源義仲(木曽義仲)は、平安時代末期の源平合戦で活躍した武士だ。
信濃源氏の一統で、源頼朝・義経とは、従兄弟に当たる。
義仲の生誕から前半生に関する史料は乏しく、出生地は父・源義賢が
館を構えた武蔵国の大蔵館との伝えが一般的らしい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/c8/006451a6cbc7e341089d88691de3daef.jpg)
義仲は以仁王(高倉宮・後白河天皇の第三皇子)の令旨によって挙兵、
俱利伽羅峠の戦いでは10万とも言われた平氏北陸追討軍を破り、その勢
いで兵を挙げ、都に入り名を成した。
時の義仲は、「まるで朝日が昇るような勢い」だった事から、朝日将軍
と呼ばれるようになる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/1e/e060f5fbf1760b31146d82deb50e0d28.jpg)
「傲れる者久しからず」の通り、義仲の盛時は長くは続か無かった。
都に入ったものの、義仲の指揮下にあった京中守護軍は充分に機能せず
瓦解状態である。
加えて共に挙兵した叔父の源行家との仲も不安なものとなっていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/d7/2e869d350b0ec81533d7d2c7a4b64d7f.jpg)
後白河法皇は、義仲放逐を決意する。
その後源頼朝の命を受けた源範頼・義経らによって京を追われ、粟津
(あわづ)の地で討ち死にする。享年31才であった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/39/5d2429eb7dbdff4273c4c5ce2bb57385.jpg)
巴御前は女ながら、義仲と共に戦い、最期を共にしたいと懇願する。
義仲はそれを受け入れず、逆に「自分の分まで生きろと」と諭され、泣
く泣く死に別れることになる。
巴は落ち延びたがやがて、鎌倉幕府に捉えられてしまう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/1f/01863574beb2c67dfcc6e02cfd029b56.jpg)
後に和田義盛の妻となった巴だが、義盛の死後尼僧と成り各地を巡る
中、当地に留まり義仲の菩提を弔った。
その後どこともなく立ち去り、何時しか故郷の信濃国木曽に移り住み、
91年の波乱の生涯を閉じたと伝えられている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/c8/b0d44de730122ebf7f33c9a15f065aac.jpg)
境内には義仲の墓が有るが、これは首から下の胴塚で、首塚は京都の
八坂神社近くの法観寺にあるそうだ。
義仲の墓の横に建つのが、巴御前の供養塔である。(続)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/c5/608a98fcd1340cbecac4921275227ec4.jpg)
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信濃源氏の一統で、源頼朝・義経とは、従兄弟に当たる。
義仲の生誕から前半生に関する史料は乏しく、出生地は父・源義賢が
館を構えた武蔵国の大蔵館との伝えが一般的らしい。
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義仲は以仁王(高倉宮・後白河天皇の第三皇子)の令旨によって挙兵、
俱利伽羅峠の戦いでは10万とも言われた平氏北陸追討軍を破り、その勢
いで兵を挙げ、都に入り名を成した。
時の義仲は、「まるで朝日が昇るような勢い」だった事から、朝日将軍
と呼ばれるようになる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/1e/e060f5fbf1760b31146d82deb50e0d28.jpg)
「傲れる者久しからず」の通り、義仲の盛時は長くは続か無かった。
都に入ったものの、義仲の指揮下にあった京中守護軍は充分に機能せず
瓦解状態である。
加えて共に挙兵した叔父の源行家との仲も不安なものとなっていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/d7/2e869d350b0ec81533d7d2c7a4b64d7f.jpg)
後白河法皇は、義仲放逐を決意する。
その後源頼朝の命を受けた源範頼・義経らによって京を追われ、粟津
(あわづ)の地で討ち死にする。享年31才であった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/39/5d2429eb7dbdff4273c4c5ce2bb57385.jpg)
巴御前は女ながら、義仲と共に戦い、最期を共にしたいと懇願する。
義仲はそれを受け入れず、逆に「自分の分まで生きろと」と諭され、泣
く泣く死に別れることになる。
巴は落ち延びたがやがて、鎌倉幕府に捉えられてしまう。
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後に和田義盛の妻となった巴だが、義盛の死後尼僧と成り各地を巡る
中、当地に留まり義仲の菩提を弔った。
その後どこともなく立ち去り、何時しか故郷の信濃国木曽に移り住み、
91年の波乱の生涯を閉じたと伝えられている。
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境内には義仲の墓が有るが、これは首から下の胴塚で、首塚は京都の
八坂神社近くの法観寺にあるそうだ。
義仲の墓の横に建つのが、巴御前の供養塔である。(続)
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