瀬戸内海に面した児島は、明治時代から繊維の町として栄え、岡山県
下ではアパレル製品の産地として知られたところである。
今でも関連する企業が多く立地している。
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元々ここは海に浮かぶ小島で、江戸時代から行われた干拓により地続
きに成り、新田が造成され広げられた地であった。
しかし塩分の多い土はコメ造りには適さないことから、変って塩気に強
い綿花の栽培がおこなわれる様になったという。
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当時からこの近辺には人口が多く、労働力が豊富にあったため、綿花
を栽培し、糸を紡ぎ、機を織った。
それが今日の主要な産業に成長した歴史を秘めている。
大正時代に入り県外から大手の企業が進出するようになると、いち早く
生活様式変化に目を付け、足袋や学生服・作業服への製造に舵を切った。
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学校や企業のユニフォーム、作業着、スポーツウエア、介護ウエア、
子供服など、多岐にわたるユニフォーム類の生産実績は、たちまち日本
トップクラスに成長した。
その中心がここ児島地区で、中でも昭和初期の学生服は、その9割が当
地で生産されていた。
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大正2(1913)年には、味野町(後の児島)と茶屋町との間に下津井
軽便鉄道が開通し、国鉄宇野線との接続が可能になった。
同鉄道はその後、児島の市街地を抜け瀬戸内に面した湊町、下津井まで
延伸され港からは四国への舟便連絡も便利になった。
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こうして交通の利便性も高まった町は、活気に溢れていた。
そんな街の「味野商店街」は、購買意欲も盛んな多くの人口に支えられ、
かつてはこの近辺では最も栄えた商店街だった言う。
しかし何時しか、通りからは人の姿が見られなくなる。
やがて店舗もそれにつれ減少、空きが目立つようになり、気が付けばネ
コが闊歩するシャッター通りに変わり果てていたそうだ。(続)
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