たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

花鳥に名を尋ねつつ爺散歩

2021年03月07日 14時06分59秒 | 散歩・ウオーキング

当地 今日は 1日中 曇、
日中の気温も 10℃前後までしか上がらず、
体感的には結構寒く、家籠もりになってしまうところだったが
午前中、敢えて 買い物の「用」を作って出掛け
ついでに ちょこっと歩いてきた。
スマホの歩数計で 約8,500歩。

菜の花?

ウンナンオウバイ(雲南黄梅)?

アオサギとダイサギ

ジョウビタキ(尉鶲)のオス?
これまで メスは ちょくちょく見かけ、撮っていたが、
オスは 初めて撮れたような気がする。

鳥にも疎い爺さん、
数年前までは スズメ、ツバメ、カラス位しか同定出来なかったものだが
こんなことを書けるようになったなんて、
たいしたものだぜ。

おまけ

川原へ降りてゆくにゃんこ、

なーんだ、川の水を飲みにきたのか、

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「中学生日記より」その16(再)

2021年03月07日 06時10分18秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

「中学生日記より」

「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に 一度書き込んだことの有る「中学生日記より」を 改めてリメイクしてみようと思っているところだ。「中学生日記」とは 中学生だった頃のM男が ほんの一時期付けていた日記帳のことで 数年前に実家を解体する際に発見した、ボロボロのゴミ同然の日記帳のこと。土産物の小綺麗な空き箱や包装紙、冠婚葬祭ののし袋に至るまで 廃棄処分するという感覚が無かった父母が、子供達の教科書やノート、通信簿、図画工作作品等も押し入れの奥に詰め込んでいたもので、その中に有った。まさに「タイムカプセル」を開けるが如くの感じで、ページを捲ってみると すっかり喪失してしまっていた記憶が 断片的に炙り出されてくる。まさか 60数年後に、ブログで第三者の目に晒される等とは 当時のM男は想像もしていなかったはずで 下手な文章、下手な文字、誤字脱字多しの日記である。


その16 「わらび(蕨)、ふき(蕗) 売り」

昭和31年4月29日(日)、晴のち曇、
起床 5時15分、 就床 8時30分、

1、朝 6時頃、古田さんへ行って わらび 15(把) 買ってもらった。
  (昨日 とった(採った)物、勝雄君と)、
  お金は 50円、25円づつ、
  ものすごく 寒かった。
  朝 手がこうり(凍り)つきそうだった。
2、昼からは ジョンデン?(十二田)の田うち(田打ち、田起こし)、(大きな田んぼ)、
  3時~6時頃まで。

この日、近所の下級生と 多分 前日に裏山で採ってきたわらび(蕨)を、朝一番、自転車で、古田さん?(隣り町の個人商店だったと思うが)に 持って行って 買い取ってもらったようだ。売り上げ?50円、25円づつ 分けたと書いてある。
当時の農家では、農作業の合い間に 山に分け入り わらび(蕨)やぜんまい(薇)、ふき(蕗)等を大量に採っては、担いで 隣り町の市場や商店に売りに行き 僅かながらの現金収入を得ていたような気がするが 根っからの地元の農家、勝雄君の家では 特に一生懸命、山菜採り、山菜売りをしていたような気がする。勝雄君は親のやり方を見習っていて、M男は誘われるまま、行動したような気がする。
中学生が山菜等を売って、現金を稼ぐ?等 当然 禁止されていたはずであるが 所詮 子供の一時的な遊び、大人達も 目を瞑っていたのかも知れない。自転車でも 30分以上は掛かる 隣り町、4月下旬の早朝、かなり寒かったようだ。
4月下旬、春は名のみ・・の北陸の山村、手が凍りつくような早朝であっても そんなことお構いなしで、僅かな現金を稼いで? 意気揚々と家に帰ってきたのかも知れない。
午後3時から6時頃までは ジョンデンと呼んでいた 大きな山田(棚田)の田うち(打ち)(田おこし)に 駆り出されたようだ。耕耘機等普及していなかった時代、足が 膝上までもぐってしまう 最悪の沼田で 1株、1株、田打ち鍬で 掘り起こす作業は 大変だった。
当時 中学生の 特に男子は 田んぼ仕事、畑仕事では 1人前の働き手、学校から帰ってからや休みの日に 手伝うのが当たり前だったが ひ弱だったM男は いつも 疲れ果てていたように思う。

昭和31年4月30日(月)、晴、
起床 5時15分、 就床 8時20分、

1限目、保体(保健体育)、目の話、
2限目、国語、言葉の姿、
3限目、社会、これまでのテスト、飛鳥文化、
4限目、体操、図工(女子)、ソフトボール(中2)、バレー(中3)、
    非難(避難)くん(訓)練をした。
1、朝、昨朝のように 売りに行った。
  ふき 10(把)、30円、わらび 5(把) 10円、(合計) 40円、30円づつ、
2、非難(避難)くん(訓)練、
3、昼から 医者による身体検査、

登校前の早朝、前日と同じように 隣り町へ ふき(蕗)とわらび(蕨)を 売りに行ったようだ。勝雄君と30円づつ、分けたと書いてある。もしかしたら 「また 採ってきて・」等と言われ 気をよくして 前日戻ってから直ぐ裏山に採りに行き、準備したのかも知れない。
4限目は 避難訓練をしたと書いてある。
ほとんど 記憶に残っていないが ブリキのバケツで 水をリレーするようなこともしたのかも知れない。
午後は 学校医による 健康診断をしたようだ。聴診器を胸にあてがわれる程度の簡単な検査だったような気がする。
この日も 起床 5時15分、就床 8時20分と 書いてある。
ちなみに 他の日の起床時間、就床時間を見ても だいたい そんな時間、
M男達 北陸の山村の中学生は 当時 そんな生活をしていたのかと 感慨深いものがある。

(ネットから拝借画像)

 

「かっちゃん」
日記では 「勝雄君」等と書いているが 近所隣りの大人、子供、みんなからは 「かっちゃん」と呼ばれていた。当時 M男が暮らしていた北陸の山村では 普段 お互いの家を呼ぶ時は 「苗字」ではなく「屋号」で呼んでいたが 「かっちゃん」の家は 「しょざいむさん」(所左衛門?が訛ったのかも知れないが)。3世代同居の大農家で 「かっちゃん」は その家の三男坊だった。少々 強引なところが有って 子供達の間では あまり好かれていなかった気がするが 中学卒業と同時に、東京へ就職、その後 全く会う機会等無かったことも有り その印象も 面影も 記憶から喪失してしまっている。

 

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