たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

穏やかな晴天の三が日

2023年01月03日 17時05分38秒 | 散歩・ウオーキング

当地、今日も、よく晴れて、
最高気温は、10℃前後だったようだが、
陽射しが強かった分、体感的には、温かくも感じた。

好天に誘われて、今日もまた、午後になって、ちょこっと近くを歩いてきた。
スマホの歩数計で、約5,300歩。

 

忙しないオオバン

 

カルガモのオス、メスの群れ、

こっちは、日向ぼっこ?、昼寝中?のカルガモ

カシャ!、カシャ!、
「せっかく、いい気持ちで眠ってたのにーー、」

コガモのオス、メス

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子供の頃の正月の記憶あれこれ

2023年01月03日 10時11分25秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

(当時の近所の風景)

昭和20年代から30年代前半、M男は、北陸の山村で小学生、中学生だった。
戦後10年近くが経ち、すでに、表日本(当時はそう呼ばれていた)では大都市部を中心に、目覚しい発展を遂げていたが、裏日本(当時はそう呼ばれていた)の、特に山間農村部では、まだまだ 貧しく粗末な暮らしが続いていたように思う。

11月下旬頃から日本海を渡ってくる冷たい季節風が、容赦なく日本列島の背骨にぶち当たり、大雪をもたらす北陸地方、冬季は、ほとんど快晴の日が続くこと等もなく、専ら、雪との格闘で、明け暮れたものだったが、その冬季の気候が、経済格差、生活格差をもたらしていた要因でもあったのだと思う。


◯雪に埋もれた暮らし
車社会以前の話である。暮していた集落は、交通の便が悪く、現在のような除雪車両も無く、根雪になってしまうと、雪の上をかんじきで踏み固めた1本の道を辿って登校、通勤するような地域だった。正月を迎えても、寺社に初詣はおろか、家族でどこかへ出掛けよう等ということは、皆無であり、M男達にとって、正月三ヶ日は、もっぱらおとなしく、家の中で過すものだと思っていたものだ。
それでも、子供たちにとっては、正月は特別、待ち遠しいものだった。年末には、家族総出で餅つきをし、まゆ玉の飾り付けをし、神棚に榊を上げ、すっかり正月の準備整えた大晦日、正月は、家族揃って掘り炬燵に入り、農協に注文し届けられた木の箱を開け、小さくてすっぱいミカンを喜んで食べ、カルタ取り等で遊んだ。ただ、雪深い地域故、「年末に大掃除・・、」は、無かったような気がしている。

数年前に実家を解体する直前、
財物整理廃棄処分中に物置で見付けたみかん箱、
懐かしさの余り、写真を撮っていた。

茶箪笥の上に鎮座?していた中古の真空管ラジオから、雑音混じりで聴こえてくる年末年始特別番組を、家族で耳を傾けていたものだ。 


◯「繭玉飾り(まゆ玉飾り)」
(子供の頃、意味も分からず「まいだま」と呼んでいたような気もするが)
当時のほとんどの農家の茶の間や座敷は、10畳、16畳・・・等と広く、年末に1.5m、2m・・もあろう木の枝を、天井、柱、梁等にくくりつけ、「繭玉飾り」を設え、正月気分を味わっていたが、「繭玉飾り」も、1月15日、小正月が過ぎると、とり外し、正月気分を一掃していたような気がする。年末の餅つきの際、長く伸ばした餅に、箸4本を埋め、梅の花の形にした「鏡花?」も枝に刺していたが、干からびて、囲炉裏や風呂釜の煙で煤け、ほとんど食べれなかったような気がする。

(ネットから拝借繭玉飾りの画像)


◯「神棚」と「榊」
年末、父親に指示され、積雪の裏山に分け入り、「神棚」に供える「榊」の小枝を切り取ってくる仕事は、中学生の頃、M男の役割になっていた。年末に積雪したりすると、榊が有る場所までラッセルし、スコップで掘り出して、枝ぶりや葉の艶が良いものを選んで鎌で切り取り、引き上げたような気がする。特別、信心深い父親ではなかったが、正月には、必ず神棚を清め、新しい「御札」を納め、「榊」「鏡餅」「お神酒」を供え、元日には、畏まって、神棚に向かい、柏手(かしわで)、拝礼していた姿が思い出される。寺社に「初詣」する習慣が無かったM男の家だったが、その情景で、正月を迎えたことを実感した気がする。そんな、「榊」も「鏡餅」も「お神酒」も、1月15日、小正月には、片付けられ、平生の暮らしに戻ったのだと思う。元日の朝、父親が、普段見せない真剣な顔つきで「神棚」に向かって、柏手を打ち、拝礼する姿を見て、身が引き締ったものだった。三ヶ日、父親は、親戚縁者に新年の挨拶回りに出掛けたりしたが、M男等子供には、三ヶ日だけは、近所の子供の家にも遊びに行くことを禁じられたような気がする。


◯「小倉百人一首カルタ取り」
父親が挨拶回りから帰ってくると、待ってましたとばかり始めたのは、家族全員でする「百人一首カルタ取り」だった。母親が好きだったことから、M男達子供もやるようになったのだろうと思うが、1対1の対戦ではなく、ランダムにばら撒いた「取り札」を、囲んだ数人で取り合う遊びである。


読み手は、必ず、父親だったが、百人一首独特の読み方は、父親にしか出来なかったからかも知れない。M男と弟が連合軍で、母親と競ったが、負けず嫌いの母親は、子供にまったく手加減せず、バシバシ取って得意顔していたような気がする。
当時、8畳の茶の間には「囲炉裏(いろり)」が有り、冬季間は、その「囲炉裏」は、「炭火の堀り炬燵」になっていたが、カルタ取り等やる時は、全員炬燵から出て、寒々しい畳の上でやることになっていた。
茶の間の隅には、大きな「薬缶(やかん)」をのせた、やはり、炭火の「火鉢」がひとつ置かれていたが、部屋全体が暖まるというものではなく、冷たく悴む手先に息を吹き掛けながら、皆、夢中になっていたものだ。
外は雪、閉ざされた正月、子供達の遊びといったら、百人一首 カルタ取り、坊主めくり、いろはカルタ取り、双六、家族合わせ、福笑い、トランプババ抜き・・位しか、無かったような気がする。
小倉百人一首が、江戸時代初期から、カルタとして正月等の遊びになった等、当時は知る由も無く ただただ、子供の遊びとしか思っていなかったが、毎年繰り返している内に 小学生、中学生のM男でも少しずつ覚えて、得意な歌がいくつか出来ていたように思う。

  「いにしえの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に 匂いぬるかな」
  「淡路島 かよふ千鳥の鳴く聲に いく夜ねざめぬ すまの関守」
  「田子の浦に うち出でて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ」
  「天津風 雲の通路ふきとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」
  「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」
等々。


◯「書き初め」

       振り返り記事 2012年12月8日「書き初め」 ⇨ こちら


わずか60年~70年前の話であるが、遠い昔話となってしまった。

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11年前の今日、2012年1月3日は、「谷中七福神めぐり」

2023年01月03日 06時39分26秒 | 街歩記(小さな旅)

「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」で初めてブログを開設してまもなくの、11年前の今日2012年1月3日に、何を書き込んでいたのかなあー・・・・、自分のブログを覗いてみた。
「谷中七福神めぐり」のことを書き込んで有り・・・、
おお、懐かしい!、10年一昔、
つい最近のことだったような感じもするし、遠い昔のことだったような感じもする・・・・。
早速、コピペ、リメイクしてみることにした。
そんな古い記事を、クリックひとつで引っ張り出して読んだり、加筆、訂正、修正、コピペ、リメイク等が出来るのも、ブログのメリット。従来の紙ベースの日記、日誌、備忘録、懐古録、雑記録の類では、絶対考えられないことであり、ブログを始める前までは、想像も出来なかったことである。今、出来ることは、やってみる・・、長生きした分、その時代を少しでも享受したいものだ等と、つぶやきながら・・・。


実は、4年前までの10数年間、毎年正月3ヶ日の内の1日は、周辺各地の「七福神めぐり」をすることにしていた老夫婦、ブログ・カテゴリー「新春七福神めぐり」に書き留め置いてきたが、コロナ感染拡大が始まってから中止、今年も自粛してしまった。願わくば、来年の正月からはまた、再開したいものだと思っているところだ。


振り返り記事
2012年1月3日
「谷中七福神めぐり」

数年前からのことですが、正月三が日の1日は、周辺各地の「七福神めぐり」をすることにしています。今年は、「谷中七福神めぐり」と決め、今日、行ってきました。谷中周辺は、以前にも、春先に、「谷根千散策」で歩いたことがありましたが、至るところ、古き東京の下町の風情が残っており、歩いていてホッとする街で、好きなエリアです。

「谷中七福神めぐり」は、およそ250年前、江戸時代中期に始まった江戸最古の七福神めぐりと言われています。また、各地の七福神のほとんどには、神社が含まれていますが、現在の「谷中七福神」は、寺院だけという組み合わせになっています。

JR上野駅正面改札口を、午前10時40分頃に出て、何十年振りになりますが、西郷隆盛銅像を見てから出発しました。不忍池弁財天で、まず御朱印台紙を買い、いただいた案内チラシを片手に、各寺院の御朱印をいただきながら(寄り道しながら、谷中の街並みをたのしみながら)、ゆっくり歩いて、午後1時頃、JR田端駅に到着しました。JR上野駅まで戻りましたが、時間に余裕が有ったため アメ横を歩き、JR御徒町から家路につきました。

(「谷中七福神めぐり」案内チラシ)

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JR上野駅
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「ああ上野駅」

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西郷隆盛銅像 
      

(1)不忍池弁天堂・弁財天
御利益=愛敬、天台宗、寛永寺境外祀堂、本尊=弁財天、
天海僧正が、比叡山延暦寺にならって、上野の山に東叡山寛永寺を創建、不忍池を琵琶湖に見たてて、竹生島の宝厳寺弁財天を模して造営したと言われています。

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(2)護国院・大黒天
御利益=富財、本尊=釈迦如来、
天台宗の寺院、寛永寺の子寺、正式名称は 東叡山護国院大黒天、別名=東叡山釈迦堂

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                                             (3)天王寺・毘沙門天
御利益=威光、天台宗の寺院、正式名称は 護国山尊重院天王寺、本尊=阿弥陀如来

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                                              (4)長安寺・寿老人
御利益=長寿、臨済宗妙心寺派の寺院、正式名称は、大道山長安寺、 

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谷中の街並み     谷中銀座

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                                              (5)修性院・布袋尊
御利益=大量、日蓮宗、正式名称は、運啓山修性寺、

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本堂

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御利益=正直、臨済宗妙心寺派の寺院、正式名称は、浄居山青雲寺、 

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本堂

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                                             (7)東覚寺・福禄寿
御利益=人望、真言宗豊山派の寺院、正式名称は、白龍山寿命院東覚寺、本尊=不動明王像、  

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JR田端駅 

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アメ横

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