新型コロナウイルス禍が続く中、最近のテレビ番組等でも、新規番組製作が出来ない等の事情?で、過去に放送した番組を再放送しているケースが増えているようだが、ブログネタも限られてきて、このところ、過去に書き込んだ記事をコピペ、再編集したりしている次第。
「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に書き込んだ記事、17~18年前の話、「中山道を歩く」を リメイクしてみることにした。
追想「中山道を歩く」
その6 第5日目 「本庄宿~新町宿」
第4日目「熊谷宿~深谷宿」を歩いてから半年以上も経ってしまっていた晩秋の休日に、急に思い立って 「中山道を歩く」の続きをすることになり、前回の終点JR深谷駅に向かった。
午前9時30分頃、JR深谷駅を出発→深谷本陣跡→常夜燈→清心寺→滝宮神社→岡部神社→源勝寺→普済寺→百庚申→八幡神社→傍示堂→「本庄宿」金纉神社→浅間山古墳→泪橋由来の碑→神保原一丁目交差点→八幡宮金窪神社→一里塚→(国道17号線)→神流川橋・常夜燈・埼玉県群馬県境界線→「新町宿」神流川古戦跡の碑→陸上自衛隊駐屯地→八坂神社→諏訪神社→行在所公園・高札場跡→JR新町駅
「深谷本陣跡」
「常夜燈」
「清心寺」
平清盛の弟 平忠度(たいらのただのり)の供養塔が有る。
昔、このあたりは 岡部六弥太(おかべのろくやた)の所領だったが、
源平一の谷の戦いで 文武に優れた平忠度を討ち取った岡部六弥太は
武勇に優れている一方、情け深く、
自領で最も眺めのよいこの地に平忠度の菩提を弔う五輪塔を建て、
その死を悼んだという。
現在も岡部町という地名になっており、
岡部待ちは 関東一の漬物名産地と言われているようだ。
「普済寺」
岡部六弥太の墓が有る。
このあたりの街道沿いは
農家や元農家の広大な敷地の大邸宅が立ち並んでいる。
古い建物を壊さずに 残している家が多いようだ。
「島護産奉神社」
「百庚申」
「本庄宿」
江戸から10番目の宿場、深谷宿から二里半七町
天保14年(1843年)では
人口4554人、家数1212軒、本陣2,脇本陣2、旅籠70軒、
旅籠も多く繁華で、飯盛り女も100人以上いた宿場だったとう。
室町時代に武蔵七党の武士団児玉党一派本庄実忠が本庄城を築き
江戸時代には小笠原信嶺が本庄城主となって
城下町として発展し 武州路最大の宿場だったという。
その日は 丁度 本庄祭りの山車行列が通りを通過中で 大変な賑わいだった。
「金鑚神社(かなさなじんじゃ)」
鬱蒼とした樹林に囲まれた神社。寛永16年(1639年)に
本庄城主小笠原忠真が創建した神社。
「泪橋の由来碑」
諸大名が通行する度に馬を借り出される農民が
身のはかなさを嘆いて涙を流したことによるという。
「神流川橋」
「新町宿」
江戸から11番目の宿場、本庄宿から二里、
中山道が開かれた当時は 寂しい寒村だったが、
後に町並みが出来、落合村と笛木村が合流した。
天保14年(1843年)では
人口1437人、家数407軒、本陣2、脇本陣1、旅籠43軒の
宿場だったという。
「神流川古戦跡の碑」
「神流川合戦」とは
小田原北条軍と 織田信長の家臣 関東管領 滝川一益との戦いで、
信長が本能寺で光秀に討たれたことから始まった戦い。
滝川軍の戦死者3760人という戦史に残る大激戦だったという。
「常夜燈」 「諏訪神社」
「高札場跡・行在所公園」 明治天皇が北陸巡幸の際の宿泊場所。
「JR新町駅」
帰宅所要時間を考え その日は JR新町駅を終点とした。
JR新町駅には 午後3時30分頃到着。
「中山道を歩く」5日目は 約18キロ歩いたようだ。
(「中山道を歩く」(山と渓谷社)から拝借画像)
(つづく)