まこの時間

毎日の生活の中の小さな癒しと、笑いを求めて。

お給料

2015-06-12 | 暮らし

封筒に入った給料をもらった。3年前に会社を辞めて以来、久々に嬉しい。長年勤めていた会社はタイムカードはなかったので、押し忘れそうになる。また、給料は振り込みだったので封筒でもらうと若いころを思い出す。午後数日しか行っていないので、雀の涙ほどだが、出るのと入るのでは大きな違いだ。

さて、お洋服も美味しいものも買わない。早速、竹矢を買うことにした。先日、全日本弓道大会の県予選に称号者は極力出るようにと言われたが、弓が回らない者は錬士は無理だと言われ、今では五段も無理と言われ、角番状態の技量で人前で披露できるものではないと思ったが、それより何より引く矢がない。競技用のミズノの1913はあるが、竹矢はぼろぼろで、唯一持っているのは、大鳥の「薄兵尾」で、絶滅危惧種のものは使用禁止とのお達しが出た。

自分の物なのに使えないとは、晴れの舞台のために買ったのに残念である。同じ思いをしている弓道人は多い。そうでない矢は自身で「トレーサビリティ」を作って、いつでも提示できるように持っていることとの通達。弓道場のどこかに監査役が潜んでいるのか。内部統制の者がいるのか。世の流れには小市民は抵抗できないのである。矢の使用禁止は仕方ないが、憲法や原発に関しては黙っていてはいけないだろう。

話は戻すが、さて、お給料を遊びに真っ先に使う喜び。同居の婆さんは「うちで遊んでいる。」と、よく言うので、働かないと遊べないのである。実家の父もよく言っていた。「弓なんか、くそにもならん。」と。そういう人にはくそにもならんのである。そうでない人には、禅であり哲学であり、武道であり、スポーツの喜びありなのだ。昔の人は、お給料は真っ先にお米になった時代を過ごしたので仕方がないと思う。


命の重さ

2015-06-12 | 暮らし

友達と「命の重さ」の話をした。わたしは、命はめちゃめちゃ軽いのだと思うと言った。宗教感がないと道徳は壊れるので、子供には「命は地球より重い」などと、世の中で言われていることを肯定しているふりをしている。ここで「軽いのだ」と、言うと、違う意味で問題になるかもしれないので、うかつに言えない。

生まれて10年経ったか経たないかの子供たちに、命を教えるのは難しい。生まれて半世紀を超えても、何も分かっちゃいないのである。

図書館から「死ぬ気まんまん」佐野洋子著を借りて読んでいて、ナウなタイミングで、筆者の「立派に死のう」と思うようになった。というくだりに遭遇した。

「戦国武将の死生観」という本を読んだら、実に名を惜しむのである。思いっきりが良く、恥をおそれて腹を切る。誰も「命は地球より重い」なんて言わない。筆者は侍のように死にたいという。

「関ヶ原」に、麻酔を持った医者が同行していたとは思えない。

さて、わたしは彼女のような死生観があるわけではない。漠然と、人の命はぺらぺら軽いなあと思ったのだ。簡単に召されていくような気がする。長い人生だろうが、短かろうが、その時はあっけなくくる。しかし、悲しみは地球より重いというか、心に重くのしかかる。それで、うつ伏せになって、地球に押しつぶされてみるってどんなかなぁと考える。しかし、地球は自転しているので、地球の上に乗っかってへたばっている。

重いと思うことが、思い違いだ。本当は、儚くて軽いので大切にしないと、なかったも同然になってしまう。

そして、そんなことばかり考えてると頭の中がおかしくなりそうなので、また手の内のことを考えて、弓を引いてみる。中ってもはずれても、残心の姿が悪いのはやはりいやだ。命も軽いが矢も軽い。