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たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

「シーハイルの歌」(再)

2020年12月18日 17時57分35秒 | 懐かしいあの曲

今冬の初雪が大雪となり、各地の高速道路が通行止めになる等、大きな混乱が生じているようだが、雪による大災害が起きないよう願うばかりだ。
降雪、積雪のニュース、映像が届く頃になると 今は帰る家も無い北陸の山村の故郷の雪景色に思いを馳せたり、冬、雪に因む曲等が思い浮かんでくる。


「シーハイルの歌も そんな曲のひとつだ。
今更になってネットで調べてみると
「シーハイルの歌」は 大正から昭和初期に大ヒットした流行歌、鳥取春陽作曲の「浮草の旅」のメロディーに 戦後 青森県五所川原出身の 林柾次郎が 新しい歌詞を付けて 「シーハイルの歌」としたもので、替え歌なのだという。
昭和30年代から40年代頃には 全国の歌声喫茶等でも 盛んに歌われていた「シーハイルの歌」。ダーク・ダックス等も歌っていて 当時の 若者の愛唱歌にもなっていた。
「シーハイル」とは ドイツ語の 「Schi Helli」、「スキー、万歳!」、スキーヤーの挨拶言葉なんだそうだ。

当時は、歌詞の中の 「ボンジュネ」、「アジャラ」・・等は なんのことやらさっぱり分らないまま なんとなく フランス語っぽくも感じながら 歌ったり聴いていたような気がする。実は 青森県内の山の名前、「梵珠嶺」、「阿闍羅」 だったことを知ったのは ずいぶん後年になってからのことで 「へー!、そうだったの」・・目から鱗になった記憶が有る。

YouTubeに 「シーハイルの歌」を見つけ 早速共有させていただいた。
当時の歌声喫茶のアコーディオン伴奏の大合唱が聞こえてくるような感じがしてしまう。

作曲 鳥取春陽、作曲 林柾次郎、「シーハイルの歌」

シーハイルの歌 五所川原農学校のスキー部歌を歌う緑咲香澄

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「アタマデッカノボボカジカ」(再)

2020年12月18日 09時12分17秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

(ネットから拝借イラスト)

M男は 昭和20年代、30年代の幼年期、少年期には、周囲から よく 「アタマデッカノ ボボ カジカ」等と からかわれていた。頭だけ 大きくて 体は痩せこけた子供で、カジカ(ハゼに似た魚)という川魚の形に似ているという意味だったのだと思われる。小学校に入り、国語や算数等では ある程度の点数を取れる子供だったが、体操や運動は まるでダメな子供で、それを皮肉ったり、妬んだりの意味合いもあったのかも知れない。そんなレッテルを貼られて 後々まで その劣等感を引きずっていたものだ。実際、体が弱く しょっちゅう 風邪を引いたり 熱を出したりして 学校を休んでもいたし、体調不良で 修学旅行や遠足に行けなかったことも たびたび。運動会の徒競走では いつも ビリ。体育の時間が 大の苦手。走る、跳ぶ、投げる、どれもこれも ダメで 通信簿の体操、運動は いつも 最低評価だった。勉強はダメでも 運動抜群という元気者がうらやましくて 仕方なかった子供だった。貧しい暮らしの家だったので、栄養失調気味な面もあったのだろうが 持って生まれた劣性体質だったんだとも思っている。

M男は 中学生になっても ひ弱な体質は変わらず 一時 強いヤツに 今で言う いじめにあっていたこともあった。また 放課後の部活動等から帰ると 全身筋肉痛で 子供のくせに 富山の家庭置き薬のシップ類を ずいぶん使ったりしていた。

M男の家では その頃 山羊(ヤギ)を飼っていた。ほとんど毎日 朝食前に 裏山の道端の葛葉等を刈り取ってきて 餌として与える仕事や 乳搾り、糞の始末等は M男の役割となっていた。学校から帰った後には、パンパンに張った乳房から 1升瓶の2分の1とか 3分の2の乳を搾り出す仕事もM男の役割で、その搾りたての乳は 鍋で沸かし 油膜を取り除き 弟等と飲んでいた。当時は なんでこんな仕事をしなけりゃならないんだ等と意味も分からず 嫌嫌、やっていたものだが 後年になってつらつら考えるに 発育盛りの子供が 少しでも丈夫に育って欲しいというの願いから 羊の乳」がいい等という話をどこからか聞いて 父母が 敢えて飼ったのだと思われる。

そんな M男は 成人しても 頑強な体躯の持ち主とはなれなかったが なんとか 大病もせずに よくもここまで来たもんだと 感慨無量になる時がある。しかも わずか 50数年前とは雲泥の差、今では カロリー過多?、ややメタボ?等で悩んでいる位なのだから・・。

 

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