地震に名前がついた。「令和6年能登半島地震」と、ニュースで流れた。
昨夜、実家の猫にエサをあげて、しばらく婆さんと過ごしていたが、20時過ぎに娘たちが家に戻ったというのと、TVのニュースでの様子で、わたしたちも帰ることにした。
時折、揺れるので気持ち悪い。服を着たまま寝た。
帰ってから改めて我が家の被害を見た。
箪笥の上のシーツ袋が落ちていた。
達磨も棚から落ちて、頭の上にひびが入った。
これでは願をかけたのが無効になりそうだ。
娘は、飾ってあった皿が割れたとか、棚を開けたら雪崩れて中身が出たとか。
そのくらいの被害で済んだが、能登はそうはいかない。
ニュースでは、珠洲市は壊滅的、輪島の火事も悲惨。
志賀町の家屋倒壊被害の甚大さを繰り返す。
遠くの従姉や、弓仲間からのお見舞いの連絡。
また、能登の弓仲間の安否確認。
里山海道で足止めされた弟たちの脱出の心配。
ゆうべ「どうして帰ろうか見当がつかない」とのLINEあり。
暗くなるので、動かない方が良いし、明るくなってから判断しますとのこと。
陥没しているところがあり動けないのだ。
弟が送ってきた画像。心配で気が気でない。
朝早く弟からLINEで、「車を捨てて歩き出した」とのこと。
周りの人たちとも相談し、徳田大津インターまで6キロほどなので、歩くとのこと。
志賀町の弓仲間が避難しているというので、そのインターに着けば避難所にいけるだろう。
10時過ぎに到着し、警察の誘導で旧土田小学校に到着。
救援物資を頂いて一息とのことで、とりあえず良かった。
暮れに、従弟妹会をしてみんなでグループLINEをつないだことが良かった。
何もできないわたしの代わりに、従弟達のおかげで、励まし、次の行動相談、道路状況、あちこちの情報を交換し、結局、K君が迎えに行くことになった。
避難所から河北までのルート、才田橋が落ちそうだということ、支援の緊急車両が続々北上しているので南下は渋滞するだろう。
津端から金沢方向が渋滞。
能登半島外浦は志賀町まで行けるが、以北は輪島まで道路崩壊のため前進できず。その周辺が渋滞の予想。
あちこち通行止めの情報。
ナビでの渋滞情報を頼りに、K君の救出作戦。
16時44分救助者確保。よかった。
帰り気を付けてね~。。
LINEでつながって、従弟妹達のおかげで助かった。
あたしゃ何もできず老婆が狼狽しただけだった。
LINEでつながって、従弟妹達のおかげで助かった。
あたしゃ何もできず老婆が狼狽しただけだった。
夕方、18時40分に帰宅。
お疲れー。従弟妹LINEでは無事を喜んで終了。
その頃、羽田では支援物資を運ぼうとしていた海保の飛行機と、JALの衝突。
正月明けて2日間つらい・・。