自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

自然治癒力セラピーを考えた土壌①

2018年02月24日 | 自然治癒力セラピー協会のセラピー

 

~Metaphysical heelingと“宗教心理学”(ヒーリングと深層心理)

その(1) 2018・2・24

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ヒマラヤ山脈の麓に咲く シャクナゲ

 

身心のエネルギー振動数を精妙にしていく(*1)

ことで、自然治癒力を発動させ、

自己ヒーリングが可能なことを

体験したのは、20年以上前のことだ。 

私事で恐縮だが、上記のテーマは、

そこから、お話させていただきたい。

 

1989年のある日、私は、国立機構

相模原病院の検査室にいた。

MRIの結果、即手術が決定。

数日後には、ガンに侵され夏みかんほどに

肥大した臓器が除去。 

’良性の腫瘍’と私には告げられていたが、

事実は、日本人には珍しいタイプの

’血液性悪性癌’であるという可能性

が高く、今後も集中治療に半年程

かけたいと、主治医は夫に話した。

そのうえ、6年の“余命の宣告”も

告げられた。

私は、そのような話し合いが夫と

主治医の間でなされていること

など知らないまま、“現代医学対症療法

に信頼をおいていない” という

失礼な置手紙を病床に残し、術後数日

で自主退院した。

 

その背景には、それまでの闘病の

葛藤から得た信念があったからだ。

私は生まれつき、弱い体質だった。

アトピー性皮膚疾患はで30代

まで続いて ミイラのように顔

や首に包帯を巻いていたことも

あった。 

心臓弁膜症といわれ、加えて、

自律神経失調症で片頭痛と

吐き気に悩まされた。 

腎臓は悪く、遊走腎と診断され、

精神的には自殺を考えるほど、

鬱屈していた。

14歳で ’第二の自我’が目覚め、

体が弱く、精神的に不安定な

自己を否定気味に客観的に見た。

と同時に、“変わらない理”を模索

し始めた。 

哲学書や宗教書を読み漁ったの

もこの時期だった。

次第に‘ある信念’が信仰のように

芽生え、18歳の時までアトピー性

疾患に使用していた、副腎皮質

ホルモンなどの薬を捨てた。 

 

すでに、私の’自我’の中に、

’人間は本来、健康である’と

いうこと、’宇宙の運行を司る

エネルギーこそ、身体を統合

している生命力のエネルギー

ど同様であるという信念が、

強く根付いていた。

退院後は、術後の検査に行く

ことなく、自分なりの浄化方法

(自然治癒力セラピー)で

プラナ(生命波動)を整えること

に専念した。 

同時に、身心の浄化を絶えず試み、

新陳代謝や免疫システムを強化

しながら、生活しているうちに 

夫に告げられた、’仮定余命’と

いわれた数年が何事もなく過ぎ

た。 

(海外生活での信念の強化)

それから、日本を離れて、インド

で15年間の生活に入る。

そのころには体質は改善され、

自己セラピーを自らに施術して、

悩まされていた持病やアトピー

皮膚疾患は殆ど完全に消えていた。

体質が変わったかのようだった。

厳しいデリーの天候とインフラ

の整っていない生活の中で

デング熱や熱帯病にかかること

が何度かあったが、大使館の

医師が日本人会に注意を促した警戒

症状が出ても、病院に行くことは

なく、自然治癒力セラピーを

活用してその完治を試みた。 

 

次第にこうした私の施術は、

周りの人々に知られるように

なり、当時、研究生として所属

していた、インド国立デリー大学

大学院の先生がたや友人たち

にも施術を要望され喜ばれた。

一方、このような施術を行いながら、

インドの多様な宗教的背景を

持つクライアントたちとの語らいは 

私の人間観やスピリチュアル観に

影響を与えるほど、有意義だった。

 

インドでは、ヒンズー教、キリスト教、

イスラム教、シーク教、ジャイナ教、

少数だがゾロアスター教や仏教

という多彩な宗教が現地の人々の

生活に溶け込んでいた。

中でも、日本にいたときは、全く、

私の生活に無縁だったイスラム教は、

良き人々との出会いがあり、

最も親しみある宗教になった。

インド在住時代、イスラム教信者として、

ハッジ(信者が一生に一度は行う

義務のある、メッカへの参詣)に

参加することができた。 

その一方で、偶像崇拝を徹底的

に禁止しているイスラム教と

対照的な、多神教のヒンズー教

寺院にも頻繁に足を運ぶ機会は

多々あった。

世界で最も古いヴェーダ哲学から、

不二一元説を学んだ。 

ハチャメチャな信仰生活に

足を入れていたようであったが、

それは、逆に一つの真実を知る

要因になった。 

つまり、多神教も一神教も、大本

にある信仰の根っこは変わらず、

それは、神と自然治癒力、

自然治癒力と人間、

神と人間の関係、などの、それまで

に確信してきた、

私の信念を強めてくれた。

同時に、インドで博士課程を

修了して、卒業論文として、

日本とインドの古典音楽における

芸術性の比較を選んだ。 

タイトルからだけだと、

わかりずらいが、具体的には、

インドの古典音楽が数千年の

歴史を持ち、宗教的な意味合い

が深いところから、仏教に

関した日本の古典音楽、

たとえば、能 や仏教音楽が

与えたそれへの影響、また、

インドから伝わったとされる

読経の1つの形、声明 などの

考察をしながら インド古典音楽

と日本文化の美的比較などを

学んだ。

 

シンプルに言えば、インド音楽を

通じて、私は、宇宙の鼓動と

神の旋律に巡りあった感動

を覚えながら過ごしたと

言ってよいかもしれない。

インド音楽は私にとっては、

瞑想の1つの方法であり、自分の

内面に深く回帰していく方法で

あったことは間違いない。

 

イランの拝火教の寺院で儀式の準備をする信者

 

 

*注1)心の波動数を精妙度は 

具体的にいうと、日常活動時の

β波(14~38Hz)より寝る前の

α波(8~13Hz,)、

α波より夢を見ているときの

θ波(4~8Hz)、θ波より

深い眠り時のδ波(0.5~4Hz)

というように、Hz波動数値

が下がるのに反比例する。 

体のエネルギーの精妙度は、

呼吸数、心拍数の少なさに

反比例すると考える。

 

 

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あわ(天地)の歌とリンポチェの教えの関連性

2017年06月20日 | 自然治癒力セラピー協会のセラピー

 

私(須田)はこの歌で、変わりました  2017.6.20

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フリ―画像 宇宙 に対する画像結果

 

”あかはなま” で始まる、あわ(天地)のうた(注:2) 

は、強力なマントラである。


私は、必ず、自然治癒力セラピーを数回受けられた自分の

クライアントには、この歌をイニシエーションさせていただく。 

そしてほとんどの方たちは、ご自分の体が、唱えることで、

その言霊に反応して変化を感じられていく。


効果を感じると、このうたを、進んで唱えられるようになる。 

すると、まもなく、自己セラピーをしているのと同様の

”反応”が体に出てきて、爽快になり、いわゆる、自然治癒

していることがたびたびこれまでも見られた。

 

イニシエーションというのは、歌の言霊が、身体に影響を

直接に与えることができるように、身心共々の浄化をしながら、

この歌のスピリットを伝授する。


アワの歌は、ネットでも出てくるから、一人で唱えることは

可能だが、唱える人の身体を高速道路に喩えると、

イニシエーションの意味が、説明しやすい。


高速道路で、いくら100キロで走りたくても、道路上に未処理

の事故車があれば、どうだろう?

事故車が取り除かれるまで、道路は渋滞するから、先に進めない。


どんなに性能の良い高級車に乗っていても、渋滞していれば

関係ない。

高速道路は、身体の気の流れで、事故車は、その気の流れを
阻害する、”身体のつまり”とか、"凝り”をさす。

イニシエーションをするとは、まず、アワの歌の言霊が心身
を流れることができるように、つまり や 凝り を解いて、
この歌を、教えて差し上げることだ。


”詰まり”と呼ばれる 順気経路に、”滞り”があると、その滞りを

除かない限り、あわの歌;あかはなま の歌を いくら唱えても、

なかなか、その歌のもつ、言霊の恩恵を受けることはできない。


このうたの出だしは あ行、か行、は行、な行、ま行 の 

母音ア からその一節は始まる。


日本の超古代秀真(ほつま)文字で見ると、象形文字のような 

の形が母音アをあらわしていて、その中に点を入れたり、

天地を結ぶエネルギーの縦線と、地のエネルギーの横線が

加わって、子音が構成される。


母音あ音が ”あわの歌”の最初の節にあらわされているのにも

意味がある。

”あ”の音は、物質の最初の形に現れる以前のエネルギー体、

つまり、”物事の本質”を示しているからだ。

 

これは、普遍性のあるものだから、チベットの教えの内容

にも、垣間見られる。

チベットから古く伝えられる、ゾクチェンの教えには、

“ア” の響きに、純粋性の空の本質を理解する言霊がある

と考えられている。


リンポチェの著書 (*2)から 空(くう)の本質を観じる

ための、”ア観想法”を 少し、ご紹介させていただく。

 

*********

アの音を繰り返し歌おう。呼吸とともに響きを吸い込み、

吐き出す。


呼吸は生命の息吹。

呼吸に意識を向けよう。

呼吸と響きは表裏一体だ。


アの音の響きには、精神面と肉体的側面がある。 

息を吸い込んだり吐き出したり、意識をそこに向ける

ことで心と呼吸が一つになる。


心は御者で、呼吸は馬だ。

馬は今、走りだし駆け抜けようとしている。


そこにはチャクラが並んでいる。

繰り返し ア音を歌おう。

その響きに守られプラーナは心と体を駆け巡り、

肉体的、感情的障害、心の妨げを浄化していく。


かたくなな思い込みも消える。

“ア”の響きは、こうして、あなたの奥深いところ

にある空間を開く。


今すぐ気がつかなくても、自分自身が開かれた状態

であることに気付く瞬間が必ずやってくる。

その具体的方法は以下だ。

①  アの音を歌うときははっきりと明瞭な声を出す。

 ②  意識は額のチャクラに向け、音と肉体がつながる

イメージを持とう。 

 その時、音に秘められたエネルギーや振動を感じ取ってみよう。

 ③  額のチャクラから白い光がほとばしり出ている。

それを心の中で映像化してみよう。

この光が存在の基盤となる次元を司っている。

 ④  アの響きを瞑想しよう。 

アの音を歌いながら、無限に広がる空間と、自分がつながって

いることに集中しよう。


アの響きは 妨げとなるものを解き放つ力を持っている。

自分ですら気づかない奥深い場所にある妨げ物もすべて

解き放たれるので、その空間はますます広がりを見せ、

自分とつながっていることを知る。 


歌い続けることにより、こうした効果が高まる。

 

⑤  その瞑想が深まると、自分が忘れていた存在、

太古から変わることのない完全な魂、

例えれば、砂漠の上に広がる雲のない晴れ渡った

青空のように広大なオープンな存在であることを

かんじられる。

 

⑥  時々、雲のように、悲しみや狼狽が思い起こされた

ように浮かぶかもしれない。

それはアの響きによって、徐々に消え去り、そのあと

に青空が見える。


アの言霊は、こうして青空の視覚を妨げる障害物を

浄化し、空間を広げる力を持つ。


⑦  空間を創りだそうとするな。

すでにその空間はあなたの中に存在していることを知れ。

自分の中に純粋で無限に広がる次元が存在している

ことに気付く。

それが阿音の持つ言霊の力である。

 

 

注1~ テンジン・ワンギェル・リンポチェ 

インド北西部、アムリッサル生まれ。

 ~ チベットポン教・ゾクチェン思想を西洋社会に

広めた先覚者で、米国 バージニア州で

リグミンチャ研究所運営。


注2~あわ の うた

あ か は な ま 

い き ひ に み う く

ふ ぬ む え け

へ ね め お こ ほ の

も と ろ そ よ

お て れ せ え つ る

す ゆ ん ち り 

し い た ら さ や わ  

(前半部分を イザナギ尊 後半部分を 

イザナミ尊 がうたわれた)

 

秀真文字 に対する画像結果 秀真文字

 

青線引用参考:”チベット聖なる音のパワー” 

2010年 KKベストセラーズ発行



 

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母とスタッフさん共に顛倒ダウン

2017年05月20日 | 自然治癒力セラピー協会のセラピー

インナーパワーの自覚をしたスタッフ    2017.5.20

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野球無料イラスト画像 に対する画像結果

 

先々回、音楽で弾けた日 5月5日の事を書いた時、最後の下りに、

私自身にこの日をもって戻ったと書いた。

ちょっと、良い気分になりすぎえていたかもしれない。

翌日から、しっかりと現実の厳しさが待ち構えていた。

 

翌日、つまり、5月6日のこと、母の体に痛みが表れた。 

寝返りを打てず、体を起こすことも困難な痛みだったが、当初はどこが痛いのか

スタッフの人達もよくわからなかったようだ。

様子をみてということで、私の所に、その痛みが尋常でなさそうだと、

連絡が入ったのはそれから約1週間たった、13日土曜日だった。

 

その1週間の間、異様に痛がるので立ち座りが困難、安静を試みて、

あまり、活動させないようにしていたら、今度は数日間の便秘になった。

連絡を受けすぐ、ホームに向かった。

 

母に、 セラピーを施して半時間、昼食後とり、幸い、1時間後、母は、便意を催し、

トイレに入った。 

ウサギのうんちのような形状で、20分便座に座って、何とか、数日間の溜まりものは

出ていったようだ。

背中の痛みは思ったより少ないような気がした。

 

母は去年、一昨年と、大腿骨を折り、手術している。 しばらく検査を受けていなかったので、

5月15日月曜日午後、執刀医のいる整形外科病院に行くため、母を迎えにいった。

いつもの通り、家を出るとき、”今から向かうので母を玄関のところまでお願いします”と

ホームに電話を入れる。

電話を受けたスタッフの口調はいつもと様子が異なり、口ごもっている。

“ちょっと、無理です。ちょっと、事件が・・・。いえ、また、いらしたら、お話します” 

と慌てた様子で、電話を切った。 

 

胸騒ぎを覚えながら、10分後到着、二階の母の部屋に入ると 異様な光景に驚いた。 

母は泣きべそをかきながら、青白い顔で”痛い”と言いながら、横になっていた。

その傍らにスタッフの女性が ”本塁ホーム、滑り込みセーフの”形で左手だけ伸ばして、 

不自然に寝そべっている。

野球無料イラスト画像 に対する画像結果

その手の先には、氷で冷やしたタオル。それを母の顔に押し付けている。 

”転んだのですか?” 

”はい、顛倒、全身強打で、二人とも身動きできないほど痛みがあるようです”と

先ほど電話口で対応したスタッフが答える。

冷やしたタオルをまず、外してもらった。 こういう時はかえって、体の気の流れを冷やすことで

滞らせるからだ。

理解できた、。

不自然に寝そべっているスタッフは母の”介助”で横になっているのではなく、

母を支えたとき、バランスが崩れて、一緒に横倒しになったのだ。 

彼女も母と同様、かなりの痛さがあったのだが、痛いと言えば、母が心配するので、

何事も無いように、”痛いよ”と声上げている母を むしろ、なだめながら、

母の顔にタオルを当るために、左手を突き出していた。

‘どうですか?’とまず、そのスタッフに声をかけた。

‘救急車を今、呼ぶか話していたのですが、私の背中と腰、右手足が動かず、動かそうとすると

激痛が走るので、今は動けないから無理と他のスタッフに話したところです。

と 彼女は、異常のない、左手で腰をさすりながら、いう。

とにかく、手当してみましょう、と私。 有無を言わせず、セラピー体制になった。

人は苦しい時はわらをも掴む というが、拒むことなく、お願いしますといった。

 

すると、開始後、数分もしないうち、彼女は声を上げた。

“ヤスヨさんの今充てている手!なんて熱い手のぬくもり!、

体の芯に通って、痛い場所を抜けていく”

と驚いたように私を見る。 

”電気療法をしたことあるけど、その時の刺激とよく似ている。気持ち良いです”

それからさらに、半時間後、

不思議、不思議、ほら、右手が動く、”と言いながら、様子を見に来たスタッフに 

肩から硬直していた右腕と手を 動かして見せる。 

そうこうしているうちに、一時間あまり後、彼女は半身を起き上がらせて、

壁にもたれかかることができた。

以前 母と海外に旅したとき、幼かった息子とベッドの上でふざけていて、

ベッドから転がり落ち、母は、今のような状況になったことを思い出した。

とても痛がったが、セラピー後、何事もないように いびきをかいて寝てしまった。

10日後 帰国して整形外科に行くと、肋骨が折れていた。 

”よく、高齢(すでに70歳超えていた)にかかわらず、旅してまわってこれましたね”

医師は驚いた。

このスタッフさんの場合は、体を起こし、足腰の動きから、骨は、折れていそうもない。

ホットした、 

 

ここで、初めて母の体に私は向き合った。 

手を当てていくと、母の体も見る見るうちに 柔らかくなっていく。冷たかった手足が温まる。 

母は尿意を覚えたが、当然、トイレにたてないので、リハビリパンツで用を足した。

かなりの量だったのだろう。シーツが汚れた。 その交換をしたくても、

半時間前は体を左右に向くことができなかったのが、30分もすると、

体を動かし横をむくことができたので小ぎれいに身を整えられた。

 

そうこうしている中、迎えの人が来て、そのスタッフはどうにか立ち上がらせてもらい、

母のいつも使用している車いすに乗って、母が本来行く予定だった、病院へ向かった。

その様子を見ながら、

“お母さん、観てごらん。

さっきまでお母さんの車いすを引いていてくれた人が今、それに乗って、部屋を出ていったよ。” 

”お笑いコントの一場面のようだね” と、話しかけると、母は高笑いをした。

“ははは!可笑しい! ほんとうに、滑稽だ!”

さっきまで笑わせようとすると、”笑わせないで!体中痛いから、やめて”

としかめ面でこぼしていた母が、今は、声を出して、笑い転げている。 

まるで、女学生が笑いツボにはまって、何を見てもおかしいような、そんな気分になったようだ。

 

これから自分はどうやって、家に帰るか?体が痛くて動かないのに、どうしたらよいか?”

と困惑していたと 施術中、スタッフは私に語った。 同時に母を気遣って、

明るい雰囲気を保った。

“お母さん(と母を呼ぶ)、可笑しいね。

二人して、床に倒れていて、通りすがりの入居者さんが見ていくよ。

同じ姿勢で一体何やっているのかしらってね・・・”

と面白そうに語り掛けていた。

私も思わず、もらい笑いする。”ほんと。なんかこの光景、なかなかないものねえ“、

母は、”肩が痛い、左手も曲がらない、右手がしびれている、イタイイタイ、”と言いながら、

やめてよ、笑わせないでよ、痛いよ、笑えないよ“ と半べそで愚痴る。

”泣くより、痛くても、こういう時は笑った方が 早くよくなるよ“ と私。 

2時間の間に、いつの間にか、自然と、母の部屋は笑い声に満たされていった。 

母が痛いのはかわいそうだったが、正直、母のこうした本来の明るさのツボに触れて、

一緒に笑いあえることは嬉しかった。

母にとっても、笑い声をあげたことは、久しぶりだったろうと感じた。

 

にかく、スタッフさんたちは秒読みで忙しい。部屋の外から声が聞こえる。

あ、トイレ、待って、今行くから。 あ、~さん、どこへ行くの、

そこは、押し入れだから、開けたら・・・あ、危ないですよ、、、

ほらほら、いろんなものが落ちてくるでしょう。触らないで、もっていかないで・・

ピンポーン。。。はい、誰かしら、電話だれか出てください・・・

~さん、今、濡れたのを脱ぎましょうね。着替えますから、待っていてください。

 

忙しいから、当然、余裕のある時にこそ、できるであろう いわゆる、無駄話的語り掛け 

はなくなる。

入居者の皆さんたちはといえば、学校のクラスのおとなしい生徒たちのように、

大きな楕円形のテーブルを囲んでじっと黙りこんで座っている。 

そういえば、二階に上がって、“こんにちは”と筆者が通りすがりに声かけても、

皆さん、自分に言われているという意識がないように、表情も変えなかったなあ。

 

母の高らかな笑い声を聴きながら、心の交流、の意味と意義を実感した。 

なぜって、心の交流 は エネルギーの交換だから。

その中で、良くなろう、頑張ろう という”心意気”がわく。

心の交流はエネルギーの流れの場、生命はエネルギーだから、それに触発される。

立ちたい、歩きたい、食べたい、観たい、これしたい、あれしたい という 意欲 が湧く。

良くなって、~へ行きたい、食べたい、会いたい~こうした欲(願い)が 次の行動につながる。 

行動したら? と想像すれば、フレッシュな希望につながる。

希望を持つと楽しくなる、

また、意欲がわく。 好循環だ。

 

今回の”事件”は意義深い。

スタッフの方にアートマセラピーの体験をしていただいたこと、もその一つだ。

私にとっては、今後、母の身心の安定を維持するための処置をするにあたり、

とても有意義に思えた。

そのスタッフは 代替え治療行為などはほとんど認めたことが無かったと話した。

家族に医療関係者が多いので、迷信ぐらいにしか思っていなかったという。

にもかかわらず、自らが、癒されていくプロセスを体験し、流れる電流のような気の暖かさを

実感で、キャッチして、痛みの軽減や、神経や筋肉の硬直が緩まる体験をした。

車いすに乗って運ばれていく直前まで、 温湿布をまだ充てられているように、

体が暖かいのが不思議だと話していた。

彼女は それを、“inner power” (内に潜むパワー)=インナーパワー と表現した。 

その通りだと思う。

 

因みに付け加えると、翌日、整形外科に行き、母は背骨12番を圧迫骨折していたことが判明した。

母の手術を担当してくださった、病院副委員長K医師は、筆者と顔なじみである。

入院当時も自然治癒力などのことを話した記憶がある。 なので、今回も 

では、3週間ほど、痛いと思いますが、自然治癒力で骨の回復を待ちましょう”と 

有難い結論をいただいた。

 野球無料イラスト画像 に対する画像結果結果報告ですが、おかげ様で3週間後に母の骨折部分は自然治癒で、通常状況にもどることができました。 暖かいご声援ありがとうございました。(2017.6月15日)

 

 

 

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私は偽善者です。

2017年03月16日 | 自然治癒力セラピー協会のセラピー

 

はい、矛盾に満ちている心を、素直に認めます。 2017.3.16 

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はい、私は偽善者です。スピリチュアルだとか、宗教だとか、

一元論だとか、とかくそんな知識と、聖なる"名句"を

知っています。”真理”という言葉を聞くと、敏感に反応、

魂(アートマ)が振りむくのを自覚してます。

が、心の仕組みを知れば知るほど、自分のメンタルが弱いこと

に気づくのです。実際の行動を見れば、”わがまま勝手”

と不評を買いがち、マイペースが基調です。

 

一方、他者に対しての同情はあります。 が、自分の限界以上

にはかかわりたくないという保全の気持ちがどこかにあります。

みんなが幸せになれば良いと心から願っています。”

という名句に首を縦にふりつつ、心の中では、

”幸せの判断も結局は 手前味噌、何が幸せかわからない”

と考えているので、その実、その言葉に感銘がわかないのです。

が、だれかの不幸を結構、冷静に分析したり批判したり

して 原因を探っているメンタルを自覚して、苦笑しています。

 

皆が調和をもって協力し会っている善良なる組織の

メンバーたちにエールを送ります。

が、自分がその中に入ったら、きっと、調和を壊して

しまうのでは?という恐れを同時に感じたりします。

 

自分の過去の失敗の原因を結構、今でも苦々しく振り返って

反省したつもりでいます。 

が、きっと、同じ失敗をまた、いつかどこかで繰り返すこと

を知っています。

 

他者に対して、”偽善者”だとか、”裏表がある”とか、

”ええかっこしい”だけだとか言って、どこかで批判している

反面、自分が 無意識に批判する対象と 同じような行動

をしているので 恥ずかしくなることがあります。

 

無執着になろうと言いながら、つまらない物や事柄に執着

しています。

恐怖をなくすと言いながら、突然理由なく、怖くなることが

あります。

そう、矛盾だらけ。わかっていることと、実行すること、普段

考える心と、真理を知っている心とは別のようです。

だから私は”この中で自分を偽善者と思う人は?”

と聞かれれば挙手するでしょう。”はい、私は偽善者です。”と。

 

でも、それでも、ぶれない、どんな時でも離したくない 

信念 があり(ました~過去形)(ます~現在形)、

(あるでしょう~未来形)。そのぶれないものとは、

自分の信念です。

それは誰もがの持つ、生まれながらの”生命力”への信頼です。

それはわたし(達)のものであって、私(達)だけのもの

ではありません。

それは、学校で受ける頭の知恵や 暗記し積み重ねられた

常識一般科学的知識を超えたものだからです。

その生命を、私は、とことん、知りたいし~感じたいし~

離れたくない~と願います。

 

とはいっても、ここでも、私は 偽善者です。生命を、

いまだに、真に理解していないくせに、自然治癒力を強調して

るからです。

生命を、ほんとうに理解したら?そしたら、私は、きっと、

死を恐れなくなるのでしょう。

そして、すべての人に同じ生命力を感じられるから、

他者との個別感や遊離感が少なくなるでしょう。

まあ、全般的に言えば、やはり、私は偽善者です。

矛盾だらけです。”それでよい”と賢者は言います。

そして私も、”それでよい”と 肯定することにしました。 

矛盾があるから、この世界の進歩が生まれるからですし、

そのために、矛盾をはらんだ二元的世界に生まれてきたの

ですから。矛盾するものがお互い意識して、摩擦を生

みながら、プラスとマイナスという左右に引っ張る力を

利用して、この世は進化していくのだとも聞きました。

ドイツの哲学者のいう、アウフヘーベン というやつです。

 

でも、 矛盾は決して快くない、なぜなら、矛盾が偽善を

生むことがあるからです。

偽善と妥協はつきものです。妥協を含んだ善をなして、

自己満足に終わっている場合が実に多い。 

はい、だから、私は、やっぱり、偽善者です。偽善者でない

達人と聖人は 一握りの人たちの名称です。

そういう人たちが存在していることも事実です。凡人は 

多くは、 厳密には偽善者です。

 

だから、せめてお互い、理解しあいましょう。

せめて、その弱さは互いの共通点と認め、責め合うことは

やめましょう。

一方、偽善者でなければ、周りの、一般的偽善者たちの

社会から、はじかれてしまうのも事実でしょう。

例、”人様にいやな気持をさせてはいけない。” 

”常識と離れてはいけない。”

”心で怒っても顔で笑いながら、相手を不快にさせてはいけない。” 

そうしながら、自分の周りの人間関係が回っているのですから、

ある意味、”偽善は潤滑油”かもしれません。

 

でも、この偽善者である私が、一つだけ真に求めていた

ものがありました。

それは、”神”の存在でした。

天にまします神ではなく、自分に内在する 神 のことです。

神は 自分を導く先生を通して近づくことができると

インドで教わり、スピリチュアルな先生を探しました。

インドで何人かの聖者たちと巡り合い、イニシエーションを

受け、神への扉を開きました。

でも神は誰にでも、直観さえあれば、いつでも、だれでも、

どこでも感じることはできるのです。

しかし、私は、偽善者だから、偽善者でない 魂の師と神 

が必要なのです。

神は過去において、私の前に見えぬ姿を様々な姿に変え 

様々な手段で 出現してくれました。 

私は偽善者かもしれません。

でも、一つ信念を貫いてきていることがあるから、こうして、

皆様とお話ができます。

それは、対症療法の西洋医学の薬の服用だけは私の生命力

を枯渇しないためにどんなに体が虚弱な時でも

断固として拒否してきたことです。

副作用を持つ西洋医学の薬は、体全体の細胞の生命力の

働きを、ある意味、犠牲にするのですから。 

 

私は薬を否定しているのではなく、私の体が受け付けず、

心がそれでよいと認めているのです。

偽善者の私が譲れない、たった一つの道は、自分の生命を

維持する血液や細胞、神経や臓器にとって、生命力を発揮

できる場をつくること。 

彼らが最も心地よく、必要と欲する波動(物質ではなく)

を与えてあげること、をれを、追及することです。

だから、”自然治癒力”に対しては、私は、”裏表のない善人”

であり 達人であると自負します。

spontaneous healing therapy という協会の正式名称は、

”同時(自然)的治癒” という直訳です。

生命が100%発露すると、自然に症状が癒されるという

所以でつけられました

今すぐでも、私のアートマセラピーを所望する病の症状

で苦しんでいる人がいるのなら、自分の命を賭してでも、

その人の生命[アートマ)に焦点をあて始めるでしょう。

これまでも、そうしてきました。

 

ただし、それ例外の”私”は、メンタルの弱い自分であった

ことを認めます。つまり、偽善者である自分を自覚します。

死ぬまで、自分自身の中でメンタルのその弱さと、

生命力への強い信念の間を行ったり来たり、対峙しながら

ある意味、闘っていくのでしょうね・・・・

 

 

おわり・・・・

 

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神との対話3巻 で 私の傍線部分

2017年01月22日 | 自然治癒力セラピー協会のセラピー

 

アートマセラピーに関係する 神の言葉

******************************2017.1/22

 

 先々回 友人の傍線部分のご紹介をしたので、今回は私自身

以前読んだとき傍線を引いてい有る箇所をご紹介したい。

すべて三巻からで 引用文最後のカッコ内の数字はページ数で

ある。

 

1・”精神は身体のすべての細胞に存在する。”(271)

言い換えれば、すべての細胞には精神が宿る ということ

だから、私たちの自然治癒力は.頭で考えたりする可能性を

はるかに超えている。

それぞれの細胞が一番良かれと考えている方法が 最も強烈な

自然治癒力を生みだすということか。

 

2.”脳は知の源泉ではない。データの処理装置に過ぎない。

脳は五感と呼ばれる受容器を通じてデータを取り込む”(528)

五感とは、聴覚・視覚・触覚・味覚・臭覚 で、私たちが日常

当たり前に受け取っているその感覚は.テータであるならば、

人によって、あるいは脳を持つ生物の種によって微妙にその

データ変換が異なってくるだろう。

そのデータプロセッサーの働きが脳であって、脳自身が知恵の

源泉ではない。 

では、知恵はどこから来るのか?

 

3・”私は存在だ。 存在はモノではなく、プロセスだろうう。 

それは思考の存在だ。

私はプロセスの結果ではない。プロセス自体だ。”(531)

知恵は’あなた’という存在。’あなた’はプロセスの結果でなく、

プロセス自体、つまり、脳を働かせているプロセッサーを動か

しているその力(エネルギー)だ。

エネルギーは英語でenergy, 動きはmotion, 感情は だから、 

二つ合わせた言葉、e-motion という英語になる。

本当の感情、心から湧いてくる感情を あなたは、いつ持てたか? 

周りに合わせたり、とりつくろったり、怒りや悲しみは表現

すべきでないと抑え殺したり・・静止しているものはない、

動きを持っている、それが感情の特性でもあるから、感情の

選別コントロールは確かに必要かもしれない。 

その感情がアートマ(本来の自分の資質)を動かすとき、感動 

となる。 

感情と感動は違う。 感動を大切にする心が、アートマへ到達

する心へと続いていく。

 

5・”どんな神の一部になりたいか・・・それによって、人生の

目的と個別化が生まれる”(535)

私たち一人ひとりは結局手のひらから出ている指のような

存在で、親指のできる仕事、人差し指のできる仕事、

それぞれが協力して指の機能が万全となるのと同様、

私たちも組織になって,全体的に生産性を高める働きを

しながら、個別化して生きている。

それは神の資質の中でも、どの資質、例えば、エンジニアや

芸術家、有能な商社マンや職人な一人ひとり、生かす分野

異なり、その選択次第で人生の目的も異なるように見える。 

が、結局は神につながっているということではどの人たちも

同じだ。

指が手のひらにつながっているように・ 

アートマセラピーが効くのは、その認識が前提になっているから。

施術しても、あの人には効果的だが、この人には効かないと

いうのは、同じ条件下であるとしたら、施術する側にその

観方が徹底されていないことが原因のような気がする。

 

御年80歳のヒマラヤに住むヨギ、軽々と身をこなし、

上にも下にも神は自分の周りに満ち満ちてご自身を

包んでいると語ってくださった。

 

 

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