簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

西大寺市 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

2021-08-27 | Weblog
 古代より県下の河川では、小さな海舟がある程度のところまで遡って
いたが、中世に入ると急流を上下するに適した独特の構造を持った舟が
現われ、かなり上流まで遡るようになった。

 これが「高瀬舟」で、記録によると吉井川では標高88mの津山まで、
旭川では159mの勝山、高梁川では65mの高梁辺りまで通じていたと考
えられる。(「岡山の交通」昭和47年5月 日本文教出版)





 岡山市東部に位置する西大寺(旧西大寺市)は、吉井川の河口に開け
た町だ。吉井川は、上流の美作との間で舟運が開け、この地区の流域に
も幾つもの川湊が有った。
 また古くから金岡荘と言われる荘園で、舟運の拠点・金岡湊が有り、
西大寺観音院の門前町としても栄えていた。





 上流から高瀬舟により運ばれ、集積された物資は、これらの川湊で陸
揚げされ、或はここを中継拠点として北前船に積み替えられ、瀬戸内海
航路を経て各地に運ばれていた。
当時そんな商湊として繁栄していたのが、吉井川河口西岸の西大寺・金
岡湊である。

 江戸時代に入り、沿岸で干拓が進み、開発された新田では、「綿花」
や「い草」の栽培が奨励され、これらは川湊から各地に売られ、町の財
政を潤し、繁栄の礎となっていた。
明治になると地元資本による紡績工場、織物工場や製紙工場が相次いで
設立されている。




 
 繁栄を続ける町は、戦後間もなく周辺14町村と合併し、「西大寺市」
を名乗る。
町に勢いのある時代であったが、それも長くは続かなかった。

 昭和44(1969)年には岡山市に編入合併し、平成21(2009)年には、
岡山市の政令指定都市移行により、東区に入り現在に到っている。(続)




にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 軽便鉄道 (西大寺鉄道廃線... | トップ | 軽便鉄道の開通 (西大寺鉄... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事