「中学生日記より」
「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に 一度書き込んだことの有る「中学生日記より」を 改めてリメイクしてみようと思っているところだ。「中学生日記」とは 中学生だった頃のM男が ほんの一時期付けていた日記帳のことで 数年前に実家を解体する際に発見した、ボロボロのゴミ同然の日記帳のこと。土産物の小綺麗な空き箱や包装紙、冠婚葬祭ののし袋に至るまで 廃棄処分するという感覚が無かった父母が、子供達の教科書やノート、通信簿、図画工作作品等も押し入れの奥に詰め込んでいたもので、その中に有った。まさに「タイムカプセル」を開けるが如くの感じで、ページを捲ってみると すっかり喪失してしまっていた記憶が 断片的に炙り出されてくる。まさか 60数年後に、ブログで第三者の目に晒される等とは 当時のM男は想像もしていなかったはずで 下手な文章、下手な文字、誤字脱字多しの日記である。(コピペ)
その18 「国語教師 H教頭」
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昭和30年6月2日(木)、天気 晴、
1限目 国語、日記をつけろと言う話、
2限目 音楽、故郷の廃家、
3限目 数学、最大公約数、
4限目 社会、鉄道機間(機関)、
1、集めた「学級費」「生徒会費」、170円もなりなかった(にも ならなかった)。
2、1限にいわれて(言われて) (日記を)つける(付ける)気になった。
3、父 また 休む。川島の田植え、
4、自転車で 学校に行った。
5、始めて(初めて) ふせばりに 「かじか1匹」。
1限目の「国語」の時間に 国語担当教師のH教頭から 日記を付けろを言う話が有ったようだ。
どうしてそんな話になったか等 まるで記憶にないがその意義や重要性等を聞かされたのかも知れない。「言われて 付ける気になった」と書いてある。その日記が この日記であることが分かる。付けはじめでまだ日記帳ではなく便箋に書いたものが 「中学生日記」に挟まれていた。
1学年1クラスの小さな中学校、教師も少なく おおかたの教師は 複数科目を担当していたが 「国語」は H教頭が担当していた。眼鏡を掛け、トニー谷を細くしたような風貌で 眼光鋭く、声調も厳しく、ちょっと近寄り難い雰囲気をもった教師でもあった。
M男達は 3年生の学芸会で クラス全員出演の劇 「学園物語」を演じたが その演出指導を受け持ったのも そのH教頭。長い練習期間中、厳しい叱咤の怯え、泣き泣き耐えた記憶が 今だに残っている。「やる気が有るのか?」「やる気無いんだったら やめてしまえ!」、時には メガフォンをたたき捨てて 立ち去ってしまったりするような熱血漢の教師だった。ただ 学芸会で終演と同時に そのH教頭を取り囲み 女生徒等は 感極まって涙を流していた記憶も蘇ってくる。
後年 東京オリンピックで 女子バレーが優勝した際に語られた 鬼の大松監督と選手達の物語とダブって 熱くなった記憶も有る。H教頭は 当時、地元の青年団等で広く演劇指導をされていた等、いわゆる草の根演劇運動に尽力されていたようだが それはかなり後年になってから知った話である。
2限目の「音楽」では 「故郷の廃家」を習ったようだ。
数年前に 長年空き家で廃墟と化した実家を取り壊し(解体工事)をしたが この曲が頭をよぎったものである。
この日、父親は 結い(ゆい)で 川島さん(親戚)の田植えのため 勤務先の印刷所を休んだようだ。父親の通勤用のごっつい自転車が空いたため 借りて学校に乗って行ったようだ。当時 M男の家には 自転車も まだ1台しか無く、日頃は、父親が帰ってくるのを待ち構えていて、奪うようにして乗り回していたような気がする。
歩いて15分~20分に 石ころだらけの荒れ川が有ったが、子供達は 棒の先に釣り糸を結びつけ 釣り針にミミズを付けて 夕方 水辺に 石等で押さえて 伏せておき、翌朝 魚が掛かっていないか見に行くような遊びをしていた。「ふせばり」(伏せ針?)と呼んでいたようだ。この日 カジカ(鰍、杜父魚)が 1匹掛かっていたと書いて有る。カジカとは 一見 ハゼのように 頭、口が大きく 体が細い、淡水魚。
頭がデッカく痩せこけていたM男は よく「頭デッカの ボボ(体) カジカ」等とからかわれていたことも有った。
日記から炙り出される記憶有り