たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

思い出の紅葉旅アルバム「日光田母沢御用邸記念公園」(再)

2021年10月30日 15時28分29秒 | 旅行記

9年前、「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代、
2012年11月13日に書き込んでいた記事を、コピペ、リメイク(再編集)


かれこれ9年前の2012年11月10日に、日光を訪れたことが有った。「日光見ずして、結構と言うなかれ」、美しい日光東照宮こそ、結構という言葉に価するもので、それを見ない内に、結構と言う言葉を使うな、という、東照宮の壮麗さを賞讃し、「にっこう」と「けっこう」の語呂を合わせた、言葉が有るが、実は、それまで、一度も日光を訪れる機会が無かった。「その内、いつか」等と言ってられない歳になってしまい、その年、思い切って出掛けたものだ。
どこから情報を入手したのかは忘れてしまったが、その当時、期間限定で、「JR・東武 日光・鬼怒川 観光フリーきっぷ」というのが有った。それは、JR新宿、JR品川、JR八王子、JR大船、JR千葉、各駅発で、東武日光駅まで直通で行け、しかも、全車座席指定特急、往復料金切符、余裕があれば 日光、鬼怒川エリアでは、乗り降り自由、また、料金には、現地で自由に使える、タクシー・バス クーポン券、1,500円分が含まれているという切符だった。
紅葉シーズンの日光方面は、車の大渋滞を覚悟しなければならず、街歩き後の疲労も考えると、高齢者が、マイカーで日帰りは、ちょっと厳しいが、超楽々、便利な 「JR・東武 日光・鬼怒川 観光フリーきっぷ」・・・、「いいね」、一度は、紅葉のシーズンの日光を訪れたいと思っていた人間にはもってこいの企画で、飛び付いてしまったのだった 

日光山内にある、二社一寺(東照宮、二荒山神社、輪王寺)の103棟の建造物と、それらを取り巻く、文化的景観は、1999年に、「日光の寺社」として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されており、紅葉探訪を兼ねて、大満足の旅だった。

利用した列車は、東武日光駅着10時19分、帰りは、東武日光駅発17時4分、
日光滞在時間は、約6時間半だったが、タクシー・バス クーポン券を利用して、距離を稼ぎ、目いっぱい歩いて、1万5000歩~1万6000歩。かなり、疲れはしたが、お目当ての観光が予定通り出来、帰りの列車では、ビールを飲みながら、居眠りして帰れ、楽ちん、安心。旅行も、その気になりさえすれば、いろいろな手段、方法が有るもんだと、実感したものだった。

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「日光 号」

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東武日光駅

その1 日光田母沢御用邸記念公園

10時19分に、東武日光駅に到着。「フリー切符」が、改札機を通さないことから、改札口で、ゴタゴタ混雑したが、駅前タクシー乗り場には、行列無し。時間を惜しんで、先ずは、タクシーで、「日光田母沢御用邸記念公園」に向かった。駅前からは、119号線を真っ直ぐ、上りになるが、二社一寺の入口、神橋(しんきょう)付近では、駐車場に入ろうとする観光客の車等が詰まっている影響で、大渋滞、ノロノロ運転。「右折車線を作るとか、駐車場の案内表示板を もっと分かりやすくするとかすれば、こんなに渋滞することもないのに、いつまでたっても 改善しようととしない」等と、タクシーの運転手さん、ぼやくことしきり。タクシー料金は、1,200円~1,300円程度だったが、「タクシー・バス クーポン券(1,500円分)」で支払い、なんだか、タダ乗りのような、得した気分になった。

「日光田母沢御用邸」は、明治32年、嘉仁親王(大正天皇)ご静養のために造営され、昭和22年に廃止されるまで、三代に渡る、天皇、皇太子が、ご利用された施設で、明治期に造営された御用邸の中では、最大規模の木造建築で現存する唯一の建物なのだそうだ。江戸、明治、大正の三時代の建築様式をもつ、集合建築群で、国指定重要文化財にもなっている。現在は、公益財団法人栃木県民公園福祉協会により、記念公園として管理運営されている施設。
入園料=500円(クーポン券利用=20%割引、400円、ここでも得したような気分に)

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窓ガラス越しに眺める庭園の紅葉

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3階建の建物

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池に写る紅葉

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紅葉が見ごろの、日光田母沢御用邸記念公園だった。

コンデジでやたら撮った写真は、以前「デジブック」にしていたが、「デジブック」は、すでに廃止されており、改めて、外付けHDから古い写真を引っ張り出して、「ZUISO」にしてみた。拙劣写真ばかりだが、爺さんの思い出アルバムのつもりで・・・。
日々、旅行を楽しまれている方々には、ほんのささやかな旅?だと思われそうだが、帰省は別物として、国内旅行も海外旅行も、指折り数える程しかしていない老夫婦には、貴重な思い出となっているのだ。


ZUISO 「思い出アルバム 日光田母沢御用邸記念公園」
👇
こちら


 

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「中学生日記より」その49(再)

2021年10月30日 11時17分55秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

「中学生日記より」

「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に 一度書き込んだことの有る「中学生日記より」を 改めてリメイクしてみようと思っているところだ。「中学生日記」とは 中学生だった頃のM男が ほんの一時期付けていた日記帳のことで 数年前に実家を解体する際に発見した、ボロボロのゴミ同然の日記帳のことだ。土産物の小綺麗な空き箱や包装紙、冠婚葬祭ののし袋に至るまで 廃棄処分するという感覚が全く無かった父母が、子供達の教科書やノート、通信簿、図画工作作品等も押し入れの奥に詰め込んでいたもので、その中に有った。まさに「タイムカプセル」を開けるが如くの感じで、ページを捲ってみると、すっかり喪失してしまっていた記憶が、断片的に炙り出されてくる。まさか 60数年後に、ブログで第三者の目に晒される等とは 当時のM男は想像もしていなかったはずで 下手な文章、下手な文字、誤字脱字多しの日記である。


その49 「P・T・A(父兄会)と映画『緑はるかに』」

昭和30年(1955年)6月21日、火曜日、天気 曇、
起床 5時25分、就床 9時5分

1限目、音楽 はにゅうの宿、
2限目、(自治会)

1、P・T・A(父兄会)なので 1限だけ、
2、櫂男が遊びに来た、
3、(隣り町の)劇場映画館)で映画を見た、
  (1)緑はるかに
  (2)??
  (3)ニュース、三種類くらい
  (4)予告編、ゴジラのぎゃくしゅう(逆襲)、風雲講道館、など

(宅) 10時半

M男の通っていた小中学校では、P・T・A(父兄会)が、年に1回か2回有ったような気がするが、その日が、P・T・A。1限だけで、下校。「音楽」の時間は、「埴生の宿」を習ったようだ。
小学生の内は、母親等も、結構授業参観したりしていたような気がするが、中学生になってからは、授業参観する父兄等、ほとんどいなかったように思う。農作業の合間に、たいてい、生徒が下校する時刻に、三々五々集まり出し、担当教師と面談をしていたのだと思う。

10時半には、帰宅。珍しく、同級生が遊びに来たようだ。
その同級生に誘われたのかどうか不明だが、隣り町の映画館に、映画を見に行ったと書いてある。当時、M男が通っていた中学校では、学校で推薦する映画に限っては、子供だけで映画館に見に行って良しとされており、この日、見に行ったのだろうか。
映画「緑はるかに」
M男の家では、当時、読売新聞を購読していて、子供向けの絵物語「緑はるかに」が連載されていたことは、おぼろげに記憶にあるが、格別の印象、関心が有った分けではなく、どんなストーリーだったか等、まるで記憶に残っていない。映画「緑はるかに」は たまたまその物語が映画化されたものだったということになる。
今更になってネットで調べてみると、「緑はるかに」は、1955年(昭和30年)5月に公開された日活映画だった。とすると、封切映画だったのか。
原作 北条誠、児童向け物語「緑はるかに」を、水の江滝子が、製作プロデュース、監督 井上梅次、出演 浅丘ルリ子、フランキー堺、高田稔、内海突破、市村俊幸、有島一郎、岡田真澄、北原三枝等の映画だった。この映画の主役、ルリ子役には、3,000人のオーディションから、当時15歳だった浅丘ルリ子が選ばれ、浅丘ルリ子の映画デビュー作となったということも、ずいぶん後年になってから知ったことだった。そんな情報等を知る由も無かったはずのM男だが、はからずも、まだ無名だった浅丘ルリ子を、いち早く見たことになる。
予告編に、「ゴジラの逆襲」、「風雪講道館」等と書いてある。
そんな時代だったかと、つくづく思う。

(ネットから拝借画像)

それにしても、起床 5時25分、早!、就床 9時5分 早!
テレビも無かった時代、北陸の山村の中学生は そんな暮らしをしていたのだった。

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