自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

誰にでもできる自己施術を支える基本的考え方とは?

2021年09月03日 | 自然治癒力セラピー協会のセラピー


自然治癒力を発揮するための、メンタル要素

******************************

前書き)

自然治癒力セラピー協会で提唱している、自己セラピーとは、

何だろうか?

自分自身で自分にセラピーを施術すること。

そして、それはある一つの真理を自覚したら、だれにでも可能な

ことなのだ。

 

その真理とは、私たちは、一人ひとりが、完全な生命力の種を

宿していること。

これはだれもが知っていることだから、自覚するというのは、

そのことを想いだしたとき、自分に効果ある施術が、もう始まって

いるといえるのかもしれない。

そして、それを思い出しながら、自分の肉体的不調和を調整しようと、

どんな手段をとったとしても癒す効果は、必ず、あると私は断言したい。

 

その次に必要なことがあるとしたら、自分のその確信に対する、

信頼だろう。

’病が癒えていく’というのは、その人がその方法を選んだ自分自身と、

その方法に対する、信頼が好転していく大きな、最終的条件と

いえるかもしれない。

 

どんな方法を、その人が選択するにしろ・・・その人にあった方法と

いうのは、厳密にいえば、そこにいる人の数だけ存在するに違いない。

なぜなら、それがその人の”真実”であり、信頼できるという確信が

持てるのだから。

言い換えれば、各自がそれぞれの、多少ずづ、異なる信念を持って

いる限り、真実は生きている人の数だけあるのだろう。

 

自然界の生き物、特に、ジャングルに生きる野生動物には、医師は

いないが、癒すコツを知っている。

原因不明の病にかかり、何か処方を施しながら、一生を何とか

生き延びている、

という例は自然界には、あまり聞いたことがない。

何とか生き延びている間には、体力も限界がきたときにほかの

動物の餌食になってしまうだろう。

 

さて、そうした自然界の生き物が、持っている、自然治癒力を、

人工的世界に生きる人間が、発動するためには、何が必要なのか?

冒頭に述べた自己治癒力が発揮できる、パワーの源は、

なんなのだろうか?

世界的にベストセラーになったある本からの引用をご紹介しながら考

えてみたい。

(*1)カッコ内は、そのページ数。

 

1・”精神は身体のすべての細胞に存在する。”(271

 言い換えれば、すべての細胞には精神が宿るということだから、

私たちの自然治癒力は頭で考えたりする可能性を、はるかに超えている。

それぞれの細胞が一番良かれと、考えている方法が 最も強烈な

自然治癒力を生みだす。

それぞれの細胞が一番よかれと考えていることを、引き出すためには、

それをブロックしたり、邪魔したりする波動を出さないことだ。

そうした波動は、どこから来るかといえば、私たちの頭で”考えること”

と、”悩むこと、心配すること””恐怖心”などが、生命力を、ブロック

する一番のマイナスエネルギーといえる。

 

2.”脳は知の源泉ではない。データの処理装置に過ぎない。

脳は五感と呼ばれる受容器を通じてデータを取り込む”(528

 

五感とは、聴覚・視覚・触覚・味覚・臭覚 のことで、私たちが毎日

受け取っている情報は、この五感から得ている。

もし、その情報を、テータにたとえれば、脳でデータ変換されると

いうことになる。

だから、そのキャパが異なるため、受け取る人によって、あるいは

人以外の”脳を持つ生物”によって微妙に、同じ情報でも、データ

変換が異なってくるだろう。

 

五感感覚自体が、人間とほかの動物とでは、異なる。

だから、そのデータプロセッサーの働きは、五感情報を処理する脳

であって、そこで得た知識は相対的なものであり、絶対的なものと、

言い切れないだろう。 

人は、知恵は、脳からくるという。

脳は、あくまで、プロセッサーの働きをするにしかない、としたら、

私たちのいう、知恵とは、どこから来ているのだろうか?

 

3・”私は存在だ。 私はプロセスの結果ではない。プロセス自体だ。”(531

 

ここでいう、’わたし’とは、’神’である。神とは、私たち自身のことである。

なぜなら、私たちの内奥に存在するものだから。 

つまり、特定宗教の神ではない。

’私たち’はプロセスの結果でなく、プロセス自体、つまり、脳を

働かせている、つまり、プロセッサーを動かしているその力

(エネルギー)自体ということになる。

脳で得た五感の知識というのは、そうして考えると、相対的である

ということがよくわかる。

プロセッサーを、心の内奥に持ってきてみた場合、五感で得た

情報分析とは、異なる結果が出るからだ。

そのように無尽蔵なやり方で、この肉体と精神と心を使っている、

エネルギーが、”私なのだから。

ここで、”感情” という言葉をみてみよう。感情とは、英語で

emotionと綴る。

それを、分解してみよう。

エネルギーは英語でenergy, 動きはmotion, 感情は、この二つの

言葉を合わせた造語であるから、ふたつ合わせて、”e-motion ”

いう英語になる。

さて、この言葉が、キーワードになる。

 

感情を持つというのは、五感の情報の結果なのだが、ここでは、

単なる、好きとか嫌いとかいう感覚的な情感をさしていない。

ここでいう、本当の感情(emothion)は、心から湧いてくる

感情をさしている。

その感情を、”最近、いつ持てたか?”と自分自身に聞いてみると、

定かに思い出せない。

よく考えると、”感情”と思っていたものは、結局は、周りに

合わせたり、とりつくろったり、怒りや悲しみは表現すべきでない

と抑えて無理して楽しそうな、振りしたりしていたことだった

かもしれない・・

そう振り返ると、自分の感情自体が、生き生きと表せる場は、

日常生活の舞台では、あるようでないのかもしれない。

私たちの本質である、五感というプロセッサーを操作している、

エネルギーが、本当に楽しみ、心地よく、動かされるほどの感動は

そうそう、もてないのだろう。

そこで、人は音楽や絵画、演劇や彫刻などという、生き生きと

躍動感にあふれる、感情の表現を直観的に欲しているのだろう。

このエネルギーを生かすこと、それが、自然治癒力を働かす

動力にもなる。

 

5・”どんな神の一部になりたいか・・・それによって、人生の

目的と個別化が生まれる”(535

 

私たち一人ひとりは、結局、手のひらから出ている、5本の

のような存在で、親指のできる仕事、人差し指のできる仕事、

それぞれの指が協力して、手の機能が万全となるのと同様、

私たちも社会組織の一人として、互いに支えあって、生産性を

高める働きをしながら、個別に生きている。

 

それぞれが、それぞれの役目を果たすことで、全体の手としての

機能が成り立っているといえる。 

すべての人は、’つながっている’ということ、繋がって、大きな

機能の一つになり、また、その機能が、ほかの機能とつながって、

全体で、大きな調和した動きと進化というプロセスが可能に

なっているのだろう。

それを、心の内奥に住む神との結びつければ、私たちがどのような

神とつながりたいか、ということが人生の目的につながるというのだ。

 

自然治癒力を高めたいと思うのなら、完全体である神の姿と

結びつくことが、一番手っ取り早いだろう。

それは”絵にかいた餅”ではなく、本当に存在する、エネルギーなのだ。

すでに、結びついているのだが、私たちが手の指の一本だという

ことに気が付けば、神という手のひらから派生している存在で

あることが、体感できるはずだ。

 

どのように、それに気が付くか? それは、”求める心”の有無に

かかってくるのだろう。

そして、その方法は、冒頭に述べたように、生きている人の数だけ、

プロセスが用意されているとしか言いようがない。

 

引用箇所(傍線部分)”神との対話③” 

N.D.ウォルシュ サンマーク出版 2009

 

 

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”気”と”生命観”の欠如した現代医学

2019年09月26日 | 自然治癒力セラピー協会のセラピー

”生命の概念”は医学でなく哲学の分野;おかしくないですか?      9/26/2019

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8/19の記事の続き)

こんな具合に、”何が病気で健康な体とは何か”と決めるには、

血圧や血液のPH、内分泌状態や脈拍数、などの標準平均値

で図ることは難しい。


実母の例のみならず、私自身の例を出せば、介護で不眠状態

が続きストレスがたまり、体がパンパンになっていたとき

脈拍数が一分間に35回しかなかった。

まるで、心臓が自己防衛してエネルギーを使わないように

ているのかと思うぐらい異常に少なく、気になった。


そのせいか、時々立ち眩みや、不整脈が起きていた。 

あまりの少なさに、何かのこれは間違いだろうと何度も

図り直しをした。

ところが、インドの高名なヨギ(自己本質の神性と一体化

する修行をしている人)は呼吸数を極力減らして、心臓の

負担と余計なエネルギーの放出を故意に防いでいると

本に書かれていたことで、心配するのはよした。

無呼吸に近いヨギもいるという。 

そうしてみると、やはりこれは、エネルギーが減った体の

自己防衛だろうと納得がいった。


こうした心臓脈拍数が、標準基準値の半分しかない状況が、

数か月は続いていたと思う。

特に医師にかかることなく自分の体と対話しながら、

徐々に正常に戻っていった。

 

実母の血圧の高さでも、同様のことが言える。 

例えば、年を重ね、生理的に血管が細くなれば、頭の方に

血液を上昇させて運ぶためには、若いころの血圧のまま

では脳まで血が行き届かないだろう。


血圧を調べるということは、正常に血液が流れることを

チェックするのが妥当で、その強さを数字で表して平均化

して、高ければ治療するというのは、少し胆略的な考え方

のような気がする。

 

時々耳にするが、人間ドッグにはいって弱点を指摘される

のは普通だが、”健康そのもの”と折り紙付きで出てきた人が、

まもなく、脳溢血や肝硬変などが急にすすみ亡くなって

しまうという事例は少なくないと聞く。


これも、人間ドッグの検査では、データや、体の物質的働き

が正常だということを示しただけにすぎず、真に体の働き

の底力の測定は無理だったからといえるだろう。


体の働きの底力とは? 

本当の意味で健康の礎となっている判断はどこでできるのか?

それは、正常な血圧でも、正常な内分泌の働きでも 

血液でも、心臓の強さでもなく、“順気”の勢いある周り具合

といえそうだ。

 

”順気の周り具合”といっても、ピンとこない方が多いかも

しれない。

人の体の生命力、それを、サンスクリット語でプラーナと

呼ぶが、日本語では”気”という。


我々の先祖たちは、”気”の存在を古くから知っていた。

”気持ち”の気、気持ちをしっかり持ってね、と心が悲しみ

に震えている人などに声かける。

 ”やる気”の気、やる気があれば、目標に向かって、そうそう

苦難があっても波乗りの波のようなゲーム感覚で対処して

目的を達成できるものだ。


その”やる気”の”気”によって、呼応して働く”体の順気”、

その二つの”気”はコインの裏表のようなものだから、

こうした”気”の考慮や配慮なしには、本当の健康診断を

だすことは難しいとつくづく思う。

 

根本の病の大本を見ずに、症状という枝葉の状況を改善しよう

というのは、”対処療法”にすぎず、本来の病の原因をただす

ものではない。

 

”気”というのは、自覚できるものかといえば、我々の

心の”無意識の領域”にある。

”生命”という言葉、”自然治癒力”もその意味では無意識

の領域に入るだろう。

体の中にあるこうした”無意識の動き”を総称して”外路系”

というが、この研究はなかなか進んでいないという。

わかりやすく言えば、”生命”という言葉は医学に携わるもの

ならば、それを救うためにに働いているわけでとても重要な

概念だが、実際、”生命”についての言及は、哲学書には多く

扱われるが医学書には出てこない。


おかしいと思いませんか??

”心療内科”では、深層心理と体の関係を探る。

ある程度、心理学の領域に入ってくるだろう。

外路系運動が正常かどうか~も深層心理と深くかかわって

いるから、内科に比べて、原因により深いアプローチが

できるだろう。

 

自然治癒力などは、この”外路系運動”が正常に働いている

現れだが、今までお話したように、それは、”風邪をひかない”

ことではなく、”風邪をひいてもそれに適応に体が思考する前

に対処している”ことをさす。

 

症状が出ることが悪いことではない。 

たとえば、アートマセラピーをしていると、とても凝っている

個所にもかかわらず、刺激を与えても、全く自覚症状のない方

が多い。

自覚症状がないというのは、この外路系の働きが弱くなって

いるからで、もし、異常を調節する働きがあれば、そこに

”痛み”なり”引き連れた感覚”などを感じるものだ。


鈍感になっていると、その個所を押されても痛くもなんとも

ないという体になってしまっている。

 

このように鈍感になっていると、体の方が、異常を感知する

のが遅いということだから、むしろ、症状が出ずらい。 

病気にかかりやすいか、かかりにくいかをもって、

健康か不健康かと決められない原因がここにある。

 

 

 

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アートマセラピー

2019年01月04日 | 自然治癒力セラピー協会のセラピー

  2019.01・04

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明けましておめでとうございます。

皆様にとって良いお年となりますよう

心からお祈りいたします。

アートマセラピーについてお話したいと思います。

私は、施術中、言霊の力を借ります。

おもに、ホツマツタヱの中の、あわの歌を唱えます。

その効果は以下のようになります。

   

  数年前の江の島の初日の出            数年前のヒマラヤ山脈での日の出

 

“施術時において、自分の身体のヴァイブレーション

を高め、施術中の想念をアートマ(自己神性)に

つなげるため。

すると、自然と、被施術者のアートマ【神聖自我】

を見据えることが可能になる。 

これは、神の完全生命が、自己に流れていると

いう事実にしっかりと集中観想続けることで、

のヴァイブレーションを崩すことなく維持して

施術者の現在意識の中から、被施術者の訴える

不完全さは消え、本来の健康なる相手の実相と

結びつく。

それは、そのヴァィブレーションが誘導して、

被施術者は施術者のそれと共鳴するからだ。 

その時、施術者の発する、五感には感じること

のできない、アートマ波動によって、被施術者は

無意識のまま、病とか、不調とかいう、不完全な

心象を消し去っていく

 

こうして瞬間的に、奇跡と呼ばれる治癒が可能

となる。それが瞬時にできない場合は時間をか

けて少しずつ階段を上るように、実相の姿に

近づいていけるだろう。

 

アートマセラピーとは、自分の想念と関心を、

常に自己に内在する神の完全性に向け、ぶれなく

見据えることよって、心身のヴァイブレーション

が高められ、神の完全性ヴァイブレーションと同調

融合し、三次元に表れている病とか不調和という

不完全さが消滅していくセラピーだ。” 

*************************************

アートマとは、”自己の神性なる本質“ と

言い換えられる。 

アートマセラピーというのは、”それに働き掛け、

対象のアートマを引き出す行為”えよう。

 

施術者が ”自己本質に限りなく近い波動” 

を認識して、被施術者に対するとき、相手の

限りなく本質(アートマ)に近い共鳴弦が

響きだすというわけだ。  

施術者が自分自身である場合、自己セラピーという。

誰にでも、自己セラピーは可能だ。

 

 

 

 

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今を新生して生きよう~昨日の記事の追記

2018年08月02日 | 自然治癒力セラピー協会のセラピー

その方法は無数に   2018・8/02

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皆様 おはようございます。昨日に引き続き、ウニヒピリとの対話(

4)の追考と補足です。

今を新生しよう! というのが、今日のタイトルです。

”ウニヒピリとの対話”について、詳しく書いていると、ある特定の

精神的集団(教団?)の後押しをしていると勘違いする方たちが

いるかもしれません。


これまで、今後も数回続けて、その事を書き続けますが、それは、

自己セラピーのエッセンスをご紹介したいという気持ちからでも

あります。


自己セラピーというのは、‘過去のカルマにとらわれない、自分として、

今を生きよう’という積極的であり、静謐的であり、落ち着いた自分を

取り戻すことであり、そして、自然治癒力を発動する身心状態を

維持が期待できる自分へのケアです。


そして、その方法は無数にあります。無数というのは、ある人が、

‘過去のトラウマや、自分を無意識に操縦している過去から培って

きた価値観と(@^^)/~~~バイバイしよう)と決断したときから、

その人なりのやり方が必ず、あるからです。

 

それは、私が想像することができません。その方法はたぶん、

多岐にわたるでしょう。

たとえば、読書、旅行、映画鑑賞、美術鑑賞、寺院参拝、讃美歌や

バジャンをうたう、尊敬する精神的師の本を熟読する、瞑想する、

走る、ゴルフをする、・・・ 


無数にあるというのは、過去にとらわれない自分でいたいと

努力している人の数だけ自己セラピーの方法は、あると思うからです。

しかも、同じ人でも、年代や環境によって、また、異なる場合がある・・

そういう柔軟性のあるものです。 


が、エッセンスは一つです。 今を生きる、生ききる という意識、

そして、過去にとらわれていた、“恐怖”や、”思い込み” ~こうなる

はずだ~、という無意識の領域のドロドロしたものを、すこしずつ、

粗大ごみに出すように、捨てていこうという決意です。


 きっと、すでに皆様は、その方法を模索しておられるでしょう。

良いと思ったら、それを、徹底的に続けてみてくださいね。 

あきらめずに。

それが同時に、あなた独自の、自己への”セラピー施術”につながって

いくかもしれないのですから。

 

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自己ヒーリングの根本にある意識の見つめ方 (下)

2018年03月25日 | 自然治癒力セラピー協会のセラピー

 

奇跡的回復に見られる変容(transformation)について  

2018・3.25

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前回からの続き・・・・

ということは、3月16日の記事の続きとなります。

(間に協会からのお知らせが入ってしまいましたので。 )

 

 

心の扉を開けて、見つめてみると・・・・?

 

 

私は自己ヒーリングから、宗教心理学という学問を知った。

自己ヒーリングとは自分の持つ自然治癒力を、十分発揮させる

ことで可能になる施術だ。


そのプロセスには、様々な道があるのだが、共通していえる

ことは、以下の7つの段階を経ているようだ。

 

① 自分自身の潜在意識の浄化

潜在意識の浄化とは、自分が意識していない心

(全体の98%を占めると言われる)のマイナスの想念を

切り捨てていく。


私たちは、潜在意識とは反対の顕在意識=意識される心で

決断して行動していると考えがちだ。

だが、実際は、潜在的に隠れている心が、大きく今の自分の

言動を左右させていることは、深層心理学でも明らかに

なっている。

   

過去のトラウマやコンプレックス、マイナスの思い込みや

嫉妬や憎しみなどの想いが、潜在意識には、ため込まれて

いる。

それを浄化していくことが、健康になるための心持に

大きな影響を与える。

 

② 超自我的意識への目覚め

①を可能にする方法の1つが、自分の中にある、もう一つの

意識の層、つまり、超自我的な自分の存在に気が付くこと。


その超自我的自分と、今の不満のある自分との関係を考えて

整理する

例えば、自分の中にある、不完全さ、健康面でいえば、病や、

精神不安定、社会的に見れば、自分の周りの人間関係の軋轢や、

社会適応不完全さなど、は、今の自分の潜在意識がそうさせ

いるだけである。

だから、その自分を超越した第三の自分の意識の存在に

気が付けば、不完全さを克服できるということになる。


自己改善という希望があれば、そして、その希望が、

そうなるのだという、”決意”になり、それが、”目標”に代われば、

人はすでに変容し始めている。

 

③ 自分の深淵な“心の領域”を掘り下げる 

内側に対しての眼を大切にする

 

変容の第一歩、それは、”内側”を見る”心の眼”の視力?を

高めることだろう。

心の眼を使えば、心の中を顕微鏡で見るように、観察できる。

 

④ 感情を客観的に見つめる

そうして、心の中を観察し始めるようになると、次第に、

心の中のメカニズムとそれの要因となる”要素”に気が付く。 

つまり、心には理性と感情の二つがあるということだ。

さらに、自分の感情は、激情的な破壊的ものと、愛情や

慈愛のように、静かに包み込み育む優しさなどもある。


理性的に、達観視できる自分の心は、そうした ふり幅の

大きい、波がそこにあることを冷静に見て取る。


状況や状態などの、時々で変わるその感情の動きを、一歩、

離れた、内側の眼で見つめることは、第三の自分の意識(

潜在意識でも現在意識でもない、もう一つの自分意識)

につながる、一つの手段だろう。


そのように、客観的に見つめられるようになると、

自分の今の心持を冷静に俯瞰的(ふかんてき)に距離を

置いて眺めることができるようになる。

 

⑤ 二元的な価値観を否定して、最終的に容認すること。

 

内なる眼(まなこ)で心を見つめていると、その感情や理性は、

相対的価値基準に影響さて生まれることに気が付く。 


例えば、誰かと会って持つ印象、何となく良い人とか、

不愉快そうな人、相手の口調を通して、優しそうとか、

冷淡な人らしいというように、知らずの内に、瞬時に無意識

に持っている自分に気が付かされる。


会ってから5~6秒後の印象だけで、愉快になったり、

不安になったり、心が影響されていることがわかる。

もし、その時、マイナスのイメージを持てば、不愉快、

や不安な面持ちになるだろう。


第三の心の眼を生かして、その価値観は、幻想かもしれないと

中立的な審美眼を持つ試みを持つことをお薦めしたい。


なぜなら、ほとんのマイナスの感情は、個人的で主観的な、

五感機能から得た感覚だからだ。

さらに、潜在意識の仕業でもある。

過去のトラウマ、等、無意識の中に ため込まれた不透明な

原因が、感覚を支配していることが往々にある。

それらは、たとえれば、霧やスモッグのようなものだから、

それに、反乱射された光のように、まっすぐなものも、

ゆがんで見えることが、多いようだ


あるいは、その人の生活圏の場、住んでいる社会環境

の常識の中で、知らずに感化された価値観が大きく左右

していることがある。


その常識的価値観は、集団的に、それがしいと信じられて

いることだから、集団という、大きなエネルギー色に、染まった

自分自身が、自分の意見のつもりで、ある対象に湧き上がる感情

を抱くことも多い。


日本には、’出る杭は打たれる’という諺がある。

それは、周りの反応に順応するよう所作を慎まないと、周りから

反感を持たれるということだ。

こうして、小さいときから育てらていると、内側を見る眼識力は

なかなか、アップできないだろう。


さて、そう考えると、第一印象や、自分の下した判断と

いうのは、ほんとうに適切なのかどうかは、わからない。


⑥ 自己嫌悪や妄想的、独りよがり、被害者意識や思い込み

でかたくなになった心を解きほぐすこと。


往々にして、人は、不愉快なこと、受け入れたくないこと、

自分の価値観にそぐわな事態や相手に対して、独りよがり

な判断をしたり、思い込みでますます、自分を不

愉快にしていくという悪循環に陥りやすいようだ。

それが嵩じて、うつ状態になるケースもある。

心を解きほぐすという意味は、自分の陥っている心 
のそうした状態は、自分自身で、陥っているだけかも
しれないと、包括的に、眺めてみても良いかもしれない。

⑦ 自分を生かしている、生命力は”mortal being”(

死滅する存在)である、小自我ではなく、最終的には、

”the real Life”(実存する生命体)、実在する大いなる

命と同一であるという大我意識へ回帰していくという

最終ゴールを明確にすること。 

 

独りよがりな思い込みに陥った時、心を解きほぐすには、

再び、先ほど述べた、①の項目に還って、循環して

ゼロモードに心をリセットする必要があるだろう。

クラインアントさんの中でも、特に奇跡的回復と医師

言われるほど、劇的に変容した数人の方たちが 健康に

なった道のりを考えたとき、上に挙げた精神回路は、

身体が健康になっていけばいくほど、精神がそちらの

方向性に、変容していった。


⓻の項に挙げた、小我意識から大我意識へ~という

テーマは、難しい、理屈ではない。

実際、私たちの本質がそうであるから、それを求める

だけだ。


大我意識(たいがいしき)という大げさな表現を避けるのなら、

単に、私たちを生かしている”生命力”の本源と言葉を換えても

同じことだと思う。

 

(これからの医学や介護と宗教心理学の接点は?)

今までの医学界では、病を克服するという立場、“死は負け”

であるというスタンスと聞く。

“ガンと闘うな”という趣旨で慶応大学医学病院の近藤医師が、

それと対峙した意見を数年前発表して、世間に

反響をもたらした。


平均寿命が増すこれからの社会、ターミナルケア―では、

死を見つめる患者の心に寄り添い、不安や恐れをなくし、

心に平安をもたらすことで病の改善を図ることが必要

になっていくだろう。


あるいは、先に述べたような、心の持ちようが病の回復

につながる研究成果が一般的に認められるようになるだろう。

 

病院生活がどこか寺院生活にも似た、患者に優しい、

“不安から平安”をもたらす場になることも決して夢では

ないだろう。

 

すでに、EBM(evidence based medicine)から、

NBM(narrative based medicine)へと データ中心の薬投療法

から、患者との対話を中心に、異なる各人の

心の在り様にそったケアへのシフトが 医療現場や介護現場

では見直されているようだ。 

さらに、自分の体験でいけば、自然治癒力を応用して、

自己治癒が可能だと自信を持てれば、希望とともに、

自分への尊厳が生まれるだろう。 


最期の医療ケア―といわれる、ホスピスケア において、

こうした、自分の生命の尊厳、どんな姿になっても、

生きていること自体が、自分自身の生命の炎が燃えている

証拠であるという認識を持つことは大きな役目を

果たすことと思う。

 

さらに、魂の持つ普遍性 を信じることができれ死 は 

次へのステップとなり、決して、恐ろしいものでもなく、

怖いものでもないと感じられて、安らぎに満ちた最期を

迎えることが可能となるに違いない。

 

 

 

 

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