たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

藁草履(わらぞうり)

2022年08月11日 14時33分59秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

gooブログの「アクセス解析」の「アクセスされたページ」欄を、時々覗くことがあるが、随分前に書き込んだ古い記事で、すっかり忘れてしまっているような記事に、アクセスが有ったりする。「エッ?」と驚くと同時に、「そう言えば・・・・」、記憶が蘇り、嬉し、懐かしくなってしまい、つい、自分もクリックし、改めて読み返してみたりすることがある。
今日、10年も前、2012年6月7日に書き込んでいた記事「藁草履」にアクセスが有ったことに気が付き、「おお!、懐かしい!」、早速、コピペ、リメイク(再編集)することにした。
そんな古い記事をクリックひとつで引っ張り出して読んだり、加筆、訂正、修正、コピペ、リメイク等が出来るのも、ブログのメリット。従来の紙ベースの日記、日誌、備忘録、懐古録、雑記録の類では、絶対考えられないことであり、ブログを始める前までは、想像も出来なかったことである。今、出来ることは、やってみる・・、長生きした分、その時代を少しでも享受したいものだ等と、つぶやきながら・・・。


1949年(昭和24年)4月、M男は、北陸の山村の村立O小学校に入学した。1学年、1クラスの小さな学校で、しかも、講堂(体育館)を挟んで、村立O中学校が繋がっている、小中併設校だった。農山村のこと、転入者も転出者もほとんど無かった時代、結局、M男達同級生38人(+、-1人)は、9年間、実の兄弟よりも長い時間を、その学校で時間を共有したことになる。 

当時はまだ、集落に、写真機(カメラ)等持っている家は無く、子供の頃の写真はほとんど残っていないが、唯一、小学校1年になった直後に撮ったものと思われる集合写真が、古いアルバムに貼って有る。じっくり眺めていると、当時の暮らしの様子まで、炙り出されてくるように思う。

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着ているものといったら、上の子のお下がりだったり、仕立て直しの服だったり、みんな、粗末なかっこうをしている。M男が着ていた服も、戦前、東京で働いていた父親が着ていた洋服を、母親だか祖母だかが、仕立て直したものだったという話を、かなり後年になって知ったが、戦後間もない頃の、貧しい山村の暮らしが分かる。

足元を見ると、ほぼ全員が、素足に藁草履(わらぞうり)を履いている。農家がほとんどの村とて 脱穀した後の藁は、草履だけでなく、すんぶく(雪用履物)筵(むしろ)米俵(こめだわら)叺(かます)(もみ米を保管しておく大袋)布団(綿の代用)、そして、最終、堆肥に至るまで、とことん活用していた時代だった。

(ネットから拝借画像)

M男は、藁草履を、夜なべして黙々と作る大人達の姿を、良く目にしていて、その情景は今だに忘れない。先ず、藁を根気よく木槌でたたいてやわらかくし、長く細い縄を作り、足の大きさよりやや大きい輪状にして、4本、ぺったり座って伸ばした足の指に引っ掛け、手前で結び、編み出す。足の大きさ程度、編み上がったところで、鼻緒を編み入れ、手前に残っている尻尾のような縄を グイッと引くと先端が丸まり、草履の形になる。といった作業だった。なにしろ藁製のこと、直ぐ 壊れてしまうため、何足も何足も、作っておく必要があったのだ。

また、記憶は曖昧だが、たしか、すんぶくと呼んでいた雪用履物があった。やはり、藁で編み上げて、長靴のような形に作るのだが、よくもまあ、あんな風に作れるものだと尊敬して見ていた覚えがある。子供には、ぶかぶかだったり、足に合った形には、なかなかならないので、履き心地は あまり良くはなかったが、雪の中でのそり遊びには、必需品だった。

その他、筵(むしろ)、米俵(こめだわら)、叺(かます)等、農家では、それぞれ工夫して、自前の治具を手作りし、苦労を苦労とも考えず、終戦直後の何も無い時代、自給自足の暮らしをしていたのだ。

昭和20年代後半になると、短靴(たんぐつ)と呼ばれていた簡単なゴム製の靴や、ゴム草履が普及してきて、藁草履の姿は、急速に消えて行ったように思うが、藁草履で、よくも登校したり、遊び回っていたものよと、今更になって思う。すんぶくも、ゴム長靴が普及してきて、急速に消えて行った。

食糧事情もまだまだ悪く、動物性たんぱく等を取れる状況になかった。毎日、菜っ葉、芋類、漬物類で、栄養失調気味、皆、顔色が悪く、痩せていた。衛生状態も良くなく、校庭だか、体育館だかに、1列に並ばされ、「ハイ、次ぎっ」「ハイ 次ぎっ」と、首や腹から噴射器を突っ込まれ、DDTの白い粉を吹き掛けられたことたびたび。頭まで真っ白にされた。まるで,動物並み扱いのノミ、シラミ対策だった。他にも、胃腸に寄生する回虫を退治する薬を飲まされてこともある。すると、便と一緒にミミズのような回虫が出てくるという塩梅だった気がする。 

今からわずか70年前頃の、日本の農村の暮らしの話であるが、若者からは、「江戸時代かよ」等と突っ込みが入りそうな話である。隔世の感有り、遠い昔話になってしまったかと、自嘲するばかりである。

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古い写真から蘇る思い出の山旅・その20(1)

2022年08月11日 10時29分06秒 | 山歩記

長男、次男がまだ保育園、小学生だった頃の話、夫婦共働きで、時間的余裕も、精神的余裕も、経済的余裕も無い自営業を続けていた時代ではあったが、せめて子供達の思い出になれば・・との思いが有って、春、秋の行楽シーズン等の休日には、忙中敢えて閑を作り、強引に?、家族で周辺の低山を、よく歩き回っていたものだった。その後、次男が小学生になった頃からは、「せめて毎年1回、夏休みには、家族で登山しよう」と決め込んで、尾瀬や八ヶ岳や白馬岳、乗鞍岳、木曽駒ケ岳、仙丈岳に出掛けたものだったが、それまで、登山の経験等ほとんど無く、体力にも自信が無く、山の知識情報にも疎かった人間が、よくもまあ思い切って出掛けたものだと、後年になってからつくづく思ったものだった。息子達が巣立ってからも、その延長線で、夫婦で細々、山歩きを続けてはいたが、数年前に完全に仕事をやめてからは、時間が有っても、今度は気力体力減退、あの山もこの山も、今や、遠い思い出の山となってしまっている。今となっては、あの日あの頃、思い切って、登山を敢行していたことを、本当に良かったと思うようになっている。ブログを始めてからのこと、そんな山歩きの思い出を備忘録、懐古録として、ブログ・カテゴリー「山歩記」に書き込んだり、古い写真を引っ張り出して、「デジブック」にしたりして懐かしんでいたものだが、「デジブック」が終了してしまったこともあり、改めて、過去の記事を、コピペ、リメイクしてみようと思っているところだ。昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだと自嘲しながら・・・・。


古い写真から蘇る思い出に山旅・その20
「鳳凰三山」


かれこれ26年前の1996年8月に、妻と次男と三人で、鳳凰三山(薬師岳、観音岳、地蔵岳)を訪ねたことが有った。「ブログ内検索」してみたら、5年前にも、ブログ・カテゴリー「山歩記」に書き込んでいることが分かったが、今年も夏山シーズンを迎え、なんだか懐かしくなり、改めて、コピペ・リメイクしてみることにした。
当時はまだ、バカチョンカメラ(小型フィルムカメラ)しか持っていなかった頃で、後年になって、アルバムに貼って有った紙焼き写真をスキャナーで取り込んだ写真が外付けHDに残っており、改めて引っ張り出した。どんどん記憶曖昧になってきているが、写真や記録・メモ等を見ると、あの日、あの場所の情景が蘇ってくるから不思議だと思う。


深田久弥著 「日本百名山」
「鳳凰山(ほうおうざん)」 
(一部抜粋)  

鳳凰山(ほうおうざん)とは、現在では、地蔵岳、観音岳、薬師岳の三峰の総称になっている。この三峰がそれぞれどの峰を指すかについては異論もあるが、ここでは五万分の一「韮崎」図幅の示す所に従おう。が同図幅では、観音、薬師を鳳凰山とし、地蔵岳は別にしてあるが、やはりこの三峰を含めて鳳凰山と呼んだ方が妥当と思われる。
地蔵岳の絶頂には、二個の巨石が相抱くように突っ立っている。古人はこれを大日如来に擬して尊崇したところから、法皇山の名が生じたと言われている。その後徳川時代の中期から地蔵仏の信仰が盛んになって、この巨石も形が似ているので地蔵仏と呼ばれるようになった。
(中略)
またこんな伝説を読んだこともある。天平宝字二年(758年)五月、剃髪して法皇となられた孝謙天皇が、夢のお告げによって、遥か東国の早川の上流奈良田に遷居された。
(中略)
七年間奈良田に滞在され、その地を山城国奈良田に因んで、山代郡奈良田と名づけられたという。法皇およびその従者は奈良田滞在中に芦安から北の山に登られた。すなわち現在の鳳凰山であって、それは法皇山から来たものである。そして今も残っている北御室(きたおむろ)、南御室(みなみおむろ)、御座石(みくらいし)などの名は、その当時の名残りだと伝えられている。
地蔵仏は高さ約十八メートル、極めて印象的なオベリスクで、甲府盆地からでもよく注意すると認めることが出来る。それは、鳳凰山のシンボルのように立っている。その巨石に初めて攀じ登ったのは、ウォルター・ウェストンで、明治三十七年(1904年)の夏であった。

(中略)
私が最初に登ったのは、昭和7年(1932年)の秋だったから古い話である。小林秀雄と今日出海(こんひでみ)の二君が一緒だった。いま手許に残っている当時の古い写真を見ると、二人ともワラジに脚絆という、甲斐甲斐しい恰好をしている。
(後略)


山行コース・歩程等

(1日目)夜叉神峠登山口駐車スペース(標高1,370m)→山ノ神→五本松→夜叉神峠→
     杖立峠→(お花畑)→苺平→南御室小屋→ガマの岩→砂払山山頂(標高2,740m)
     →薬師岳小屋(標高2,720m)(泊)
     (標準歩行所要時間=約5時間40分)
(2日目)薬師岳小屋→薬師岳山頂(標高2,780m)→観音岳山頂(標高2,840m)→
     アカヌケ沢ノ頭(標高2,750m)→賽の河原→地蔵岳山頂(標高2,764m)
     →高嶺(標高2,778.8m)→白鳳峠(標高2,450m))→
     広河原(標高1,520m)

     (標準歩行所要時間=約6時間45分)

(朝日新聞社の週刊「日本百名山」から拝借)


1日目

やはり、前日早めに仕事を切り上げ、仮眠、真夜中に車で自宅を出発、中央自動車道、南アルプス林道をひた走り、5時30分頃に、夜叉神峠登山口駐車スペースに到着したようだ。あの頃は、マイカーでも、南アルプス林道で広河原まで入れたが、夜叉神峠登山口から鳳凰三山を縦走し、広河原に下り、広河原からはバスで、夜叉神峠登山口に戻るという計画だったのだ。
まず、思い出されるのは、夜叉神峠登山口直前の南アルプス林道走行中、道路の真ん中に、野猿の大群がたむろしていて、そろりそろり遠慮しながら横を通り抜けたことだった。

6時頃、夜叉神峠登山口を、出発したようだ。
冷気漂う樹林帯の急登を、ウグイス、ホトトギスの鳴き声を聞きながら・・・、

 

7時15分頃、夜叉神峠(標高1,770m)に到着。
ガスが消え、白峰三山(北岳、間ノ岳、農鳥山)が 姿を見せてくれ・・・、

一帯には、ヤナギランが群生しており・・・
後年、山行等でヤナギランを見ると、夜叉神峠が連想されるようになったものだ。

9時45分頃、杖立峠

お花畑

 

クガイソウ?                         ミネウスユキソウ?

 

                    オヤマリンドウ?

 

シナノオトギリ?                    ミヤマオダマキ?

 

アサギマダラ?
当時はまだ、花や蝶等に興味関心薄く、名前も知らず分からずだったが、
後年になって知った「アサギマダラ」・・・、
なーんだ、26年前に、すでに出会っていたではないか・・・である。

 

12時30分頃、苺平に到着、
樹林帯の中、展望無しだったが、昼食タイム。

13時15分頃、辻山と砂払岳の鞍部、南御室小屋に到着、休憩
キャンプ指定場が有る。

 

南御室小屋からは、砂場の厳しい急登、
やがて、巨岩が連なるガマの岩場に・・、

砂払岳から、薬師岳を望む。
白砂青松の風景。

岩陰にひっそり、タカネビランジが出迎えてくれ・・、

15時30分頃、薬師岳小屋に到着したようだ。
夕食は、17時からだったが、結構バテてしまい、夕景写真を撮る気力も無く、夕食後、直ぐ、横になったようだ。ただ、夏山最盛期とあって超満員状態で、なかなか熟睡出来ずに、真夜中に気持ち良い小屋の外に出て、満天の星空を、しばらく眺めたりした記憶が有る。

(つづく)

 


今日は、何の日?

2022年08月11日 06時31分26秒 | つぶやき・うんちく・小ネタ・暇つぶし・脳トレ

今日8月11日は、「山の日」である。「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」ことを趣旨として、2014年に制定され、2016年に施行された国民の祝日であるが、まだ年数があまり経っていないこともあり、今だに、毎年、「?・・・、」となってしまう爺さんである。
今更になってネットで調べてみると
「山の日」は、当初は、旧盆(8月13日~8月15日)の前日、8月12日として、休みを連続させる目的もあったようだが、8月12日は、日本航空123便墜落事故が発生した日であり、国民の祝日とすることにふさわしくないとの異論が出て、結局、「8月11日」に決定したという。
8月11日が採用された理由には、「八」の下に、「11」と書くと、山の麓に木が立っているように見えるとか、山に向かって進む一本道に見えるとか、こじつけ的な言われ方もあるようだ。

今年も、新型コロナウイル感染拡大が止まらず、「山の日」も、「お盆」も、第7波にのみ込まれて、盛り上がることなく、なんとなく霞んでしまっているような感じさえしているが、せっかく、「3年振りに帰省・・・」「3年振りに山行・・・・」等と期待していた方々、どのように過ごされるのだろうか。

家族4人で登った山の思い出・「白馬岳」
33年前、1989年(平成1年)8月17日

 

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