自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

生まれ変わり一考(2)

2023年01月31日 | 健全生活のために”死”の常識を反転

輪廻転生を終えるための、人生点数は?   2023年1月31日

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1月27日からの続きです。

***********************

これまで)

亡くなって死後の世界に来たSが天使の前で、生前の行いの

良し悪しの点数をつけられていた。

それによって、次の生まれ変わり予定条件が変わる

ようだ。

今日は、彼の、生前良かった行いを、認めて加点される

ところから、始まる。

R:“そうはまだ言っていない。

定期的に病院で献血したので、加点20点。

高速道路で炎上しかかった車から運転手を助けたので

得点50点。

古着を棄てる代わりに、エマオの会(恵まれない人

たちへの支援団体)に寄付として 送ったので得点10点。

S:“私が死んだ時のこともお忘れ

なく・・・”以上は本引用)

 

これは作り話のように見えるが、タナノートによると、

幽体離脱してきた著者が、あちらで、こうした話

見聞きしてきた記録ということだ。

閻魔さまはいないが、天使たちが生前の行いを記録につけて

点数がつけられるところは興味深い。

その魂は 交通事故に巻き込まれて死んだ。

以下、本文を引き続き引用;

 

G “そう、あなたは、追い越そう飛び出してきた

トラックが目の前に現れたとき、とっさに前にいた自転車

を避けようとして、横のプラタナスの木に激突

したのだったね。

この2台のトラックの運転手たちは あなたのすぐ後ろで

自分たちの裁きを待っている・・

今回ばかりはあなたも良い判断したのを認めよう。

10点の加点。

自転車だけでなく、プラタナス避けていたら、もっと得点

を得たかもしれない。”

S “なんだって?!”

M “その通り。

ただひたすら葉を茂らせて、道に日陰を作ることを

望んでいた若いプラタナスだった。

この木をあなたは真っ二つに折ってしまったのですからね。

この次は自転車もプラタナス避けて 側溝に突っ込む

ことですね。

おそらくそうすれば、車に火がついて、焼死することに

なっただろう。

火で死ぬことはここでは非常得点が高いのですよ。

S “?・・むごたらしい死だからという意味で?”

R “いや、苦しみが大きければ大きいほど、死は殉教

に近くなります。

焼死の場合、100点の得点になる。”

S “‘この次に’と今おっしゃいましたが、それはどういう

ことで?”

G “輪廻転生のサイクルを終わらせるために、前の生で

生きてきた得点は600点必要です。

さて、あなたの今までの今回のでの得点はマイナス230点。

それほどひどい点数ではないが・・”

M “特に人間としてはそれでも193回目の転生だということを

考えれば・・

あなたを別の体に送り返すしかありませんね、 

次回の試験ではマイナス230点なんて、ひどい点

をとらないよう、頑張ってください。

S “別の体!?”

M “別の生のこと、これからあなたが選ぶ人生のこと。”

S “自分の人生を私が選ぶのですか?”

G “勿論。人は常に、自分の選んだものが自分に還ってきて

いる。”

M “私たちは、あなたのようなに奉仕するためにここに

いるのです。

あなたの成長を助けるために存在している。

あなたの転生はあなたにとって良いように改心できるように、

用意されている。”

R “そう、私たちはあなたに、今回の生で犯した過ちを改める

機会を与えるのだ。

新しい生の最初に持っていく切り札というハンディーキャップ

を、まず、選びなさい。

マイナス230点ではどんな生が選べるのか、調べてみよう。・・・

ここにリストがある。 

未来の両親になる候補のリストだ。”

(以上引用)

死んだ魂は こうした反省を呼び起されて、点数がつけられ

その点数次第で次のステップが 決まってくるという

仕組みらしい。

その天使ラファエロが提示した、リストにかかれているのを

見ると、次のような選択肢が用意されていた。

続きは2月4日に。

 

 引用箇所(*1)~“タナノート” 

ベルナール ヴェルベール、

日本放送出版協会、1996

 

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生まれ変わり一考(1)

2023年01月27日 | 健全生活のために”死”の常識を反転

転生する前に、次の人生をどうやって設定するか?    2023年1月28日

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夫が他界して早4か月。彼の魂は生まれ変わる

のだろうか?

それとも、モクシェといわれる、輪廻解脱に至り、この世

での為すことは終わり、次のステージに、向かって

いるのだろうか?

輪廻転生は仏教だけの話かと思ったら、クリスチャンの

スピリチュアルな人たちはそれを信じているし、

シャーロックホームズの産みの親、コナン・ドイル氏

は晩年、その研究に没頭し霊体を呼ぶ出す会合に出席

している。

神道の”ホツマツタヱ”の中でも、ヤマタノオロチの魂は、

イワナガ姫に生まれ変わり、スサノオノミコトヤマト

タケの命に生まれ変わったと記述がある。

 

最近は、死後の世界を否定せず、普通に存在すると感じられる人

たちが多くなっているようだ。

それは、現実に 勇気をもって臨死体験者がそのことを本に

しているからだろう。

そうした体験記を読むと、誰もが生まれる際には、自分から、

’今生の親を、選び、舞台設定を。あらかじめ、決めて生まれてきた

ということが、わかる。

それが、理解できたら、現在の境遇が悪くても、こんなになった

のは環境のせいだとは、責めることはできないし、この生での

意義を全うすることが、次の生につながるということも

わかるだろう。


むしろ、永遠に変わらぬ”私”の”魂”が、”何か”の目標に到達する

ために選んできた人生なのだから、直面している困難や、想定外

で理不尽に見える不幸にも、”必ず乗りこえる”という自信と

自覚が、湧くだろう

**********************

今日はフランスの科学ジャーナリスト、ベルナール ヴェルベール

の本からそうしたことに関する、興味ある話をご紹介したい。

彼自身、幽体離脱をして、他界に赴き、見聞きしてきたことを、

本にまとめている

 

 以下著書から(*1)・・・ 

登場人物: 大天使ガブリエル、ミカエル、ラファエル、 

死んで今度生まれ変わりを予定している魂をSガブリエルを

ラファエル、ミカエルをM略する。

 

(死んで生まれ変わり想定の魂)

“ここはどこです?”

~ミカエル

“魂のオリエンテーションセンター。

私たちはこれから、あなたの送った

生を量(はかり)にかける。“

~ラファエル

“裁判のことだ。

あなたの行いを裁き、地球での

輪廻転生のサイクルを終わりに

できるかどうか、あなたの人生を

審査して判断を下す”

“私は善良な人間でした”・・“とがめられることは何もない

はずです。 

結婚して 三人の子供をもうけ死ぬ前に家族に莫大な遺産を

残してきた。 

:“奥さんの話がでたが、私の手元にはあなたが彼女をよく泣

かした事実がある。

あなたは不貞を働いて・・・子供の話もでたが、あなたは

本当に彼らの面倒を見たのかね?

彼らが生まれるときでさえ、休暇をとり、出かけようとしていた。

出張を口実に彼らの夜泣きの世話から逃げていた。

奥さんがあなたにそばにいて欲しいと思うときは

いつもあなたは彼女一人にしておいた。

両親の話をしよう。

あなたは、年老いた両親を設備の悪い老人ホームに預け、

せいぜい、一年に一度しか会いにいくことがなかった。“

S:“私の親は我がままなのです。

私は仕事で本当に忙しかった。”

:’あなたの両親は わがままなあなたを育ててくれた。

あなたは、子供時代、よくお漏らしをし、泣き、わめき、

だらしなくよだれを始終たらし、きちんと立っていられない

子供だった。

それでも、二人はあなたの気まぐれを我慢する忍耐力は

あった。”

:“なんでも、仕事のせいにしていますね。

あなたの秘書の話をしましょうか?”

S:“そのことも知っているのですか?”

:“ここでは私たちはすべてを承知している。

すべてを理解しすべてを計上しなければならない。

両親の話に戻せば、二人は本当にあなたに会いたがっていた。

施設に入って、あなたに会えなくなったことを嘆いていた。

老人ホームでは 面会客は多ければ多いほど、そのお年寄り

に対して職員の面倒見が良くなる。 

顧みられないお年寄りは、結局、誰からも愛されない人間と

思われるものだ。 だから粗末に扱われる。“

S:“そうはいっても、私はかなり、両親に贈り物を送り

ましたよ”

:“いつもあなたは物質的に考える。あなたの両親は贈り物

など欲しがっていなかった。ただ、あなたにそばにいて欲し

かったのだ。

奥さんや子供たちがそうであったように。”

S:“それはちょっと・・・?

二人ともあのホームにて、そんなに不幸だったとは思えない。 

会いにいくたび、はっきり言ってましたよ、’万事順調’だって。”

:“二人とも、あなたを愛していたから、あなたに罪意識を

持たせたく なかったから、そう言っていたのだよ。

今までの話を聞いてマイナス260点だ。”

S:“待ってください。わたしだって、下界で善い

事をしてきたんです。”

:“例えば?”

S:“工場をたてて、失業者を雇い、彼らの家族を養い

人々の生活を、よりよくする製品を造って社会に貢献

しました。”

:“あなたの工場は あの地域一帯を汚染した。”

:“しかも、あの労働条件で。

そのために労使間に絶え間ない紛争の種を創りだした。

あなたは、双方を対立させて、すべてを壊してしまいましたね。”

S:“経営の合理化のために労使を区別することは、現代の

経営法則ですよ。”

G:“工場経営に関して減点60点。

まだある。

S:“今度は何ですか?”

:“一生に侵した、がらくたのような罪。

周囲の者を傷つけた嘘、8254件。

やや卑劣な行為、567件。

きわめて卑劣な行為、789件。

タイヤで踏みつぶした小動物、

45件。

さらにあなたは選挙でいい加減に投票した、家の財産を使って

ギャンブルに手を出した、

音のうるさい車に乗った・・・”

S:“私はそんなに下劣きわまりない人間でしたか・・

 

このようにして死後の世界に行ったSの魂は、彼の人生をすべて

知り尽くしている、天使たちにその行いの点数をつけられる形で

’裁判’は続く。

何のために?

彼の成長のために、次に生まれるべき環境の選択が、その点数に

よって天使からオファーされるために::

 

 

続きは次回に・・・

 

 引用箇所(*1)~“タナノート” 

ベルナール ヴェルベール、

日本放送出版協会、1996

 

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臨死体験の心理学的考察

2019年05月07日 | 健全生活のために”死”の常識を反転

神経症患者が体験する、臨死体験とよく似た要素   2019・5月7日

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前書き)

これまでアニータの臨死体験から、同じく死の瀬戸際まで行って自分の医師としての使命

“生命医療”を自覚し、それに邁進した内田久子医師のお話をさせていただいてきた。

ここで、‘それでも臨死体験は胡散臭い’と感じていらっしゃる方がいることは否めないよう

に思う。

 

そこで、今回は、、先回に引き続き、そうした方たちの思いを代弁する科学的な説を

取り上げながら、臨死体験のお話の締めくくりにしたいと思う。

臨死体験を素直に、耳を傾けるとしたら、これは超自然的事象として受け入れている

ということになるだろう。

 

一方、科学的解釈をとことん追求するとすればいくつかのアプローチがあるだろう。

例えば、①  薬学的解釈、②生理学的解釈、③神経学的解釈、④心理学的解釈などだ。

前回は①と②に触れたので、今回は③と④について。

 

③  神経学的解釈

臨死体験が、神経障害によって引き起こされたとする説だ。

神経系統は脳、脊髄、神経を総合的に指しているが、実際にムーア博士(*1)は

神経障害を持った患者が臨死体験者に似た体験をした話を聞いている。

 

それは、臨死体験者特有の“フラッシュバック”である。

これはほんの短い時間に、自分の人生の体験、良いことも悪いことも、

忘れていることもすべて、幼児から死ぬまでの出来事をしてスライド形式で

次々と見せられる体験だ。

 

フラッシュバックとは、臨死体験者が共通して語ることで、光のような存在に、

自分が生きてきたすべての言動を映画のように一瞬のうちに、見せられる。

その際、相手に与えた悲しみや喜びの感情が自分が追体験するがごとく、

の相手の感情に対し、自分のとった行動を苦々しく反省したり、恥ずかしく

なったりする体験をいう。

 

人にやさしくしたこと、裏切ったこと、悲しませたこと、喜ばれたこと、

それらすべてが明瞭に思い出されるように、すべて、そう、すべてのシーンが

一瞬のうちにスクリーンに映し出されるというものだ。

 

この神経障害を患った患者はムーア博士に次のようにその体験を語る(*2):

”友達が部屋を横切るとき、その横顔をみていると突然、それは起こった。

彼の顔の右側が歪んでしまった。と突然、昔のいろいろことが意識の中に浮かび

上がった。

 

実際に起こった時と同じそのままに、鮮明で完全カラーで立体的でもあった。

私は吐き気を覚えた。あまり驚いてしまったのでその映像からのがれようとした。

その後何度も同じことがおきたので、私は慣れてしまいそうした映像が浮かび

上がってきても気に留めないようになった。“(以上引用)

 

ここまで読んで臨死体験をしたことはない素人?の私でさえ、臨死体験中の‘

フラッシュバック’と異なることに気が付いた。

 

それは“吐き気を催した”というところだ。また、“何度も同じことが起きた

という個所もそうだ。臨死体験で見せられるパノラマ的フラッシュバックの際、

そばには‘光の存在’(と臨死体験者が比喩する、大きなやさしい包み込むような存在)

がいる。

 

その存在は、当事者にそれを見る間、責めたり説教したりすることなく、ただ、

悪いこともすべて当事者自身が自らのとった行為を反省する糸口とするため、

悪いことではなかったという安心感をもたせつつ、そばに寄り添っているという。

 

少なくても吐き気を催すような代物ではないだろう。

また、そのパノラマを見る目的は明らかだ。

自分の生きてきた足跡、業績、対人へ与えた正と負の冠状、などなどを当事者が認識

することで、次へのステップとするためのものだ。

 

だから、何度も見る必要は全くないのだ。ムーア博士のコメントは以下だ。

物理的肉体からの遊離体験によく似たことを神経障碍者も体験する。

いわゆる、‘自己像幻視’といわれているもので、これはN.ルキアノウイッツ博士が

医学雑誌‘Archief of Neurology and Psychiatry’に寄せた優れた論文のテーマでもある。

 

このような奇妙な幻覚にとらわれると、患者は自分の視野の中に投影された自分の姿

を見る。この奇異な生き写しの擬像は唐人の表情や肉体の動作をまねる。

 

ふつう、本人の心象は正面から少し外れた場所にあらわれるのだが、当人は突然

あらわれた自分自身の姿を見て動転し混乱する。

この体験が先に提案した物理的肉体からの遊離現象にいくらか似ていることは確かだが、

類似点よりも相違点のほうがずっと多い。”

 

としたうえで、博士は、

“自己像幻視における幻影は常に生きているものとして知覚されるし、

幻影のほうが、本人より生気にあふれ意識もはっきりしていると患者自身が思う

ケースがある。

 

一方物理的肉体からの遊離においては物理的肉体は生命のないもの、いうならば抜け殻

のようなものとして知覚される。”

 

どういうことかといえば、神経症の患者が幻影をみたときは、その幻影のほうが

現実の自分より、生気に満ちていると感じる一方で臨死体験者は、肉体と遊離したとき、

その肉体はすでに自分の遺物、つまり、脱ぎ捨てた衣服のような自分と遊離した存在

として知覚するのだ。

 

さらに、ムーア博士は興味あるコメントを書いている:

“幻覚を見ている場合、自分の幻影が語り掛けてくる言葉、指示、嘲笑などを‘聞く

’意識を持つ。”(以上)

 

が、臨死体験者は先に述べたように自分の肉体は魂がぬけた物体としてみるのみである。

そして、臨死体験では空中に浮遊した自分が、下で倒れている自分の肉体全体を見ること

に対して神経症患者のそれは、首から上しか見えない場合が非常に多いという。

 

④ 心理的解釈

ムーア博士の心理的解釈に対する見解は少々辛辣でもある。“考え方、調査方法、

精神の存在と本質に対する根本的な理解の対立が、心理学者の間にあり、死後の

世界体験に関する心理的解釈は学者がどの学派に属しているかによって、

大幅に異なる。”(以上引用)

 

私は心理学には素養のないものだが、少なくても、死後の世界を扱うということは

公に学問対象としては成立していないように感じる。

 

スピリチュアルという言葉自体、多くの解釈があり、また、それゆえにこの言葉を

避けたいとする風潮があることは確かである。

 

ムーア博士は、彼自身が実際心理学者から聞いた意見や体験をもとに、臨死体験の

背景にある心理学的解釈を大きく二つに分けている。㋐は隔離調査 ㋑は夢・妄想の類

である。

 

まず、㋐の隔離調査の目的は、人が社会から断絶されたり、個人的レベルで肉体が

動かせず精神のみ活動するような状況でどのような反応がみられるかを探るものだ。

 

40年ほど前、横井庄一さんというルソン島で第二次世界大戦が終わったことを

承知しながら、日本に戻らず、ジャングルで身を隠すように生きてきた旧日本兵が

見つかった。

 

その後小野田寛男氏は戦争が終わったことを知らず、ジャングルの中で息をひそめて

生きていたのだが、無事に日本に帰還することができた。

 

こうした社会と断絶した人たちなどはまさに隔離調査対象になる人たちであり、

ほかにも、単身で極地探検をした人、海難事故から唯一救助された人などが

その被実験者といえよう。

 

ムーディ博士はこうした隔離調査を行ってきた心理学者たちと情報を交換しあった。

具体的にその様子を次のように記している。

 

“孤独な条件のもとで、心理学的に異常な現象を体験した人たちがいる。

そうした体験の多くは、パノラマのように人生で体験したことが浮かび

上がったとかたり、何週間もただ一人、漂流していた難破船の水夫たちは

救出される幻覚をみたとも言っている。

 

さらに、こうした人たちの 多くは救助されたのち、以前と比較してずっと内面的に

安定していると報告している。

このような人格の再統合は臨死体験で蘇生した多くの人たちが報告している内容と

明らかに似ている”(以上)

 

死を告知された病人の多くは一人部屋に隔離され、音や光をできるだけ遮断された

場所で面会謝絶、つまり訪問者が訪れることができない状態に置かれることが多い。

これはある意味、心理学的見地からいえば‘隔絶された状態’といえないこともない。

 

そこで、臨死体験は、事実死後の世界の体験なのか、こうした隔離による体験に

よるのか、一概に決定できないといえる部分があるということだろう。

 

ムーディ博士はこのような体験を、病院の隔離状態の中、経験したという患者の

手記を載せている。

引用する。

 

“入院していた時、状態は悪化。私はベッドの上に横たわり、目の前に現れる画像

を見続けていた。・・・一体何がおこっているのだろうと不思議に思い始めた。

 

画像となって現れる何人かは私の知人であった。そしてこの世を去った人たち

でもあったのだ、”(引用以上)

 

ムーディ博士はこの例をとりあげて、“この体験には死後の世界の体験といささか

似ているように思えるとしたうえで、

 

しかし、このほかには(臨死体験者と)類似の現象は生じていない点が異なる。・・・

隔離研究の成果をもって、死後の世界の体験を十分解明することはできない。

まず第一に、隔離された状況で生ずる種々の精神現象そのものが現在の理論では

解明できないのである”(引用以上)

 

少なくても隔離が人間の意識の一つの不可思議な領域に踏み込む方法の一つで

あることは否定ができないだろう。

 

それは、私たちが精神修行をするとき、人里離れた場所、その典型的な例が,お釈迦様。

悟るまでに苦行されたインド中央西部の岩屋の洞窟はまさに、自分を下界と

隔離するための場所として選ばれたところだと、この目で見て納得できた。

 

次に㋑の夢、幻覚、妄想という心理学的背景と死後の世界体験を考えてみる。

一言でいえば、死後の世界体験は、“妄想”であると断定する観方である。

ムーディ博士はこの説に関しては、特別に声を大にして反論しているかのようだ。

引用すると、 

 

“私はいくつかの要因からこの見解は成り立たないと考える。

第一に現代社会において、死者を見舞うと考えられていることと、

体験者の報告に認められる最大の共通点がそれぞれ異なっているものの、

その報告内容や様々な出来事が生じる順序はよく似ているという事実を

考慮すべきだと思う。

 

私が面接した人たちとは無縁な歴史的文書や秘教的書物に書かれている

死後体験の様子とその人たちの体験描写が驚くほど一致していることは考慮すべきだ。

 

第二に私が面接した体験者たちは精神科の患者ではないということ。

精神的に安定していて、正常な社会人でもある。

これらの報告をしてくれた人たちは、少なくても、夢と現実を識別できるだけ

の社会的責任ある立場を持つ人達であるという点にある。“(以上引用)

 

私がムーディ博士の面接した体験者の話を読んだ後の感想も同様だった。

それはこれまで、インドの聖者から、大師から、ほかにも多くの覚者たちが

述べる‘死後の世界’と、ほとんど異ならない事実を、臨死体験者は自ら死後の

世界を垣間見たとする報告書の中で語っているのである。

 

こうした見解を考察したうえで、ムーディ博士は以下のような結論を述べる。

“新しい解釈を提案しようというつもりは毛頭ない。私が提案したいと思うことは

次の一点につきる。死後の世界の体験は,私たちに説明と解釈の新しい様式を

考え出すことを迫る新奇な現象である能性があるということ。

 

そして、その可能性だけは少なくても、押しつぶさないようにしたいと

いうことである。”(引用以上)

 

まさに、これからこうした領域の探求が堂々と科学的実験を伴うものとして、

深められ、”死後の世界”の存在の可能性の追求が行われていくことを願う。

 

 

(*1)レイモンド・A・ムーディ・Jr. 

バージニア大学及び大学院で哲学専攻。

1969年、哲学博士号取得、3年間のノースカロライナ東部の

大学で教壇にたち、1972年バージニア医科大学で医学博士号を取得。

その間1965年に死後の世界の体験談を

聞いて以来、臨死体験現象の研究に没頭する。

 

(*2)評論社の現代選書8.“垣間見た死後の世界” 昭和58年評論社

 

 

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恐れを自分の心から抹消したら癌が消えた(4)

2019年03月15日 | 健全生活のために”死”の常識を反転

 

臨死体験をした筆者の親戚とアニータの話の共通点。 2019・3・15

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私の親戚、(といっても血はつながっていないが)妹の嫁ぎ先の90歳を

過ぎた父上も臨死体験をしている。 

大戦中、特攻隊員として訓練を受けていた。 詳細は避けるが、

病院に運ばれ家族が見守る中、死の宣告を受けた。 

が、その方は、棺の中で息を吹き返した。

 意識が戻り、自分がすでに葬られる寸前にあることを察知して、慌てて、

棺桶の中から釘を打たれる前にこんこんと蓋を内側からノックして、周囲

の人たちが驚愕する中、無事お棺の蓋は開き、事なきを得た。

 

その方から直接その話は伺う機会もあった。 述べたように、すでに、

心肺停止で棺に入れられたが幸いにまだ釘が打たれていなかった。

心臓が止まり、死の宣告を受けているとき、その方の意識がどこにあった

のかというと…伺ったお話では、魂があの世の際(きわ)に行き、

肉体に戻るかどうかを、あの世とこの世のすれすれの地点で生か

死の決断をさせられた~という。

その際、現れた霊人に、“まだ幼い子供たちがいるから心配だ。死に

きれない”と強く訴えたら、 いつの間にかお棺の中に横たわっている

自分の肉体に意識が戻ったという。

 

その話によく似たことをアニータは次のように自著(*1)に書いている。

“医師は私の臓器の機能を検査して、すでにその報告書を書いていました。

・・・検査結果には臓器機能不全と書かれ、もし、身体に戻る選択をすれば、

臓器が再び機能し始めたと記されるでしょう。

 

その瞬間、私は、‘もう、戻りたくない’と決意しました。そして、自分の

身体が死んでいくのを感じ、臓器機能不全による死だと医師が家族に

説明している場面を目にしました。”

 

何故ここで、アニータは戻りたくないと感じたのだろう? 

その理由をアニータは次のように回想している。


“無条件の愛あと自分が受け入れられた感覚は素晴らしいものでした。

私は永遠にその状態にいたかったので、境界線(注:生と死の)を

超えようと思いました。そこには、痛みも苦しみも、ドラマもエゴも、

存在せず、私はあらゆる生き物と創造物の純粋な本質に包まれて

いました。 

 

まさしくすべてが一つであると感じていたのです。”

 

一方で、アニータはそう思いつつ、結果的に肉体に戻る選択をした。

そこには、新たな人生を歩むという大きな決意があったからだ。

愛と本当に純粋な自分の姿、すべてが繋がりあっている宇宙の

タペストリーを垣間見ることで、アニータの魂は、すでに新生

していたのだ。彼女の言葉を引用しよう。

 

“死の方へ歩き続けると決心した瞬間、私は新しいレベルの真実に

気が付きました。自分が本当は確かに気づき、本当の自分のすばらしさを

理解したので、もし身体に戻る選択をすれば、病気は急速に治癒するだろう

とわかったのです。

 

それも何週間や何か月かけてとかではなく、わずか2,3日のうちにです。 

もし、身体に戻ったら、医師は癌の痕跡すら見つけられないでしょう。”

 

“どうやって?どうしてそれが可能になるの?”と聞きたくなる。

アニータは自ら、その答えを出している。

 

“身体は自分の内側を反映したものにすぎないと悟りました。

もし、内なる自己がその偉大さと、おおいなるものとの繋がりに

気づけば、私の身体はすぐにそのことを反映し、病気は急速に

治るでしょう。”

 

そして、彼女はこの経験を多くの人に知ってもらうことで、

癌や難病で苦しむ人たちに希望と勇気を与えることができると考えた。

どうやって? どうしたら多くの人達に知ってもらえるか?” 

とまた次の疑問がわく。アニータは答える。

 

“何千人という人達、おそらく、何万もの人達を手助けすることと

関係しているようでした。

彼らと臨死体験で得たメッセージを分かちあうのかもしれません。

でも、自分から追い求める必要はなく、また、それをどうやって

表現するかを考える必要もないのです。

ただ自然の展開に任せていればよいことでした。”

 

“自然の展開にまかせるって?” という質問が出てくる。アニータは答える。

自然の展開へ到達するために、私がすべきことは、ありのままの自分

でいることだけなのです。

私はこれまでのすべての年月において、自分に必要だったのは、ただ

ありのままの自分でいることだったと悟りました。

自分を非難したり、欠点があると思ったりせずにです“

 

ありのままの自分って? こんなに欠けている所がある自分で

良いというの?” と聞きたい。アニータは答える。

 

“私たちの本質は純粋な愛だとわかりました。

誰もが純粋な愛なのです。

完全なるものからやってきて、それに戻るのであれば、そうでない

はずはありません。

このことを理解したら、自分であることをもう恐れることはないでしょう。

愛であることと、本当の自分であることは、ひとつであり、

同じことなのです。”

 

そして、臨死体験の経験を他人とシェアーすることで、多くの人達の

手助けになると語ったアニータだったが、もっと、簡単に人を癒せる

確実な方法を知る。

 

“大きな新事実、それは雷光のとどろきのごとく、やってきました。

単に自分の本当の姿である愛でいれば、自分も他人も癒せると

わかったのです。

それは明白なことに思えました。

もし、私たちがみんな一つで、無条件の愛という全体のさまざま

側面であるなら、私たちみんな愛の存在だということです。

私はそれが人生の唯一の目的だと知りました。

つまり、本当の自分でいて、自分の真実をいき、愛であることです。“

 

こうしてアニータは、自分の体験を多くの人たちに伝えることを

人生の目標と定め、精力的に活動を始めた。

話の冒頭に戻ると、私がお会いしてお話を伺ったその方も、

生還後?銀行業務の傍ら、精神界のお話を多くの人たちに伝えることに

何十年も真摯に努められている。

アニータも妹の嫁ぎ先の父君も、死と生の境界線に立った体験は、

その後の人生を変えるほど、大きな影響を与えたことは共通していえそうだ。

 

 

*1  ”喜びから人生を生きる!”~臨死体験がおしえてくれたこと~ 

アニータ・ムァジャーニ著、2013年  (株)ナチュラルスピリット

 

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臨死者に口なし、されど、意識はある・・・アニータの体験

2019年02月01日 | 健全生活のために”死”の常識を反転

 

身体を離れて 本当の自分を知る (2)~   2019・2・1

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死人に口なし、されど、意識はあるはず、というタイトルは少し

語弊があるかもしれない。

あと一歩で、地上に戻れない死後の世界に足を踏み入れるか否かの、

瀬戸際にいたアニータは確かに意識はあり、その意識は拡張して、

病院の中の医師や看護師たちの言動を知ることができるまでだった。

 

一方、身体的にいえば、意識不明状態であり、死との境にいたわけだから、

完全な死人ではなかった。 

今日のお話は、そんなアニータが完全復活をとげるまでの記録のご紹介。

 

2006年2月上旬の朝、起床できないほど体の部位がはれ上がり、息もあえぎ

あえぎの状態になったアニータ。 

緊急入院を余儀なくされたアニータが、病院でどのような体験をして、

奇跡的回復を遂げたのか? 

 

アニータは病院に担ぎ込まれてから、こん睡状態に陥る。

が、”自己意識”ははっきりと自覚され、周囲で話している医師の声や状況すら

よく理解できていた。

どうやら、人は肉体の死を宣言されても、’意識’はしっかりと活動しているようだ。 

たとえ、植物人間といわれる状態でも、(霊的)知覚は活動していて、ベッドの

周りの人達の言葉や動作がわかり、時には彼らが何を考えていることすら理解できる

場合がある~と体験者の手記を読んだことがある。

その’意識’はアイデンティティをもって活動をしている。 

ニータの場合もそうだった。 

医師の自分への処置方法や、家族の悲しみの反応、思いがけず、自分が病をかかえた

肉体を去って痛みから解放され、精神的にも自由になった心境などなどを、

次のように、後日、本の中で書いている。(*1)

 

“癌専門医は私を見た瞬間、明らかにショックを受けた様子でした。

‘奥様の心臓はまだ動いていますが、意識はありません。

助けるには手遅れです’ と医師はダニー(注:アニータの夫)に告げました。

‘医師は誰のことを話しているのだろう?

私はこんなに気分が良いのに。

ママやダニーはどうしてあんなにおびえて心配そうなの?

ママ、どうか泣かないで。何があったの? 私のせいで泣いているの? 

お願い、泣かないで。私は大丈夫よ!’

 

’私は大声で言っているつもりでしたが、声にはなりませんでした。

なぜそれができないのか、まったく理解できませんでした。

‘どうして、身体が湯ことを聞かないの? 

どうして死んだみたいに横たわっているの? 

するダニーや、ママをだきしめたい、もう大丈夫、痛みは全くないって

安心させたいのに・’

 

すでにこの時点でアニータは、臨死状態になっていた。

多くの臨死体験者の話や本を読むと、いくつかの共通体験がある。

 

① 五感を持った肉体以上に鋭敏に知覚機能が働き、自分の周囲で起こる

状態を理解できる 

 

② すべての動きに対し鋭敏に空間の距離にかかわらず、愛する人達の感情

などが読み取れるようになる。

 

③ 計り知れない自由な感覚が心地よく、肉体を持っていた時の痛みや病状

から解放される。

 

④自分という意識は残るが、それが宇宙空間にどんどん拡大していき、

万有万物と一体感を味わうような超自然的状態が自覚され、愛に満たされる 

 

⓹ 肉体を持っていた時のほうが夢をみていたように感じるほど、幽体意識では

目覚めた本来の存在感覚が一層明確に意識される 

 

⑥ そこにはもはや性別、差別、資格、判断、などの差異や価値基準はなく、

喜びや恍惚感、畏敬の感情、そして無我の大愛を理屈抜きに証明無しに

感じ取れる。

 

⓻ すべての瞬間が過去現在未来と同時に感じられるほど、時間に対する

概念がひっくり返る。

時間は直線的ではなく、肉体の五感の制限により一列に時間をつなげる必要が

なくなるので、時間 の経過という感覚はなくなる。

 

①から③は、主に、まだ肉体のそばに意識があるときにみられるようだ。 

冒頭に書いたように、アニータが、医師の言葉や家族の悲しみをひしひしと共感して

”私は大丈夫よ”と声掛けしているのも、そうした例だろう。

 

特に③は興味深い。

交通事故にあい、危篤状態で臨死体験を体験した人の手記を読むと、意識が

体を離れた瞬間、あれほど苦しい痛いと感じていた肉体が、まるで自分の殻の

ように横たわっているのをみるだけで、さっきまで味わっていた身体的苦痛を

感じることがなくなったという。 

この世に戻る、つまり、意識が肉体に戻ると、また強烈な痛みが襲い掛かって

きた体験をしている。

 

④と⑤のコメントはスピリチュアルなものだ。 

誰しもが、こうした至福に似た感覚を持つのかどうか、定かではない。

が、多くの手記にはアニータと似たような体験が記されている。

ここではアニータの実際に体験したときの、言葉を借りてみたい。

 

"(臨死体験中)私は、自分に施されているあらゆる処置の細部にまで、

十分気づいていましたが外見上はこん睡状態に見えていました。 

私はどんどん外へ広がっていき、周囲の物理的環境から引き離されていく

のを感じました。

そこにはもはや空間や時間の拘束はなく、どんどん拡大し続けて、より大きな

意識と一つになっていくようでした。

身体を持っていた時には体験したことのない、自由や解放感がありました。

それは歓喜や幸福がちりばめられた、至福感としかいいようのないものでした。

病気で死にかけている身体からの解放、そして、病気による苦痛や痛みから

自由になった喜びから生じたのでしょう。”

 

次に④”自分という意識は残るが、それが宇宙空間にどんどん拡大していき、

万有万物と一体感を味わうような超自然的状態が自覚され、愛に満たされる

の体験についてこう記している。

 

”向こう側の世界に深くはいっていき、拡大しながらすべての人やものと、一つ

になるにつれて、愛する人達いや周囲の状況への愛着が、ゆっくりと消えて

いきました。

その間、すばらしい、’無条件の愛’としか表現できないものが、私を取り囲み

しっかりと包んでくれたのです。

でも、その感覚は’無条件の愛’という言葉では十分に表せるものではありません、

それはあまりにも、乱用されすぎて、言葉の持つ強烈さが失われているからです。”

 

そして、⑤の”肉体を持っていた時のほうが夢をみていたように感じるほど、

幽体意識では、目覚めた本来の存在感覚が一層明確に意識される” に関して

のアニータのコメントは以下だ。

 

”身体的にどこか別の場所へ行ったというより、むしろ目覚めたような感覚でした。

おそらく、悪夢からやっと目覚めたのかもしれません。

私の魂はその真のすばらしさをやっと悟ったのです。

それは、次第に私の身体や物質的世界を超えて遠くへと広がっていき、この世

の存在だけでなく、時間や空間を超えた別の領域にまで広がり、同時に、その一部

となりました。”

 

同時に一部となった? 

この表現は具体的に次のように感じていたということだ。

 

”愛、喜び、恍惚感、畏敬の念が私に注がれ、私の中を流れ、私を飲み込みました。

それまで存在していることさえ知らなかった、大きな愛に包まれました。

これほど、大きな自由や生きているという実感を味わったのは、初めてでした。

すでにお話しましたが、私のベッドから遠く離れた場所で話している、医師と家族の

会話が突然、わかるようになったのです。

これは物理的には不可能なことでした。” 

 

さて、⑥と⑦は?

⑥ そこにはもはや性別、差別、資格、判断、などの差異や価値基準はなく、

喜びや恍惚感、畏敬の感情、そして無我の大愛を理屈抜きに証明無しに感じ取れる。

 

⑦ すべての瞬間が過去現在未来と同時に感じられるほど、時間に対する概念が

ひっくり返る。

時間は直線的ではなく、肉体の五感の制限により一列に時間をつなげる必要が

なくなるので、時間の経過という感覚はなくなる。

 

アニータは ”私の魂はその真のすばらしさをやっと悟ったのです。”と書いている。 

もう少し、彼女の悟りについて、次回はみてみたい。

 

 

*  ”喜びから人生を生きる!”~臨死体験がおしえてくれたこと~ アニータ・ムァジャーニ著

  2013年 株)ナチュラルスピリット

 

 

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