自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

アートマセラピーの効果

2014年05月26日 | 自然治癒力セラピー協会のセラピー

体は固体ではなくてアートマエネルギー体      2014・5・26

**********************

 

私たちは、自分の肉体も固体と感じているけれど、

実態は、細胞、細胞の分子、分子の中の素粒子、

素粒子の中の巨大な空間、そして、

その空間に存在する、

生命力、アートマエネルギーから成り立っている

といえそうです。

~と先回ブログで書きました。

 

私たちが肉体を”固体の塊り”と思っていても、

原子の中を覗けば、

ほとんどが空間で占められて、そこにエネルギー

の波動体が

存在していることがすでに分かっています。

私たちの体だけではありません。

身の回りの眼に飛び込むものすべて、

物質といわれている

ものは原子で構成されているわけですから、

電子や原子核の距離などを考えると、空洞状態

であるのがモノの本質といえそうです。

ですから

そうであるということは、自分も、透明人間のように

どこにでもスルーできて不思議でないような気がします。

つまり、外部世界との境界線は無いのと同然なのです。 

なぜなら 空洞の中のエネルギーがこうした固体のような

錯覚を起こさせる物質の根源的実存だからです。

 

私たちの体の、細胞を細かく見て行けば、原子、電子 

そしてさらにおおいなる空間で占められている。

私たちの体は個体であるように、錯覚 しているけれど、

ほんとうは 透明人間のように、ゆるゆるとした実体

があって実体がないようなエネルギー体であると

想像することも可能かもしれません。

 

さらに、考えれば、私たちの周りの外部世界も 

その実 物質でできている

以上、物質の中に占める空間を考えれば、ほとんどが、

波動エネルギー体でできている といってもよいでしょう。

 

そう感じられるようになったとき、私たちは 

トランスフォーメーションしたという言い方をします。

つまり、意識の変容です。

見た目にには 何も変わっていないけれど、本当はものすごく

核心的なことが 心身に起きているのです。

大袈裟に聞こえるでしょうけれど、もし、変容 すると、

その人の周囲も

環境も、そのままでいて元のそれとはまったく異なったものに

なっていることに気が付くでしょう。

その変容施術が アートマセラピーの 目的の一つです。

フランス人のクライアントがいました。

その時まだ、協会を立ち上げてませんでしたから、

このセラピーの名前はありませんでした。

彼女は言いました。

”これはtransformation-therapyよ!”

つまり、彼女自身それを受けてからすっかり変容した

自覚が持てたというのです。

勿論彼女の人生も変わりました。

話しが飛ぶのでこの辺にして、 本題に戻ります。

変容の第一の意識変化は、まず、

”肉体の中に入っていると思っている自分の定義”を

変えることから始まるでしょう。

新しい“本当の自分の意識”への

トランスフォーメーションが必要です。

      

自分の新しい変容を通して、何が変わるのでしょう?

それは自分が広がった感覚です。

自分という枠がなくなって、透明人間になったと

いうことは、何処にでもスルーできるわけですから、

まるで 他者も他の生き物たちも、自分の

如くに理解できるようになるということかもしれません。

言い変えれば、自分がどこにでもいる~

       

あの木々の揺れている葉の中に、

それを動かしている、微妙な風の動きに、

風に誘われて舞っている蝶の中に、

蝶(ちょう)の止まる雄蕊(おしべ)や雌蕊(めしべ)の

花びらの中に、あらゆるところに自分を発見できるでしょう。 

自然の散策が大好きなあなた。

山登りで大自然を満喫しているあなた。

無意識にあなたはそのとき、透明人間に戻って

いるのでしょう。

現実的な下世話な世界から 心が、一歩離れれば、私たちは 

大自然の空気や大地や、そこで息づく花や虫、

動物や空と一緒に

肉体の中に閉じ込めていた自分を解放して、 境界線をはずして

いるのかもしれません。

何故って、私たちは 本来境界線のない 

命を生かすエネルギー体なのだから。 

どこにでも自由に風のように、流れて飛んで

いくことができるのですから。 

 

 境界線をつくってしまうもの。 

それが自分意識、梵語で、アハムカーラ と

呼んでいるものです。 

観察者であり、観察されるものであるという

二元的な観方をする意識そのものです。 

知性[知恵]がそれに加担するから、不幸な気分になって、

ついつい、相手を責めたり、理屈で非難や批判をして、

自分を責めたりもしてしまう。

空回り、悪循環、何も良いことは生まれません。

個人的範疇で住まなくなると、社会をせめて問題を 

一層、ややこしくさせているのです。 

本当は、自分の本質に返って、相手の本質 と 

一体化すれば問題と見えるものも、いつの間にか

問題でなくなる・・・

それが あなたの本質である愛 の仕業であり、

愛を根底におけば 結局、最終的には、周囲との

調和しかないやさしいまろやかな世界が実現する

はずなのに・・・・・

なかなかそうはいきませんね。

 

無智の自分を打ち破る とか、 

新しい自分を発見する という言葉は だから、

簡単にはいかないし、

不適当かもしれません。 

それができないから私たちはもがいているのですから。

だけど、お互い忘れないようにしましょう。

多様性の中に潜む一つの真実。

どんなに姿を変えても、例えば、母親が若い

美しいマリア様のようなイメージでも、皺(しわ)

に刻まれた老いた女性になっていても

私たちの心には 母という自分を育んでくれた

優しい母性愛が浮かぶでしょう。

 

どんなに姿を変えても変わらない本質がある。

だから、今の私たちがどんなに見えていても、

、ここに、もう、本当 の私の本質が存在

していることは忘れたくないのです。  

今、生きているということ、それは、私たちの

エネルギーが 宇宙規模の生命力のジェネレーター 

に つながっているということ、

つまり、ON 状態であることを想いだして

みたいのです。

 

 

 

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大我と自然治癒、肉体と小我

2014年05月17日 | 自然治癒力セラピー協会のセラピー

 真の癒し一考    2014.5.17

********************************

本来、癒されるということは

自分自身の中にある安寧で平和な心の領域に

帰ることをいうのでしょう。

その領域をアートマと呼ぶのなら、アートマセラピーは、

自分自身のアートマに復帰するための自然に還るセラピー

といえそうです。

 

もし、アートマを今ここに、復元できたら何が

おきるでしょう。

まず、願望 が叶い始めます。

それは 偶然の一致を装って訪れるでしょう。

偶然は何で起きるのでしょう?

それは”意思や願望”が 波動で”生きている”からです。 

波動 が同じ波動を呼ぶのです。  

 

私たちが今住んでいる世界は ”二元の価値観 ”

を持っている世界です。 

当たり前のように、この二つの対比される価値観

を私たちは日ごろ何気なく使って物事を判断して

います。

”良い・悪い” とか、”美しい・醜い” とか

”好き・嫌い”といった、対立した価値観 が私たちの周りに

あふれています。

もちろん、”幸せと不幸”というのもその例にもれません。

二つの価値観には絶対性がないから、今日 美しく

見えていたものでもしばらくすると、醜く見えたり、

その反対もあるわけです。

だから、”今日は、幸せ” と喜んでいても、明日は 

”不幸” が来るかもしれない。

人は”この幸せ”が永遠に続くとは限らないことを知っています。

それだからこそ、いつまでも変わらない幸せを

求めるのでしょう。

 

いつまでも変わらない、ほんとうの幸せ?

それはいったいあるのでしょうか?

あります。

どこに?

本当の自分自身の中に。

 

本当の自分の姿を知るということは

それは 悟りを開く という言葉が使われているようです。

ただし、頭で考え、理屈を述べたり、評論家や学者の

ように、理論で、”悟り”を説明できることと、 

自分自身を知り、

その中に至福を感じて充たされる境地に入ることとは

雲泥の違いがあるでしょう。

後者の人こそ、悟りを開いた人といえるのでしょう。

 

そのために、何か特別な修行をしなければならないと

一般には考えられています。

修行をする時間がないから、神社仏閣などのパワースポット

と呼ばれているところに行く人もいます。

滝に打たれたり、火のついた薪の上を歩く本格的な修行を

する人達もいます。

断食して瞑想三昧の境地に浸ることもその手段の一つと

言われています。

ところか、そういうことと”悟り”とは、あまり、関係の

ないことだと思うのです。

なぜなら、自分自身の本質はもう、自分の中にありますし、

その”本質”=アートマ も、早く、気がついてくれるの

を待っているだけなのですから。

 

深い意識の中で眠っている自分自身を呼び出せばよいだけ。

愛と呼べるその自分の本質の糸口をひっぱって、引き出すだけ。

手始めに何をどうしたらよいのでしょうか? 

 

それを考えるのが自然治癒力セラピー協会の目的であり、

人それぞれ、人生が異なるのですから、いろいろな手段が

あって当然でしょう。

 

自然治癒力セラピー協会と名前を付けたのは、

自然治癒力を開発することで、このほんとうの

自分に気が付くことができると考えているからです。

自然治癒力 というのは、アートマ(真の自己・実相)の波動が

心身を揺るがしたとき、”自然に”あるいは、

”自発的(スポンテニアス)に” 発動します。

 

持病が軽くなった、

難病が治った、

肩こりがいつの間にか消えていた、

気分が爽快で人にやさしくなってきた、

イライラ感がいつの間にかなくなった、

家族が円満になった

などなど、こうした癒しの効果が、出てくるとしたらそれは、

自然治癒力の発動とともに、その治癒力の根源のエネルギー

がアートマから流れて体と心に循環しているのに

相違ないのです。

 

 

幸せを求める私たちは、反対に不幸や苦労を味わいたくない。

ところが、神様は平等ですから、誰にでもそれ相応の

人生の難関や苦難があるというものです。

ですが、或る人にとっては、波乗りのように、得意なスポーツか

ゲームのように、楽しみながら乗り越えてしまう。

一方、その波に押しつぶされそうになって、人生の海におぼれて

しまいそうに、もがいている人もいるのです。

この違いは、どこから来るのでしょう?

 

それは、自分への評価です。

自分を弱い人間だ、意気地のない何をしても失敗ばかり、

誰も自分を愛していない、人は自分の失敗すら気にも

留めないだろうし、

自分の失敗を嘲笑っている人もいるに違いないなどと、

考えている人には、なかなかサーフインゲームのような 

楽しく”挑戦”するゆとりはないでしょう。

反対に、自分の本質が、”神性~アートマ”であり、

どんなことでも、

小さな自分がするのではなく必ず、自分を生かしてくれる

大生命の力が自分に応援していてくれる~と

知っている人は、なかなか、へこたれないものです。

 

だから 覚者はこうした困難に遭遇したときの人

それぞれの反応の違いの根本は、

”一過性の 実在しないもの”への ”恐れ”に対する

強弱の違いだと言うのです。

自分自身を信じていれば、恐れは少なく、信じられない分だけ

恐れが強まるというのです。

 

 

ちょっとした出来事に対しても、

恐れと不安が押し寄せて しまうと、人はパニック

になりやすい。

 

”アートマ” という自分の”実相”に気づけば、

必ず、どんなことでも乗り越えられるという

自信を失うことはない。

アートマは神性、それは、小さな体の中の自分ではなく、

宇宙を貫く大生命の力が自分に流れている、と

信じるからです。

だから、 

”私は誰ですか? 私の体は 誰のものですか?” と 

折に触れて、内面の自分に問いかけることが、大切だと

思うのです。

 

立ち向かうべき困難も 頂上を制覇するために、

乗り越えなければならない峠(とうげ)くらいの

気持ちで客観的に見つめることができるでしょう。

 

ハクション!とくしゃみをすると人は

”あら、風邪ひいたかな” と 反射的に感じる。

感じるというより、一種の恐れが伴う。

そんなとき、日頃から、

私は、風邪をひいて、寝込んでしまうような存在ではない。

ガンに侵されて ひしがれるような生命ではない。~と

体に言い聞かせていれば、

”自分の生命力が今、くしゃみをして、肺や気管支のつまりを

吹き飛ばしてくれたのだ”~と感じることも自然と

できるでしょう。

 

筆者も”癌”だと、言われました。

そして、病室の外で、(筆者の背後で)医師が夫に

余命の宣告したことがあるようです。

(私は直接医者から聞いていません)

 

当時、”腫瘍”があるということで、摘出したばかり

でした。

私は自分自身にこう言い聞かせ続けました。

”あなたは 癌に侵されているその肉体そのものですか?”

”熱でだるさに耐えられないと感じているのは体ですか?”

肉体が私?

そんなわけがない。

二つの価値観で揺れ動く心 がわたし?

それも違う。

私なんか、あるようでないのです。

だって、髪の毛一本自分で作ったのではないのだから。

としたらこれは借り物の肉体。

つまり、私と意識する”私”はどこか別な存在なのだ、

腫瘍でもなんでも、悪いものをもう切り取ったのだから、

私の体は円満完全の神性の心の反映を映し出す

波動体として今、再起するほかない・・・・

 

自分の体、と言う言葉を、普段 私たちは使います。

体を、自分のものだと思う 理由 も考えてみると

もっとわかりやすいかもしれません。

 

肉体を構成している材料は、もともと、宇宙に存在する

物質なのに、それらは本来、ほんとうに、 自分の物 だと、

いえるのか?ということです。

私たちは この体を 自分の意思で創り上げたのでしょうか?

母親の胎内で自分が設計して 自分がその材料を調達して、

創作したものでない以上、やはり、この体も借り物だという

ことなのでしょう。

だとすれば、体が自分であるというのはどこか違うような

気がします。

人生ハイウェイを走るレンタカーがこの身体なら、

その操縦者こそが自分であるからです。

ですから、

その”自分”が何者かというのを、問い続ける~これが悟りの

一歩だと覚者は教えています。

 

 

 

 

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肉体感覚の矛盾性

2014年05月14日 | 自然治癒力セラピー協会のセラピー

 自分の体?を知っていますか   2014・5・14

*******************

 

先日 NHKで右腕を失った大正12年生まれの男性が

桜の油絵を生涯の楽しみとして描き続けていることを

知りました。

その方は右腕をすでに失っているのに、時々、右腕が

痛いという激痛が走り、お嫁さんが

ないのに不思議なのですがほんとうに痛いそうです”と

漏らしていました。

このように、自分と自分の体といっても、失った組織

の一部が痛みを覚えると言うのは、どういうことなのでしょう?

自分の意識と肉体の関係はどうでしょう? 

これは “これは自分の体です。” と私たちは言います。

無くなった部分が痛いというのならわかるけれど、

無い部分が痛むと感じるのは”心と感覚の問題”でも

あるのでしょう。

このように自分と感じる意識も、実はあいまいなものだ

と言います。

たとえば、

”自分はこの肉体の中にある“

心臓も、太陽神経チャクラも、脳も、肉体の中にあるから 

肉体が自分だ” 

 と 心 で ”自分の定義” をそう、思い込ませている

のでしょう。

無いはずの腕も、頭ではわかっていても、心はまだ”ある”

としているから、痛みを感じるわけでもあります。

 

同様にこの世界で見えること、聞こえること、触れたりして

感じて心に印象を与えるその”おおもと”には、その物質を

心で認知して、感覚が脳に伝えられます。

ところが、ほんとうに私たちは 正しい現象を

観たり・聞いたり、感じたり”

しているかといえば だいぶ 疑わしいといわざる得ません。

 

たとえば、私たちは 震度3 程度 の地震を体で感じる

ことはできるけれど、

地球が 時速何千マイルの勢いで移動 していることを

感じられません。 

 

私たちの目の前にある、見えている物は すべて原子

でできていること。

頭では知っていますが、感じることはできません。 

さらに、原子は素粒子でできていると言われても、

全く無関係の世界の出来事のようにしか感じません。

現代物理学ではすでに素粒子は巨大な空のスペースを

ぐるぐる回っていることが当たり前のことになって

いますが、私たちの感覚では、

そのような実態も、感覚もまったく、つかめません

 

そんな、ぎこちない、能力 しか 私たちの五感は

持ち合わせていないのに、感覚で得た情報が、

すべて真実だと、どうして、信じることができるので

ょう?

 

哲学者が言う ”社会的規約の催眠状態” とは

このことをいうようです。 

私たちは、通常の日常生活では感覚器官で 

身の回りのエネルギー体を 

物質的構造、色、音などに変換して 理解しています。

 

変換して理解しているということは、

現象に見える実体は デフォルメされた

り、錯覚的にあるようにそれがそのままそう

あるように見えているだけで

真の実体の姿とは言えるかどうか疑問です。

 

私たちはまだまだ認知症ではないし、妄想世界

に住んでいるなんて思いたくないのですが、

こうして考えてみると、案外、自分たちの生活に都合の

良いように、共通妄想の現実を創り上げている

のかもしれません。 

 

物理学で証明されていることは、最近の

ニュースでも話題になっている

ように、データを貼り付けたり、

改善されたりしてでっち上げられたものでは

なく、私たちの五感の感覚を遥かに

超えた実験とその確証データの

領域の中で繰り広げられている 

”モノの実体”を示しているのです。

物質を構成している素粒子の間の 

空間の廣さ” はすでに

証明されているところですが、

ほとんど空間だらけの原子でできた

物質は “固体で 凍結した状態”だと 

感じられることも不思議でなりません。

感じる事が即信じられることの、

日常生活では誰も、このことを

疑っている人はいない。

それもまた、不思議な事であります。

このことを筆者は、あえて、”共通性妄想の世界”、

”幻想に近い錯覚世界”であると 呼びたいと

思います。

 

同様に、こうして、私たちは、 真の自分

(アートマ)の智慧で 

物事を見るのを忘れていますので、現象で

繰り広げられている事象こそ、現実真実の

世界だと思い込んでいます。

そういう意味では、アートマ世界から見ると、私たちは

催眠状態の中で生きているのかもしれません。

宗教詩人、カピールあたりなら、” 

無智という暗黒の眠りから覚めない夢の中を彷徨う人達” 

などと言うかもしれません。

 

般若心経でいうところの ”知恵” と ”智慧”の違い、

インド古代ベーダ哲学でいうところの、

マーヤの知恵” と ”アートマの智慧”の違いはまさに、

この感覚世界の夢のような世界と 生命力の充ちている

愛にあふれた本質的世界の隔たりに一致しています。

この智慧 と 知恵 の言葉づかいは、

その中間にたって、右と左の対照的な世界の物差しを

言い当てた言葉だと思います。

 

知恵は、五感の感覚を信頼するがために、

肉体の眼で見えないもの・聞こえないもの・

臭いのないもの・味わえないもの・触れる事が

できないものは、存在として認めないことを

基盤に成り立ちます。

だから 普通いわれる”知恵在る人”とは、

その範囲の常識を創り上げて、

その常識を超えない範囲の知識の情報量を

多く持っている人、(記憶力や解析力を含めて)

呼ばれる人でありましょう。

別の言い方をすれば、その非存在性を 合理化して、

存在するように組み立てる 常識の中の知恵を

”現世の知恵” と呼びます。 

 他方、バンニャー(般若)の 

真理を観る智慧” や、アートマの智慧とは

基準が全く、異なるものです。

 

存在するものを構成している波長や波動は 

五感の感覚でとらえられません。 

たとえば、私たちが関知できる、色ですら、

光の波長の断片に過ぎません。

同様、肉体も固体と感じているけれど、

実態は、細胞、細胞の分子、

分子の中の素粒子、素粒子の中の巨大な空間、

そして、

その空間に存在する、生命力、アートマエネルギー

から成り立っているわけです。

そこからくる智慧は、人を神性に復帰させるための、

直観的真理であるわけです。

同じ発音の ちえ でも こうした大きな

違いがあること、

アートマセラピーは、後者の智慧に体と

心の波長を合わせることが主眼です。

 

 

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空~多即一~一即多

2014年05月11日 | 自然治癒力セラピー協会のセラピー

 アートマセラピーは”自分が施術者”               2014・5・11

*******************************************

 

 

宇宙の一なる原点から 多種多様な方法で宇宙に浸透させ

多種多様の生き物や生き様、が存在する。

多即一、一即多 である。

 

Warren博士も この仕様を以下の言葉で表現している。

It must be understood that all things in

the universe maintain this principle of

wholeness  ecause Elohim Himself in One or Unity."

須田訳)

宇宙の全体性を保持している意思により、物事が存在していることを

私たちは理解しなければならない。

なぜなら、Elohim(スダ注:キリスト教で説くところの唯一の神の名前)

ご自身がすでにすべてのすべてを統括している力そのものだからだ。

 

筆者は一つの宗派の信徒として意見を掲げるものではない。

どんな宗教も 哲学も、あるいは、先人の教えも

”多即一”の理(ことわり)のごとくに、一つの真理を

含んでいると信じるから。

 

だからあえて、Warren博士のここでいう Elohimを言葉を

変えて定義したい。

つまり、”宇宙の中にある生かす源のエネルギー”と位置づけしたい。

 

人によっては、特定の神の名前を当てはめた方がしっくり

いくだろうし、その逆の場合もあるだろう。

そしてなお、言葉を先にすすめるのならば、

この大きな根本的源を無限に縮小させていったとしたら

最後に残る一点をあえて空点と定義したい。

すでに時間も空間も超越したエネルギーの源点だ。

 

それをカプラー博士は”実在の点”と量子力学上

名付けたことを以前ご紹介した。

                                    

名著「タオ自然学」の言葉の中に見られる、以下の内容。

”現代の原子物理学は、東洋の神秘家が「実在」について

抱いた直観的見方と、非常によく似た 「実在」の見方 

へと私たちを導いている。

量子物理学から生まれてきた「実在」の像は、

相互に関連し合った宇宙的な蜘蛛の網のようなものであって、

そこでは、観察者である人間は常に現象の参与者である。

素粒子レベルの世界像は、非常に東洋的で、

また神秘的なものになっている。時間と空間は連続体となり、

物質とエネルギーは相互に変化し、

観察者と観察されるものは、互いに作用し合って しまうのだ ”

これを、Warren博士のspontaneous healingの原点と

関わってみていくと、どうなるだろう?

まず、”東洋の神秘家”の実在に対する考えとは、

"物質は空(くう)であり、現象に現れているものは、

実在の影にすぎないという 

般若心経に書かれている”空”という概念にも似ている。

空のみ実在、そのほかのものは、皆無 である。

ある意味、一元論思想をさしていると考える。

それは 多即一 であり、一即多 の世界でもある。 

こうした、東洋的な、一見、神秘学者の見解に見える観方こそ、

現代の物理学の最新の観方になりつつあると カプラー博士はいう

 相互に関連し合った宇宙的な蜘蛛の網 といい、

観察者である人間は常に現象の参与者である。

とも表現している意味合いは、

量子力学の ”実在 と呼べる 実質 ”は、

宇宙規模で、相互に関連して、クモの糸のように、

密接な関連性 をもっているということ。 

そして、その実在にかかわる現象が、人間の想念と

深い関連性をもっている というように筆者は受け取る。

 

今までのの物理学は、人間は、外からの、”観察者” に過ぎなかった。

物理学における実験を観察し、そのデータから真実をつかみ出すという、

真実の発見への 第三者的な関与者 だった。  

人間が 感覚で見えている現象に ”もっともかかわっている”

ということはどういうことだろうか? 

極端に聞こえるが、或ると思えば、或る、無いと思えば無い

ということだろう

ゆえに、般若心経では ”空の中には実質は無い 

と喝破しているわけである。

空(くう)、そのもの、つまり、

実在の実質を作り出すエネルギーこそ物理学でいうところの、

実在であるからだ。

博士は続ける。

下線部 物質とエネルギーは相互に変化 し、

 観察者と観察されるものは、互いに作用し合ってしまうのだ

と。

エネルギーとはこの場合 波動であらわされるだろう

エネルギーの種類が 異なる波動をつくり、波動で造られているとする、

物質とともに変化する

波動によって、病になり、波動によって、病は癒される。 

 

Warren博士の先に述べた文章の中で、

精神や心理的波動によって、人の健康が左右されるという下りが

これに相当する。

Warren博士の提唱するspontaneous healing とは、まさに

人が自分の中にある 一なる存在 に目覚めることが、ヒーリングに

繋がるということであり、それはアートマセラピーの提唱する

アートマに帰結することが完全実相の顕現につながるという部分に

等しく一致する。

spontaneous healing とは、言い換えれば、

宇宙にある宇宙全体を統括しているその意志力(生命力)

に帰結することだ。

そしてそれが私たちの提唱するところの

自然治癒力の自覚に目覚めることであり、

各自がその自覚に目覚めてこそ、真の意味でhigher self

(より高い大我)に戻って、心身健康が達成される。

その過程は他者や自分以外の力にたよるのではなく、

自らの中の力に頼ることでしか達成できない。

その過程を、アートマに目覚めていく(自己)セラピーという

意味合いで アートマセラピーと呼んでいる。

 

 

 

注)

 

フリッチョフ・カプラ(Fritjof Capra, 1939年2月1日 -)は、

オーストリア出身のアメリカの 物理学者である。

現代物理学と東洋思想との相同性、相補 ... ウィーン生まれ。

1966年、 ウィーン大学で理論物理学の博士号を取得

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須田さんのセラピーの主眼は?

2014年05月09日 | 自然治癒力セラピー協会のセラピー

宇宙の軸に自分を合わせることって?                     2014・5・9

**********************************************

 

 

ブログでさまざまな観点で皆様に生命力や治癒力について

話題を投じてきているが、”アートマセラピーと他のセラピー

と比べて何か大きな特徴は何か?”とたまに、尋ねられることがある。

今日はそのお話しをさせていただきたい。

 

”多即一、一即多”という言葉を聞きなれない読者も

いると思う。

表現や言い回しが多々あっても、言いたいことは一つ、

言いたいことが一つでも 状況に合わせて表現方法は

多々あると同様、多様性の中には共通したものがみつけられる。

例えば、星は無数でも宇宙は一つ、人間は場面場面で

多様な役割とその顔を持つがその人の本質は一つ、

波は無数に海面に湧きたつが海自体は一つである~

というように。

 

私たちの体でいえば、ここが痛い、悪い と症状がいろいろ

顕れるのだが 症状を抑えることが、治ったことと思う人も

多いようだ。

本当の原因”があるとすれば、それをきちんと対処しない

限り、症状を抑えても、異なる症状となって

再び、体に出てくるだろう。

原因は一つでも顕れ方は多種多様のようだ。

風邪ひとつとっても、それぞれ、体の歪みなどによって、

咳の出る人や発熱する人しない人など異なる。

 

多即一 とは、このように、

多様性の顕れ方をする表面的症状の奥にも、一つの

共通原因があったり

あるいは、

世の中多くの宗教があっても結局 真理は一つであるように、

真実の(実存)存在 の側面が いろいろな形で表れていることを

いう。

 

私たちの”生命力”とは何だろう?

 

日本人祖先は 万物に神が宿るとし、自然に畏敬を感じ、

多神教ともいえる神道を保持してきた。

石にも木にも神は宿る~とする。

奈良の三輪大明神に参拝した。

その御本体は 祠(ほこら)の中ではなく 裏に続く道なりに

そって、登っていく聖なる山であった。

そして その頂上には聖域としてしめ縄で区別された場所があり

大小の岩が積み重なられていた。

こうして、森羅万象、大自然の中に私たちは神を見出してきた。

しかし、本来の神とは それら多くの事物にバラバラな様相で

存在しているのもほんとうなら、そこに流れる大生命

言い換えれば、宇宙の生かす力のうねりでもあるように思える。

 

話しが飛躍するが、近代物理学で面白い実験結果が生まれている。

たとえば、

もともと結合していた原子細胞を分離させて離れた空間においても

即座にお互いの反応を感じ取れるという 最近の量子学の

研究は何を意味しているのか?

それは ”もともと”ひとつの”一体化”している”全体”を

どんなに 切り離しても、それぞれがお互い、、

多大な影響を与え合って存在しているということだろう。

 

多様性に富んでいるこの世界の生物や事象も

実は、バラバラに作動している5本指が

根本では、掌(てのひら)にくっついているように、

その生命の大元では繋がっているということかもしれない。

 

病気になれば、人は病院へ行く。

薬などの物質を使って治療を施す。

これを 癒しの ”ハードな側面”とするのなら、

生命力などの、目に見えないエネルギーの存在は、

”ソフトな側面と呼ぶことができるかもしれない。

 

つまり、心と体の関係を考えていくことは

ソフトな側面” へのアプローチ。

こうしたソフト的側面を無視せず、生体として患者の尊厳を

意識しながら、病気の身体を扱う医師たちも多いと思うが、

先回ご紹介した、、Warren博士は 次のような医師の意見

があることを紹介している。

”We need to recognize that patience, grace, prayer,

meditation, hope, forgiveness and fellowship are as

important in many of our health initiatives as medication,

hospitalization, incanceration, or surgery."

須田訳)

忍耐、美質、祈り、瞑想、希望、赦し、友情は

医術、入院治療、癌予防 外科手術などの健康志向型行為

と同様大切なものであることを認識する必要があります。

[須田注:原文では、medetation ~medication,

hope~hospitalizationなどのように、二つのグループ前者と

後者のそれぞれの英単語のごろ合わせで正反対な

要素を述べている。]

 

さらに、Warren博士は、

Let’s look at the wholeness in the 

universe and see how it is related to the definition of the 

word 'healing'" と結ぶ。

 

宇宙の全体性を把握して、それが ヒーリングとどう結びついているか

考えてみよう というのだ。

 

逆に言えば、宇宙の全体像を把握することで、メタフィジカルなヒーリングが

達成できると 博士は考える。

宇宙という無限大に秘められた中に、個人も宇宙も ”多”様性の中に

ある全体の一部ととらえるのなら、人間個人を生かしている”生命力

と共通意思” が見つけられるというのだ。

 

冒頭に述べた処の、宇宙の中の多様性の中に潜む生かす力の

原理 をさすのだろう。

それを見つける事がヒーリングの第一義の条件だと博士はいう。

 

宇宙を構成している惑星同志が

それぞれぶつからないで調和を図っているように、

人間の体はなんと精巧に調和を保ちながら

生体機能が無意識に休むことなく営まれているのだろう。

私たちの体の細胞一つ一つが 均整とれた調和の中で

エネルギーを交換しながら、刺激し合い、新陳代謝を

行い、免疫性、血液の浄性が 完全に保たれている。

 

それこそ、宇宙の一なる方針、あるいは共通軸でないとしたら

それをほかに 何と、表現できるだろう?

 

私たちの体には、”宇宙の意思と生かす原理”の表現である

生命力が満ちているとしか言いようがないだろう。

spontaneous healing とは、そのことを

心から納得したときに、自然に、もたらされる癒しだ。

なぜなら、宇宙の原点 と繋がるから。

宇宙を生かしている力と同様の力がこの体に

みなぎっていることがわかるのだから。

 

アートマセラピーの特性は ここにあるようだ。

万物すべてを生かそうとするこの本来の生命力に

連なっている波動を心身に流すことによって

アートマの波動を その人の心奥に呼び覚ますこと。

それによって、自動的に、癒しが可能になると

いうことでもある。

施術者も施術される人もこうした共通認識に

たってこそ、後戻りしない心身になることができるのだ。

アートマセラピーはだから、本来、他者やハード面には

頼らない。

自分自身が行うセラピーでもあるという所以はここにある。

多くのクライアントの方達が 筆者のもとを離れても、健康体を保つために

アートマセラピー(Atma Therapy)を個人的に続行されているようだ。

 

その特徴は、一旦、あるレベルに達すると、体も心も

後戻りしないということにある。

つまり、”また、元の状態に戻ってしまいました”ということは

ない。

なぜなら、自分の中にあるバッテリー(大生命)と繋がったのだから・・・・

そこに、一度繋がれば、”自分自身でできる施術”ということになる。

 

 

 

 

 

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