僕は誰も信じることができない
信じるに足る根拠もないし、理由もなく
真実を知りたければ、ドアを叩けばいい
誰かの心はそれで開かれる?
ボクは荒野でひとり、求めている
ドアを探し、理由を探す
どこにもボクの求めるものはない
頭の中にしか追い求めているものは
存在していないのだから………………
「奇妙な味の小説」所収。
と、短編小説を16編収めた、この「奇妙な味の
小説」をみていこうという趣向なのだが、みっつ
めがこの「さかだち」。
柴田錬三郎と言えば、眠狂四郎シリーズだが、これは
それとはまったく違う、徴兵の赤紙の来た男が、死ぬ
のが怖くて、山に逃げ込みそこのホテル、いや、旅館
か、で女がいいものを見せてあげるから、兵に行きなさい
と言ってさかだちするっていう話し。それで、この女は
次の日、自殺してしまう。これは全くの虚構、作り話らしい
が、さかだちして、パラッと下肢が見えてしまうっていうのも
エロいね、いや、この人、エロいわ。
(読了日 2024年8・25(日)22:30)
(鶴岡 卓哉)
新潮文庫 昭和63年
昭和41年から付けられ始め、22年間続けられた
夕食と朝食のメニューの書かれた献立日記。
すごく贅沢な食生活だなあ、と思う。フルーツたっぷり
夕食でもメーンになり得る料理が2種は並ぶ。
装丁も安野光雅氏の赤かぶの絵。こういう当たり前の
いい装丁って最近ないなあ。22年間で30冊になった
献立帳は内田百閒氏のメニューを書き連ねた献立帳にも
通じるところがあるな。
和食がほとんどというかすべてで洋食はなかったみたいで
す。
(読了日 2024年8・24(土)14:40)
(鶴岡 卓哉)
中公文庫 「奇妙な味の小説」所収。 吉行淳之介・編
勝鬨橋(かちどきばし)に出たんである。
あまりにも巨大なあれが。
「蛸(たこ)」である。その大蛸は街中まで進出し、電話
ボックスに逃げ込んだ僕をさえ襲って来るのである。しかし、
そのことについては新聞やTVでもやっていない。
言ってはならぬ、と何処かからか声が聞こえて来るだけだ。
「僕」は狂ってしまっているのか。幻覚を見ているのか。
リアリティのはざまで生きる僕の冒険譚だ。
(読了日 2024年8・24(土)1:05)
(鶴岡 卓哉)
中公文庫 「奇妙な味の小説」所収。 吉行淳之介・編
とても暑い風もない日、交番にひとりの男が
自首してくる。
暑さがたまらないのだそうで、子供の頃から
アリから始まり、カナブンを殺し、カブトムシ
そして、昨年は猿を殺してしまったそうだ。
いや、今年の夏はそれにしても暑い。暑くて
人を殺すやつもいるかもしれない。ぼくも、
さっき……いや、やめておきましょう。
今でこそ、動物愛護法で捕まってしまうだろうが、
この頃は、まあ、時代ですかね。
(読了日 2024年8・24(土)0:10)
(鶴岡 卓哉)
伊藤典夫・訳 ハヤカワ文庫 1953年
この本は僕には珍しく蔦屋で新刊本で買い求めた。
この本は訳が新しい方がよかろう、という判断である。
旧訳はどうやら、やはり、かなりマズいらしく、読めた
代物ではないようだ。
この華氏451度は紙の自然発火する温度で、昇火士という
本を燃やす焚書をする男のことを書いている、ディストピア
小説だ。
SFの文体にもすっかり慣れ、すんなりと読めたので、火星
年代記にも挑戦しようと思っている。
すごく面白かったし、独特のSFの雰囲気がすごく好きだった。
(読了日 2024年8・23(金)23:05)
(鶴岡 卓哉)
新潮文庫 平成4年
幸田氏の手によるこの木というエッセイは絶筆と
いうことである。随分、品のある文章だな、と暑
さにお脳をやられつつ読んでいて思った。
倒木が一列になって、樹が生えて来る、というのを
信じ、見に行ったり、ある棟梁から、木は二度生きる
伐られてから製品になってまた生きる、と教えられ
ホントに死んだ木を見せてやる、と言われたりする。
老大木を見に行って、歩けなくなり、負ぶって、見に
行ったりしている。かなり廻りに迷惑をかけているよ
うだ。そういうのが平気な質らしいね。
このエッセイ集は1971年1月号えぞ松の更新から
1984年6月号ポプラまで、文氏の作家人生全般に
渡って書かれたものを集めているという。このポプラ
というのが絶筆ということらしい。
(読了日 2024年8・22(木)23:44)
(鶴岡 卓哉)
新潮文庫 平成2年
開高氏も参戦したヴェトナムの日々のことを描いている。
でも、ルポというんでもなく、やはりこれは文学である、と言えるのではないか。
水井君という青年が、引っ越し先で弾の破片を頭に喰らって、死んだ
ことが描いてあって、頭をベッドで反対にして寝ていた。そして、土嚢が積んで
いなかった。数々の不幸が連なって亡くなったという。人の死ぬとき
というのは、そういうものなのかもしれない。数々の不幸が重なって
、それで、死んでしまう。本人は戦争の起こっている国にいくくらいだから
ちょっとは覚悟していたのかもしいれないが、その日、寝ていて死ぬとは
思っていなかっただろう。死とは唐突に、突然襲い掛かるものかもしれない。
うーん、僕はわりと運はいい方だと自負しているね。いや、かなり
いい方だと思うけどね。曲がり角を曲がると死神とばったりと出くわすかも
しれないから、気を付けないと。
(読了日 2024年8・22(木)8:25)
(鶴岡 卓哉)
新潮文庫 平成2年
書いた? 書けん! というペンネームを愛
したという開高健氏の絶筆の一遍。
ラストの部分は一部が重複するのだがいいのだろ
うか? リフレインってことか? 昔の作家は同じ
ことばかり書いていたから、そういう手法なのかも
しれん。また、ベトナム、交わり、くんずほぐれず
して、悔恨、逡巡、泥濘に溺れて、立ち往生する
話しだ。
世界のところどころに現れ出ては、人の世に生きるのは
辛いぜ、と言いたいばかりに、詩的、メタモルフォーゼ、
白皙の腕に止まる蝶の如く、自由で、華憐、な言葉
遊びが弾ける。ぼくが師と崇める男、開高氏の生命の
絶叫を訊け。
(読了日 2024年8・21(水)11:31)
(鶴岡 卓哉)
集英社文庫 1988年
30年くらい前に、飛ばし読みしたが、今回はじっくり
と読んだ。ドルフィン・ホテルはいるかホテルと呼ばれ、
羊男は結局、何処かに行ってしまう。そして、ハワイ。
ハワイだ。ハワイなんてディズニーランドと似たり寄ったり
だ、という指摘通り、ぼくはハワイあんまり好きじゃない。
でも、ここでは重要な場所として描かれている。
「僕」はいるかホテルの僕のための場所で踊り続けるように
言われる。誰よりもうまくステップを踏むんだ。踊り続ける
んだよ。「僕」は華麗に踊る。そして、人は死に、コールガ
ールは殺されてゆく。スペシャルな人の物語なのだな、と思う。
誰もが自分のための場所があると信じたいのだ。誰もが踊っている
DANCE TO THE PEOPLE。人々は踊って人生を描いてゆく。
僕はうまく踊れているのだろうか、自信がない。
想像力がなくて、つまらないジョークばかり言う、やりチンで
さげチンの「僕」の冒険記。
(読了日 2024年8・16(金)23:03)
(鶴岡 卓哉)