科学理論は実存の再現であるといふ独断も、科学の発達により、科学者自身の間でも信じられなくなつてきた。かういふ反動期から、象徴派詩人たちの仕事を顧みると、それは単なる頑固な孤独な審美的作業とは考へられなくなる。彼らは、あたかもこの反動を最も熱烈に準備してきた
――小林秀雄「詩について」
たしかにそうかもしれないが、文系なのに科学的であるところのマルクス主義者たちなんかは、上の事態に気付くのが遅かった。しかし小林の目に映っていないのは、熱烈ではなく準備する者達である。そのなかにはキリスト者たちの裏切りを反復して、古典的劇をメランコリックに再現しようとする連中までいるのである。彼らも何かを準備していることはたしかなのだ。
そういえば、なんだか、台湾に負けたら投手に転向すると言ってしまった選手が話題であるが、米国に負ける前にマルクス主義者が転向したのと同じで、また再転向するから何の問題もない。大谷ばっかりに注目していると、科学的なものが却って目標曼荼羅みたいなものを呼びよせるのだ、みたいな亜哲学が生じるのであるが、もっと転向を繰り返す愚鈍な人々を見なければいつまで経ってもこのよのなか戦乱である。
昨日、大河ドラマで、紫式部に棄てられた道長が坊主になったらしいのであるが、良く思い出して★い。紫式部と奴が何処で子供をこさえたかを。寺で生を生じさせたんなら、道長は世を捨てたつもりでまた恋の道に舞い戻ったとも言えるのである。出家はやはり転向の一種である。
のみならず、昨日は野球の日本代表か何かが台湾に負けていた。これには既視感がある。大谷を擁する最強日本チームもそういえば中日ドラゴンズだけには負けていた。現在の日本代表の監督はもと中日の選手である。落合監督が中日の監督のときも、たしかはじめて中国かどこかにまけていた。中日がそもそも中国を想起させるみたいな頭が沸いた御仁がネットにはいたが、それはともかく、――もはや、歴史の必然として戦後復興がくるのではなかろうか。
「桜島」が私の処女出版。(なぜ童貞出版といわないのか、男をばかにするな)
――梅崎春生「桜島(気宇広大なあとがき)」
梅崎も、丁寧に処女作に転向(回帰)していった。その「幻化」はすさまじい傑作である。
いまわたくしが注目しているのは、短歌がその転向の反復を阻止する役目をいつもやっているのではないかという仮説である。したがって、わたくしは、――三島由紀夫の作戦に乗って、今週の共通科目の授業で、三島事件もあさま山荘もなにゆえ本人たちは短歌で総括し決着しようとするのか、みたいな話を少しするつもりである。
技術社会の進展が、技術の自己目的によるオートマティックな一人歩きをはじめる傾向に対抗して、国家はこのような自己内部の技術社会のオートマティズムを制御するために、イデオロギーを強化せねばならぬ傾向にある。
――三島由紀夫「反革命宣言」
転向はむしろ、上のオートマティズムに似てるんじゃないかという直観は私でなくてもだれでも持つきがするのだ。三島の萬葉集による楯の会、その短歌を最後とする作家人生、その三島由紀夫の最期が狂気に見えてしまうほど、連合赤軍のそれがなぜかオートマティズムに見えてしまうというそのことについては、むかし少し書いたことがある気がするが、最近短歌の勉強してもう少し分かったこともあった。短歌は都合良くオートマティオックにならない機械であったのである。
しかし――
俵万智の「サラダ記念日」は、当然、「カラダ記念日」とかにパロディにされることを見込んでいただろうし、それを承知でやってしまう筒井康隆もあれであるが、これは連合赤軍とも三島とも違う、オートマティズムだったのではなかろうか。
もはや、五が七より少ない、最後は多い数の連続で始末をつけようといった、ささやかな数の戦略も無効になりそうだ。ほんと現実でもテレビでもネットでもみんなマジョリティとマイノリティの話ばっかりしている。ほんと勧善懲悪とは実は支持者の数の暴力である。それを写実で乗り越えようとした歴史がついに教訓に見えてきた。二葉亭四迷萬歳。