「思いきってはっきりと言わせてもらうけど、我々がドイツでやっているのは、もしかしたら、どのみち半年後には死んでいるような人々を助けているだけのことになるんですよ」。コロナ禍が始まった直後の2020年4月、ロックダウンなどのさまざまな対策について、テレビでこう冷ややかに述べたのは、南独の伝統ある大学町テュービンゲン市の市長ボリス・パルマー氏だ。高齢者への配慮から経済を押さえ込むのにどれほどの意味があるのか、いずれ先は長くない人々ではないか、ということだろう。
ボリス・パルマー氏は緑の党から打って出て市長になった。市長就任後に町の道路を歩行者中心に切り替え、深夜バスを増やし、自らの公用車もガソリン消費量の観点からトヨタのハイブリッド車に切り替えた。
そういう市長なら普通は「人道的な」発言を世間は期待するところだが、こうした「冷酷な」発言が飛び出したために、蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。「新ダーウィン主義の冷血漢」などとも罵倒された。だが、パルマー氏はひるむどころか、似たような発言を繰り返した末に、おりからの難民問題についても、「多すぎる、よほどの事情がある人以外は送り返さざるを得ない」と平気で発言しはじめた。どうやらよく準備された軽率さのようだ。軽率さの中での本音だ。
ボリス・パルマー市長の発言から約1年、高齢者も外に出て賑わうドイツ・テュービンゲン=2021年3月
実際にボリス・パルマー氏以外にも「老人はもう人生を十分に楽しんだでしょ」とか「そろそろお引き取り願ったらどうだろう」といった発言がドイツでもあちこちから聞こえてきた。もちろん激烈な反論も誘発しながらだが。
自分の名前をブランドにする「冷笑系」たち
最近話題になっている成田悠輔氏の高齢者集団自決論も、似たような軽薄さと本音の意識的な混合だろう。もちろん、コロナ禍の防疫対策をめぐる議論と、日本経済の行き詰まり状況からの突破口を模索した発言とは背景が異なるが、そうはいっても、どこか共通した態度、神経のあり方というか、視線の置き方というか、そういったものがあるようだ。
考えてみれば、こうした態度は蔓延している。今や「古典的」とされるリベラルレフトのキーワードの「人権」「自由」「平等」「平和」などを詳しく吟味しないままに、「まだその話しているの」と受け流す。社会保障の負担が若年層にのしかかっているのに、老人たちはのうのうと遊びながら、デジタル時代に向けた社会改造を阻止しているなどと、既成の考え方や権威を、そして深く根を張った癒着の構造をおちょくる。
しかし、富の再分配、欧州型のストライキでの賃上げ、社会福祉の充実、第三世界との新たな関わりといった問題は、論議に上がらない。
そして自分たちは特別だという意識。コロナで重篤状態から復帰した直後は、社会的連帯の必要性を殊勝に語っていたボリス・ジョンソン英首相(当時)だったが、のど元すぎるとロックダウンの最中に官邸エリートだけのパーティ。自粛のお達しがありながら、平気で忘年会をやって感染者を結構出した厚労省の役人たち、そういった例は枚挙にいとまがないが、同じネオリベラルの勝ち組の超法規的メンタリティがある。
経済学者・成田悠輔氏の著書『22世紀の民主主義──選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる』 (SB新書)は20万部を超えた そして、高価なモノほどいいと思う、見せびらかしの成金型消費。有名シェフのレストラン、ドイツ製の高級車、宝石まがいの高額時計などなど。こうしたメンタリティは社会一般の、勝ち組ではないごく普通の市民にまで、いわば日常生活の毛細血管にまで深く染み込んでいる。だからこそ成田氏をはじめとするいわゆる冷笑系の人気があるのだろう。ネット活躍者の名声は「下」からの「支持」があるからだ。
既成の構造をぶち壊す議論といっても、そうした多くの「論客」たちも実は、ブランドという名の既成の権威を広告塔に使っているようだ。超一流大学卒業の「国際政治学者」、あるいはこれまでの西洋崇拝に便乗して名乗る東海岸の有名私立大学「助教授」、だいぶ前からあちこちの大学で売り出している「総合政策」「デジタル・プランニング」「ソリューション」「フェロー」などなど、よくわからないものも含めてネットの画面に割り込んでくる広告みたいなキャッチー・タイトルだ。その多くは彼らがおちょくる既成のランキングのなかで培われてきたものを、彼ら独特のやり方で、例えば大学名の入ったTシャツで目立たせる。
肩書が記された名刺をひそかな自負とともにへりくだりながら交換する昭和のおじさんの時代は終わった。逆にネット用語を冠したベンチャーやスタートアップ企業の名前が肩書きとなる。そしてテレビでわるびれずに放言する大写しの表情に合わせて画面に数秒出る肩書と名前のブランド性で十分だ。大学名に関しては既成のブランドのはしご段を利用しながら、ずばり「天才」として売り出される自分の名前をブランドにしていけばいいのだ。どんなに批判されても名前が画面に浮かべば浮かぶほど、ブランド化は進む──逮捕でもされたら別だが。
新自由主義が生み出した「再封建化」
「高齢者は老害化する前に集団自決すればいい」という成田悠輔氏の発言をお年寄りたちはどう受け止めただろうか
民主主義社会では、規範や信頼などを無視した少数の優秀な人々が、大衆の人気を博しながら大金を儲け、権力にありついて、好き勝手なことをするようになるだろう──近未来における冷笑主義(シニシズム)の登場をこのように予言したのはニーチェだ。これに対するニーチェの評価は両義的だが、どちらかと言えば否定的だ。きらびやかな偽りの知識が、彼の見るところ反文化的であるゆえに。
新自由主義が生み出したこうした現象は社会理論の言葉で言えば、「再封建化 refeudalization」という。下々とはまったく別の生活感覚、まったく別の金銭感覚、まったく別の正当化の論理という点で封建社会の貴族と同じということだ。
接待病の感染は贅沢な貴族社会の再来だ──高級官僚だった叔父を思いつつ(「論座」)
下々への統制手段はかつては政治権力と宗教だったが、今では、新たなアルゴリズム=カルトが、いわゆるパンピーに君臨する。庶民はかつて貴族の園遊会と恋の戯れを垣根越しに眺めていたが、今では高級店に出入りするセレブの恋愛沙汰をメディアで覗かせていただく(専門用語でいう「顕示的公共圏」)。庶民はかつてラテン語が読めなかったが、今ではネット用語がわからない。新貴族は法に触れてもいわば上級国民として、法の適用も斟酌してもらえることが多い。あるいは辣腕の弁護士を駆使して軽傷で切り抜けて、高笑い。
彼らの駆使する独特の論理は、「言い負かす」と「なるほどとわかってもらう」という古代ギリシア以来の区別を解消している。原発の必要性を論じて懐疑的な人々を言い負かしても、本当の理解は得られないことが重要なのだが。彼らは、テレビ画面でその場の思いつきで相手を言い負かせばいいのだ。「やはり信教の自由は」「人権問題ですよ」などと、本来は軽蔑している普遍主義の議論を巧みに織り交ぜて、個人的に関係があるらしい一部の勢力の利益を守る。
ヒトラーを思い起こされた橋下徹氏に気がついてもらいたいこと(「論座」)
経済だけでは話は済まない
もちろん、「天才」といっても、冷めた目で見れば、唯我独尊、夜郎自大、有名欲、自己チューのブランド願望にすぎない。そうしたメディア露出が好きな冷笑系に共通する見方は経済中心主義だ。カネさえ儲かればいいのだ。「いつまでコロナごっこやってんの」「老人はお引き取りを」など、実際にそうした発言をしたかどうかは別にして、そうした考えが滲み出ている発言は、さきにも言ったが蔓延している。
実体経済から遠く離れたブランド経済やインターネット空間に生きている多くの、こうした異能の新貴族は、実は、その経済主義において、もはや歴史の屑籠に入ったと彼らが思っているカール・マルクスより経済主義だ。マルクスは経済の持つ社会的暴力を批判しながら、批判相手の経済思考に取り込まれてしまったところがあるが、それよりも経済絶対主義だ。
だが、経済というシステムはたしかに社会の大きな枠組みだが、社会はそれだけでは動いていない。人々の経済外での相互交渉、言語の交換(コミュニケーション)、意味のシェア、感情の共有、それに支えられた広義の文化、そしてなによりも価値や規範の共有は、社会の成立に欠かせない。ちょっと難しいけれど、次の文章を読んでいただきたい。頭の良い彼らならすぐわかるだろう。わかった上で無視するかもしれないが。
「社会の再生産がしっかりと行われているかどうかは、再生産率、つまり、そのメンバーの身体的なサバイバルの可能性の比率で測られるのではない。そうではなく、規範的に定着した社会のアイデンティティが、つまり、文化的に解釈された『良き』生活が、もしくは『耐えられる生活』が確保されている程度によって決まるのだ」(ユルゲン・ハーバーマス『歴史的唯物論の再構成』ドイツ語原書156ページ)。1976年の発言だ。
ドイツの哲学者、ユルゲン・ハーバーマス
断っておくが、この文章は著者ハーバーマスが古典的なマルクス主義から距離をとっている議論での文章だ。ひらたく言えば経済だけでは話は済まないよ、社会が社会として維持されるためには共有されたものの考え方、例えば人権に依拠した生活の、経済面だけではない安定感が必要だよ、それがなくなれば、おたがいに騙し合い、おとしめ合い、老人ホームでのお引き取りの勧めあいになるよ、ということだ。社会の維持のために必要な膨大な無償労働も(自分自身のための無償労働も含めて)、これがなければ機能しない。まあ、実際には彼らも大切に育てたご令嬢が教授のセクハラに泣けば、やはり「人権!」と絶叫するだろうけど。
たとえ多少ともふざけて極端な言い方をしたのだったとしても、高齢者の集団自決の提案をするならば、いずれは自分の子供が成人するとともに、「育ててやったのだから、エサ代ぐらい払ってけよ」ということにもなりかねない。実際に岸田首相は「子供・子育て政策は未来への投資」と発言した。こんな言葉に誰も憤らない時代だ。問題はボリス・パルマー氏や成田氏の発言だけではなく、ネオリベラリズムの暴風雨下で我々がいかに生き残るかなのだ。あ、そうか、岸田首相が語る「投資」は成田氏もいう「比喩」にすぎないのか。批判して申し訳ありません。