人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

先天的なもの

2019-12-04 12:09:44 | 哲学・思想
私はしばしば、"身に覚える"なんてことを言ったりしています。
何度か触れているように、それは身体的、肉体的なもののみについて言っている訳ではありません。
これは意識とも結び付いているのです。心身一如的なものです。
身に覚えていることは、単に心に抽象的に思い描かれる記憶ではなく、とても具体的に感覚されるものです。(単なる肉体的感覚とも違うものですが...)
これはもう、そう感じてもらうしか伝わらないものですが、そこで"意識が向く、向いちゃうと、パッと...こうなる"、というこの即応性は、意識とその身体的記憶とは相関がある、ということを物語っているのでしょう。
このことを強調することは、宗教やスピ界隈に蔓延している、思考マインドが作り出しているだけの抽象的な観念信仰と区別しようという意図もあるのです。
思考ならぬ意識、身体というものは、我々が思考してその存在を信じる、という先に既にあるもの...先天的なものです。
精神と肉体とを分けて(便宜的にそう理解する場合もありますが)"考えたり"、偏った精神主義者のように物質的、肉体的なものを病的に蔑視し、傲慢にもそれを無くさなければ精神的に進化しない、などと考えたりするのも、後天的な思考で思い描いているだけのことです。
観念的に思考するだけでしたら、物質主義も精神主義も変わりはないでしょう。
どっちみち、観念の堂々巡り、観念の遊離を繰り返しているだけです。
先天的なものにこそ、我々の精神の安定、安心が求められるのではないでしょうか? そこに神的なものがハタラクであろうから...

私はついこないだの先月(何年も前のことのようにも思えます)、近年に経験したことの無いような重い風邪に見舞われ、その感覚を失ってしまったのでした。
記憶にございませんi 分かりません、出てきません...頭の記憶なら何か思い描いて書けばいいのでしょうけど、書けませんi
それは単純に考えれば身体面での疾患です。身体を患ったら出てこない、ということはこの身体的記憶というものを反証したことになるでしょうか?
そして、その何かが詰まってしまった、滞ってしまった、パッとならない、という苦しみは意識面とも重ねられたのです。これも心身一如ということの反証になるでしょうか?
そこで改めて"身をもって"感じさせられました。先天的なものあっての私なのだ、と...
当たり前のように、自分のモノのように感じてたら、アカンのや、ということを...
まあ、そういう風なことも思わされたのですが、思いというものもそうだけど、自分の感覚というのもあてにならないものがありますねえ...
失った訳じゃあなかったのです。だってこうして何たら、こうたら書いている訳だし...
開通したことは素直に喜び、感謝したい気持ちでいっぱいです。
思い上がりかもしれませんが、よく分からないことながら、この不通、開通の事態は決して私だけのこととは思えません。
今、どこかで閉ざされ、詰まり、滞っている事態(世の中全体がそうなっているのか?)があれば、どうか思いを超えたものが臨み、開かれて欲しい...
身体性、意識というものは、個的なものであって、個的なものを超えているのですから...
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信仰なんてもう沢山i

2019-12-03 10:41:12 | 宗教
先日、あるキリスト教系の集会で、ある人が私に「あなたはイエスが十字架にかかって、私たちを救いたもうた、という事実をどう受け止めているのですかi」という、ニュアンスのことを突き付けてきました。
知るかってんですよi
私が場違いなところに来てしまったのかもしれませんが、クリスチャンでもない私が何でそんなことに答えなければならないでしょうか?
この人は多分私のそういうスタンスも知っていたかと思います。
彼から私は「自分の信仰などあてになりません」と、小池先生みたいなことを何度も聞かされているのです。なのに"何で自分の信仰をあてにするようなことを言ってくるかなあ"、と感じた次第なのです。
そして、彼はその"十字架信仰"について、「こんな客観的事実を何で信じようとしないのですかi」とまで言及したのです。
んもう...こんなことが客観的事実たり得る訳ないじゃないですかi んなこた、"客観的に考えれば"分かることでしょうに...
キリスト教以外の他宗教の人は信じてません。問題にならないです。
ま、彼は自分の信仰を力説するあまり、はずみでそう言ったのでしょうけど...

"自分の信念、心情、思い描かれた世界に取り込まれた信仰...
信じるものと信じないもの、正しいものと誤れるもの、救われるものと救われないものとを分かつ信仰...
常に抽象的な議論、"お話合い"に終始して、少しも言葉を超えた内実に至らない、それが伝わってこない信仰...
自分の狭い観念世界に閉じ込められ、絶えず何ものかから脅迫観念をもたらされ続けるような信仰...
お追従者、思考停止病者ばかりを作り出す信仰...
こんなものは、もう本当に、ホントーに沢山だi"

私は必ずしも、例えばこのイエスが十字架にかかられたことを通して、それがどういうことを指し示しているのか、内実を持っているのか、ということを否定している訳ではありません。
私は、先の場でこのことについて触れようとも思いましたが、どうも、ああでもない、こうでもない"信仰論議"(これには私も加担しました)に取り巻かれたようで、そういう気が起きてきませんでした。
これは私の"主観"では、神仏、人の思いを超えたものへの"全託"ということの中に示されているように感じています。
自分の信念、観念、信仰...要するに思いというものは、それを超えたものに明け渡される、ということです。
表層的信仰は根っこの方で、神的なものに裏打ちされるのであり、自分の信仰に取って代わってしまったならば、生きたものにはならないでしょう。
このことはおそらく、古今東西のあらゆる宗教世界に通底していることかと思われます。十字架云々という表現は、別のそれで言い表されるのでしょう。
ここに"普遍的事実"というものに与れるかもしれません。
普遍的事実は普遍的なものとのつながりにおいて開かれてくるものでしょう。
これは客観的事実とは丸っきり違います。
客観的に証明されたものが、普遍的事実になってしまうならば、神仏は見えるモノと同様に理解され、これほどの真理の蹂躙は無いと言えるでしょう...。

こういう風に書いてゆくと、どうしても私は熱くなってしまうところがあります。
このこと自体が"熱狂的信仰"に映る向きもおられるかもしれません。
どう思われようが自由ですが、私はどこまでも自分の信仰なんぞは十字架にかからんことを望むばかりです。
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幸福と神

2019-12-02 12:01:19 | 
人は皆幸福を求めて生きています。
今、苦難、不幸にある人はそれから逃れようと...
お金がたまったら、幸福になれる、その先にある幸福を見据えて、夜も昼もつらい仕事をする人も...
同じように苦しい修行に打ち込んでいる人も...
窃盗、詐欺、殺人でさえ、そうしたら今より幸福になれるという思いから手を染めてしまうのではないでしょうか?
シモーヌ.ヴェーユは苦難、不幸と真摯に向き合おうとしました。最後は拒食症のようになって、夭逝してしまいましたが、それもやはりそれを通して、人伝でない生粋の神的なものに与ろうとしたからです。
それはこちらから進んで苦難、不幸を求めるということとは違います。そういうのはどこかおかしい、不自然です。
良し悪しはともかく、苦しみから離れようとする、今より幸福になろうとするのが、人間のごく自然な感情の発露と言っていいでしょう。
しかし...ご存じのようにそれを求めても、幸福になれるとは限りません。
かえって、今よりももっと不幸の種を背負いこむことにもなりかねません。
私たちは幸福を追い求めど、幸福にあることがどういうことなのか、いやそれが求めて得られるものなのか、ということさえ分からないのではないでしょうか?
"ああ...それでも幸福を追い求めなければならない人間の悲しいサガよ..."
ちょいちょい、引き合いに出すことですが、私は苦難で押し潰されそうになった時、西の空にだんだん赤に、紫に染まってゆく夕日を見ているうち、"僕はどうしてこんなに苦しみに沈んでなきゃならないのだろう? 空があんなに美しいのに..."と、感じ入ってしまったことがありました。
それは苦しみから逃れようと、幸福を手に入れようとして、そうなったのではありません。
一寸意識してみれば、そういうものは、何が契機になり、媒体となるのか分からない、そこらじゅうにあることが分かります。
幸福を求めることは、ごく自然な人間の感情だと言いましたが、もっと言えば幸福に赴くことが、ごく自然な人間の有り様だとは言えないでしょうか?
自然にそれに赴くということは、その幸福は求める以前から与えられている、先天的、本来的なものと言えるでしょう。
そして、それにあることはどういうことなのか、よーく味わってみれば...愛、平安と共にあるということが分かります。
それを欠いた幸福など、一体何であろう...そう呼べるものなのでしょうか?
求めても得られない、得たとしても幸福そのものと結び付くのかどうかも分からない...しかし、それは何かを手にしていなくとも、何かをしていなくとも、元々あるものなのです。
先の例で夕日はあくまでそれを見ることが契機であり、媒体なのです。ということは、それを見ていればいつも幸福に与れるかどうかは分からないのです。
この見えるものの奥には見えない神的なものが隠れている...それが映し出されている...愛、平安はそこから来る...
神的なものにある時、それに与れないということなどあり得ようか?
それは、一つのものなのだから...
それと共にあることは、たとえ見たままの今がどんなに苦難、不幸にあったとしても、真の幸福に与ることが出来るのです。
幸福は求めても得られないかもしれません。しかし、苦難にある時、人は神を求めるものでしょう。
これは何も難しい話じゃありません。どうしたってそれは神を手に入れようとする目論見にはならないでしょう。祈り心に自然とさせられるものです。
それがもっとも人間の自然の有り様なのかもしれません。


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