国道の脇、右手の小路口に古い道標が二基建っている。
向って左の道標は、天明8年(1788)の建立で「たかのよつぎかんおん
みち」と刻まれ、高野の世継ぎ観音(永源寺)への案内である。
ここから笹尾峠を越え鎌掛、八日市を経て、中山道愛知川宿手前の小
幡までの十里余りの脇往還が伸びていた。
右の道標は、文化4(1807)年の建立で、「右 北国たが街道 ひの
八まんみち」と刻まれている。
日野、八幡又多賀大社や北国街道への道を示しここが追分けで有った。
説明によると、寛永17(1640)年、三代将軍家光の乳母春日局が将
軍の名代として多賀大社に参拝し、この道を通って伊勢神宮へ参詣した
際に、この往還は整備拡張された。
皇室には祖先神として敬う天照大神が祀られている伊勢神宮と多賀大
社へ詣でる習わしがあったが、多くは代参の使者が定期的に訪れたこと
から御代参街道という名が付いた。
「お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる」
多賀大社は天照大神の親神の伊邪那岐と伊邪那美の二神を祀られてい
て、 その往きか帰りには必ず多賀大社へ参るものとされたのである。
江戸時代に入ると、各地の庶民の間でも頻りに、伊勢神宮参拝が行わ
れるようになった。
京からは伊勢街道で、江戸からは東海道で伊勢神宮に詣で、帰路土山
宿に出て、ここから多賀大社に向かった。所謂「両参り」の風習である。
東海道はその先400m程で野洲河畔に出る。
昔は松尾川と言い、松尾の渡し場跡である。「十五間の土橋有り」と言
われたが、今は橋も無く、下流の国道に迂回して白川橋を渡る。(続)
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