦後、そういう感じに「転向」した文学者も結構いたと思う。ただ、本人たちの現実はもちろんそこまでそういう「感じ」ではない訳で、だからその意味では、「普遍正義に則る奴は全員馬鹿」といっただけでは仕方がない面がある。

かかる平面は、結局、戦時下の平等の結果の延長である側面がある。メディアへの批判的リテラシー教育は、メディアを敵に、自分がみつけたエビデンスに固執するおひとを生産する役割を持ってしまう。こんなことはむかしから言われてた自明の理にすぎない。実際いまの学生はそういう傾向がある。メディアはフェイクだが自分は正しいという対称性が生じてしまうわけである。自分はもっと信頼できないという自明の理をスルーして教育するからそういうことになる。善を信じている教師や知識人が陥りがちな事だ。我が国の戦時下においては、敵国の言っていることは嘘なので、自分の国は、みたいな対称性が明らかに働いていた。最後のあたりは、国内の新聞の論調よりももっともっと純粋にがんばらなきゃみたいな感じもあった訳である。

こういう平面は、多くの教育現場で、多くの批判的タイミングが逃されていることからきているに違いない。生徒や学生に何か物を言うタイミングをまちがえると、言った意味はほとんどなくなる。小学生にいうのと同じである。その経験に裏打ちされた倫理的な反射神経が「面前で怒っちゃだめ」みたいなスローガンで潰された。あとでじっくり言い聞かせてもだめなものはだめなのである。ある者達(この場合は教師たち)への迫害による自己たちの平面的肯定は、否定と肯定が陰陽のようにバランス良く回転する。

蝶がケツから出られない件について

2024-11-17 23:44:25 | 思想


処が最後に本当の学界が残っているのだ。というのは、この現実の社会で学術が支配的影響力を有つ限りの世界が、広義の所謂「学界」――学壇――であることは今更述べるまでもないからである。併しそうなると、前に云った研究室に於ける学者の一種の家庭生活や、書物の貯蔵や学者のメーデーのようなものとは異って、社会的に云って非常に真剣な意味を有って来るのであり学問の本当の根本精神に触れて来るのである。こうなると、もはや本が羨しいとか何とか云ってはいられないので、本があろうとなかろうと、研究すべきものは研究しなければならぬという、社会的必要が支配的になって来るのである。従ってここではこの学界に対する不平とか不満とかいうことは問題でなくなって来るのであって、元来不平や不満は相手に多少とも期待をもち依頼心をもち一種の同類感をもつことから来るのだが、そういう期待依頼心同類感を絶した処には、不平も不満も成り立ち得ない。

――戸坂潤「学界の純粋支持者として」


もっとも、戸坂の言う「学界」でも通常の意味での学会でもいいが、そこで何とか生きてゆくのに忍耐や持続力が必要で、と考えられているのはまずいわな。確かに論文を書き上げる最後はそんなかんじだけれども、いつまでもそういう感じだと、特に学会への道半ばで挫折した人の感情教育としてよろしくない。木曽弁で言えば、ずくがないから研究者にならなかったと言いうるからである。まったくそんなことはない。

戸坂の期待通りに、戦後にはかなり「学界」というものが機能していて、これこそが学会の成立要件だったことも実感された。この半年ぐらいのわたしの思考過程を、松永伍一の『土着の仮面劇』で教えられた。昔の「学界」の人は鋭い。こういうことがないと、国際的な研究という非常にとじた集団が大学と大学のあいだの虚空に成立することになる。まさに霞ヶ関はこういう虚空と非常にシンクロ率が高い。研究そのものではなく、精神的な(というより人格的な)つながりであるから。その証拠に、彼らの研究は、妙なガイストに向かっている。

とおもっていたら、兵庫で知事が再選されたようであった。

だいたい民主主義というのは世の中に逆らっているのか、世の中の姿を写すのか、よくわからない。わたくしは、いつもやはり我々は世の中に喰われていると思うたちだ。したがって、ほっときゃクソか屁になるものを、喰われてから変態して蝶になんかになろうとしてもケツから出られないではないか。

星星を見よ

2024-11-16 23:05:09 | 文学


ある夕暮に、風梢をならし、ばせを葉乱れ物すごき竹縁に、世の移り替るを観じて、独り手枕の夢もまだ見ず、まぼろしに、かしらは黒き筋なく、顔に浪をかさね、手足火箸のごとく、腰もかなはず這出、聞え兼ねつる声の哀れに、「我、この寺にひさしく、住持の母親ぶんになつて、身もさのみにいやしからぬを、態と見ぐるしく持ちなし、長老とは二十年も違へば、物毎恥づかしき事ながら、世を渡る種ばかりに、人しれず夜の契りの浅からず、かずかずの申しかはしもあだになし、かくなればとて、片陰に押しやられて、仏の食のあげたるをあたへ、死にかねる我をうらめしさうなる顔つき、さりとてはむごくおもへど、それはさもなく、うらみの日をつもるは、そなたは我をしられぬ事ながら、住持と枕物語聞く時は、この年、この身になりても、この道をやめがたく、そなたに喰付き、おもひ晴らすべき胸定めて、今宵のうち」といふ事、身にこたへ、とかくは無用の居所ぞと、ここを出てゆく手くだもをかし。

「世間寺大黒」の一節であるが、実際、この老女は優しい。住職と枕を交わしている若い女をすぐさま取り殺しても良いはずなのに口上が長すぎる。思うに、かのじょもまた、「感想文」を書いてしまう非実践的な輩ではなかったであろうか。彼女の意識の中ではもう住職も若い女も殲滅されているかも知れないが、実際はそんなことはない。もっとも、この夢を見た若い女も、こんな夢を見なければ事態に気付かないとは何をやっておるのであるか。これは、大学をレファレンスデスクか何かとおもって業績をつくろうとする人たちに近い。

けっこういろいろな人から聞くが、大学の学者を利用して業績をだそうとする在野の悪人問題もけっこう昔から深刻なのである。むろん逆もあるわけだが、これが倫理的に厳しく糾弾されている割に、書く主体が在野の場合、これは学者のサポートはサービスだと思われている節もあって問題化しにくい。今に始まった話ではなく、地方の(に限らないが)教育学部や文学部が研究者養成でないとおもって学生の学的訓練に手を抜くと、半端なモンスターがでてきてしまう。ずっと問題だったんだが、在野での発信が容易でなかったこともあって勝手に淘汰されていた側面があった。しかしいまはそうでもない。たぶん、研究の「調べ物化」とも関係があるが、主たる原因は、官学連携的な発想の世俗化である。

昨日、坂出の郷土博物館で『香川不抱歌集』を購入した。與謝野寛にかわいがられていたという香川である。わたくしは、歌集というものの、星星を見よ、みたいな体裁が苦手である。

なにかしらず殲滅したし今朝赤いハムエッグも美味い

グミを食べた次の朝日のなかで下痢してました


わたくしの実力はこんなものであって、そのせいにちがいない。

それにしても、論文も、どこかしら最近、「星星を見よ」みたいな体裁になりつつある。国会図書館デジタルコレクションの影響なのか、論文が検索結果の開陳みたいになってきているのである。言葉が同じだからといって意味合いも全然違うわけだし、そもそも言ってることが違うのに、なぜおなじ言葉を使ってるのかという問いにゆきつくことは、実際は簡単なことじゃない。作品を読めないと簡単に見える。星は星のままかがやくように思われるのである。――で、そのどことなくその星星の不安定感を埋めるように、学問の講演化が始まる。

学会にも、愛好家や信者から転向して研究も変わりましたみたいな人がいるけれども、本質的に転向ではないし、実際の處は人に合わせた、のが実態である。これも、なにか、星星に自分を勝手に数え上げている証拠である。牢屋に放り込まれるということがいかに転向にとって本質的だったかということがわかる。牢屋とはこういう場合、作品である。

裏小路のゴミ溜にきて何かあさる痩せ犬の目が人間らしかつた   並木凡平

松澤俊二氏の『プロレタリア短歌』には、上のような短歌がたくさん載っている。牢屋に入っていた人もいる。この本を古本で買ったんだが、前の持ち主が、この短歌に絵文字つきで「ぴえ~ん」と落書きしてあった。こういう反応の方が、星星を見よ、という研究より好きである。

反オープンスペース論

2024-11-15 23:01:35 | 文学


 私はこの不良少年の中学へ入学してから、漠然と宗教にこがれていた。人の命令に服すことのできない生れつきの私は、自分に命令してそれに服するよろこびが強いのかも知れない。然し非常に漠然たるあこがれで、求道のきびしさにノスタルジイのようなものを感じていたのである。
 凡そ学校の規律に服すことのできない不良中学生が小学校の代用教員になるというのは変な話だが、然し、少年多感の頃は又それなりに夢と抱負はあって、第一、その頃の方が今の私よりも大人であった。私は今では世間なみの挨拶すらろくにできない人間になったが、その頃は節度もあり、たしなみもあり、父兄などともったいぶって教育家然と話をしていたものだ。


――坂口安吾「風と光と二十の私と」


だいたい巨大ロボットには不良が乗ると決まっている。エヴァソゲリオンのシンジ君は違うじゃないかという意見があるかも知れないが、全国の中学校の先生に聞いてみたまへ、やつみたいなやつこそ扱いにくい不良である。そしてその不良は、坂口安吾みたいに案外「先生」に向いている、命令に服せないだけで、命令をしたいタイプだから。で、マジンガーZの「まじーんゴー」とか「ろけっとぱーんち」という乱暴な呼びかけ(命令)を発するわけであるが、機械は条件反射で命令に服する。ロケっとパンチが「よく聞こえません」とか言い始めないところをみると、いまのAiの音声認識よりは優秀であろう。いや、だから兜こうじくんはアンナでかい声で叫んでいたのか。でもときどき「女のくせに生意気だぞ」と言っているのをマジンガーZはどういう命令として聞くのであるか。機械の彼もそろそろ自我にめざめるときである。ちなみにエヴァソゲリオンは、シンジ君の母なので、論外でアル。母親の甘さは餓鬼にしか有効ではない。

世では、よく旅の計画を練っているときが一番楽しいとか言うのだが、――私がいちばん楽しいのは自分の家での朝食だ。世界に縛られたくない私は窖を好むからだ。

今日、坂出に会議の司会をするために電車に乗っていた。すると、先生に引率された幼稚園児の集団に電車の中で会った。とてもおとなしく上品でびっくりした。全体の傾向とはかぎらないが、私の幼稚園時代(病気でほとんど行ってないが)の周囲の園児を思い出すに、野獣のように電車の中で走り回ったりしてたと思う。人間は最近野獣から半羊神に進化したのであろうか。谷崎の「魔術師」のラスト、半羊神の出現は群衆社会の帰趨、予言であったか。。。もしれない。窖から出た人間はついにオープンな羊と化したのであった。

小都市のかなり頑張っている図書館が、駅前の再開発ショッピングモールに吸収されて崩壊みたいなことを最近よく目撃するのだが、都市計画だの観光資源だみたいなもっともらしい屁理屈よりも、まずもって、本にはコーヒー、おしゃれな空間で本をみたいなheavyな感性が許せない。本には本、窖で本だろう、常識的に考えて。

オープンスペースは奴隷船の空間だ。

ここ6年ぐらい、共通科目で、敢えて学生に「感想文」を書いてもらうという試みをやったり、意見交換をさせてみたりしたが、やはり「敢えて」やる教育はだめだ。集団的承認をえた感想というのは修正する契機が失われる。がちがちにこちらが修正してもだめだ。思うに、小説は組織化された集団のようであって、小説に対する感想は、テキスト内の文脈を無視出来ない。――からなのかそこそこの感想にしかならないが、俳句や短歌の場合はけっこうひどかった。これはわたくしが短歌についてよく知らないというのも関係しているんだろうが、どうもその酷さは短歌の流行の本質とも関係ある気がしている。短歌はオープンスペース向きで、小説は組織なのである。わたくしは、組織が集団とは違う点を支えに生きている。

いくいなさんとかいまいさんが政治的重要ポストに就いたとかで絶望しているみなさん、いつものチーム何とかとかオールジャパンとか協働でなんとか出来るでしょしらんけど。むろん、彼らが真の意味で組織人であれば大丈夫だ。しかし我々の社会はもうそういう組織人を生み出せない。

深夜は睡るに限ること

2024-11-14 23:48:21 | 文学


 先ず、急を要することは、全国の風光明媚なる高原に、海浜に、幾千万の精神病院をつくることである。国家的な大事業であり、疲れたるヤカラをみんな送る。看護婦もたくさんいるし、輸送も大変、催眠薬の製造も忙しい。睡眠省とか、睡眠大臣というものが必要であり、初代の大臣は私がならなければならないだろう。私がこんな心配をしなければならないのも、深夜のメイ想などという不健全な古典的言辞を弄する精神匪族が残存しているせいである。

――坂口安吾「深夜は睡るに限ること」


わたしの知り合いの政治家もあまり寝ないで忙しいのだが、――あんな働き方が普通の人間にできるはずがない。しかし、アドレナリンだけが猛烈に出ているようなやつらの頭がまともかどうかもわからん。もっとちゃんと寝ればもしかして国を誤ることも少しはヘルのであろうか。

そういえば、わたくしのでたT大学はますます樹海の中に埋没しつつあり、もっとも物質的に開かれていたのは、移転反対派や移転賛成派がリンチに遭っていた開学当時であるといへよう。キャンパスの夜なんか、むしろ暗黒に開かれているとしか思えない明度である。一度、停電の時に歩いてみたんだがほんと何も見えなかった。わたくしも当時、いっちょ前に暗黒が嫌いであった。だから夜も起きて本を読んだりビデオを観て遊んでいたきがする。

赤川次郎は規則正しく朝からきっちり仕事をして量産した。勤め人のハイドンが交響曲を量産したのはその意味でわかるような気がしないではない。が、ミヤスコフスキーとかがよくわからん。

一日中白昼夢のようなわたくしは、わりとすぐに夢に見る人で、最近は斎藤史とかローラ・パーマーと夢で会った。

叛乱譜と松田聖子の同時代

2024-11-13 23:15:12 | 思想


「非国民の子」は敗戦の日までのはずであった。しかしそれは、逆の意味で戦後も引きつがれることになる。人々にとって戦争は悪夢であり、それは早く忘れたいものであった。しかし、「非国民の子」は常に戦争と共にあった。しかもそれは、常に戦争推進に協力してきた自分の過去そのものであり、日本の敗戦にもつながるものであり、それは社会的にもいえることであった。人々は「戦争」に対する価値観の百八十度の転換の中で、自らを平和主義者に転向させた。その人々にとって、「非国民の子」は戦争を背負っており、逆の意味で「非国民の子」を象徴していたことになる。これに対して、ベビーブーム世代は『新生日本の子供たち』と呼ばれ、社会的にも歓迎されていた。戦争という苦難からの解放、人生を新しくやり直すための一つの象徴的存在がベビーブーム世代にはある。彼らは、時代的にも、敗戦による極度の混乱が収拾してから生まれており、そこに敗戦を背負う戦時中生まれとは大きな差がある。

――田中清松『戦中生まれの叛乱譜』


田中のこの世代論は1985年のものである。だいたいの転向者というのは、その実「回帰」しただけだみたいな、雑な真実が横行するようになってから随分たつが、田中をはじめ、そこそこ戦後の世代問題が複雑なことはみんな自覚があった。それが、戦中で苦闘した連中はいやだったに違いない。たかが敗戦ぐらいで自分たちの思索をなかったことにしてもらってはこまる。だから花田清輝なんかも「ヤンガジェネレーション」よと喧嘩を売ったし、対して埴谷雄高なんかは「花田清輝よ」と固有名を強調したりする。むろん、自分がその世代問題に巻き込まれるのがいやなのだ。花田と埴谷には別の方向ではあったが逃避があった。

坂口安吾もそうであった。

個体発生は系統発生を繰り返す説があやしいように、青春から成熟に向かう時代があるとは思えない。安吾の堕落論が青春論とセットであるように、何か個人のなかに歴史を見すぎ、歴史の中に個人の発達みたいなものを見過ぎているのではなかろうか。それも逃避の一形態である。

そうなると、われわれは、人間の堕落とか弁証法以上に、身もふたもない状態を望むようにはなるわけである。プロレタリアートは絶対正しいと言っていた戦前の知識人はけっこう居たように思うが、それ以上に、ほんと絶対正しいんだ正しくなくても、という状態を主張している我々よりは、観念的ではない。

――ところで、「生めよ増やせよ」政策から疎外された、戦争末期の「非国民の子」のことを考えていたら、わたくしの庭のことも思いだした。だいたい「生めよ増やせよ」は単独の政策ではなく、ナチスを真似た「健康な結婚」道徳政策、根本的に差別的健康政策であることを看過してはならぬとおもうのだ。我々は、健康を謳いながら、ウメよフヤせよにはならず、他人の介護に直面している。それがいやな人間が、じぶん以外の破滅をのぞみ始める。そういえば、我が家では、かかる優生学に反対し、雑草と蛙を最優先にしてたら綺麗なお花が全滅した。

そういえば、津村喬の「横議横行論」ていうのは、1980年頃の論文だったのである。田中の本よりも5年早いが、わたくしは勝手に70年頃だと思っていた。ある意味で松田聖子と同時代性があるわけである。

前川左美雄対木俣修――植物とカレー

2024-11-12 23:30:44 | 文学


誰もほめて呉れさうになき自殺なんて無論決してするつもりなき

わけの分らぬ想ひがいつぱい湧いて来てしまひに自分をぶん殴りたし

五月の野からかへりてわれ留守のわがいえを見てるまつたく留守なり


前川左美雄の『植物祭』は、学生の反応が「おっいまどき」みたいな反応過ぎてぐっとつまり。

これに比べると、木俣修の『昭和短歌史』はカレーを食べるみたいなスピードで読めるね。

地域密着型代議士のスキャンダルについて

2024-11-11 23:28:21 | 文学


やぼはいやなり、中位なる客はあはず、帥なる男めにたまたまあへば、床に入ると、かしらから何のつやもなく、「女郎、帯とき給へ」といふ。「さてもせはしや。おふくろさまの腹に十月よくも御入りましました」などいうて、すこしは子細らしく持つてまゐれば、この男いひも果てぬに、「腹にやどるも、これからはじめての事。 神代以来、この嫌ひなる女郎はわるい物ぢゃ」と、はや仕掛けて来る。それを四の五のいへば、「むつかしい事はござらぬ。さらりといんでもらひまして、女郎かへて見ましょ」


なにか不倫?事件があると、相手の異性だけでなく本人も頭良くないみたいなキャラになってしまっているが、本人も頭脳明晰、相手が紫式部みたいだったかもしれないじゃないか。テレビでは「欲望に負ける男はだめ」みたいなことを若い女子が言うていたが、たしかに上のように野暮な男はいやなものだ。好色一代女でなくてもぶん殴りたくなる。

だいたい、日本の政治家は北村透谷を読み直した方がいいんじゃないかな。恋愛は厭世詩人の最後の砦である。

センシユアル・ウオルドを離るゝなり、吾人が肉を離れ、実を忘れ、と言ひたるもの之に外ならざるなり、然れども夜遊病患者の如く「我」を忘れて立出るものにはあらざるなり、何処までも生命の眼を以て、超自然のものを観るなり。再造せられたる生命の眼を以て。


「夜遊病患者の如く「我」を忘れて立出るもの」は詩人に任せろ。

伊藤博文や最近の札の絵になっている人の10倍ぐらい愛人がいるとか、おれのツイッターはフォロワー100万だぜとか、俺のかいた両界曼陀羅圖をみろとか威張っているような政治家はどこかにいないのか。詩人が対立しようがないではないか。中学生の頃、東大に入るひとたちは、例えば性欲を学力に転換するような化け物だと思っておりましたが、江川達也の「東京大学物語」でそれが幻想だと知りました。というのは、全くの嘘であるが、江川氏のような創作もどこか野暮なものとはなにかという観点を閑却し、性慾か学力かみたいなところがあった。で、こういうマンガまで、ナラティブの概念を存分に利用して、何かを言った気になっていたのは否めない。

庭の雌の蛙は、――雄かも知れないが、実に清潔である。このまえFMで一九六六年録音の「ピーターと狼」をやってたが、ピーターを池田秀一氏がやってた。まだ十代のシャア大佐である。実に清潔な声であった。

世は好色一代女の時代に比べて複雑になってしまった。中央集権の国民国家体制だから、――そのなかで、不平等な自由な主体が、良心的な奴隷を生産してしまうのである。政治家や芸能人もどこかしら、その不平等性を望んでいる。彼らが、客や人民の前でかれらと平等な主体であることを強いられることは、かなりの抑圧である。

ある者はずるいから、平等に安心立命しながら暴力をふるうことを考える。横関至氏が論じていたと思うが、戦時下の安全運動というのはまったく戦争と無関係どころか強力なエンジンであった。もっとも、それは戦争に限らずエンジンなのである。それは安全論者たちの保身を合理化するものでもある。下品な比喩をつかうならば、それはいってみりゃ避妊具なのだ。