自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

臨死者に口なし、されど、意識はある・・・アニータの体験

2019年02月01日 | 健全生活のために”死”の常識を反転

 

身体を離れて 本当の自分を知る (2)~   2019・2・1

*******************************************

 

死人に口なし、されど、意識はあるはず、というタイトルは少し

語弊があるかもしれない。

あと一歩で、地上に戻れない死後の世界に足を踏み入れるか否かの、

瀬戸際にいたアニータは確かに意識はあり、その意識は拡張して、

病院の中の医師や看護師たちの言動を知ることができるまでだった。

 

一方、身体的にいえば、意識不明状態であり、死との境にいたわけだから、

完全な死人ではなかった。 

今日のお話は、そんなアニータが完全復活をとげるまでの記録のご紹介。

 

2006年2月上旬の朝、起床できないほど体の部位がはれ上がり、息もあえぎ

あえぎの状態になったアニータ。 

緊急入院を余儀なくされたアニータが、病院でどのような体験をして、

奇跡的回復を遂げたのか? 

 

アニータは病院に担ぎ込まれてから、こん睡状態に陥る。

が、”自己意識”ははっきりと自覚され、周囲で話している医師の声や状況すら

よく理解できていた。

どうやら、人は肉体の死を宣言されても、’意識’はしっかりと活動しているようだ。 

たとえ、植物人間といわれる状態でも、(霊的)知覚は活動していて、ベッドの

周りの人達の言葉や動作がわかり、時には彼らが何を考えていることすら理解できる

場合がある~と体験者の手記を読んだことがある。

その’意識’はアイデンティティをもって活動をしている。 

ニータの場合もそうだった。 

医師の自分への処置方法や、家族の悲しみの反応、思いがけず、自分が病をかかえた

肉体を去って痛みから解放され、精神的にも自由になった心境などなどを、

次のように、後日、本の中で書いている。(*1)

 

“癌専門医は私を見た瞬間、明らかにショックを受けた様子でした。

‘奥様の心臓はまだ動いていますが、意識はありません。

助けるには手遅れです’ と医師はダニー(注:アニータの夫)に告げました。

‘医師は誰のことを話しているのだろう?

私はこんなに気分が良いのに。

ママやダニーはどうしてあんなにおびえて心配そうなの?

ママ、どうか泣かないで。何があったの? 私のせいで泣いているの? 

お願い、泣かないで。私は大丈夫よ!’

 

’私は大声で言っているつもりでしたが、声にはなりませんでした。

なぜそれができないのか、まったく理解できませんでした。

‘どうして、身体が湯ことを聞かないの? 

どうして死んだみたいに横たわっているの? 

するダニーや、ママをだきしめたい、もう大丈夫、痛みは全くないって

安心させたいのに・’

 

すでにこの時点でアニータは、臨死状態になっていた。

多くの臨死体験者の話や本を読むと、いくつかの共通体験がある。

 

① 五感を持った肉体以上に鋭敏に知覚機能が働き、自分の周囲で起こる

状態を理解できる 

 

② すべての動きに対し鋭敏に空間の距離にかかわらず、愛する人達の感情

などが読み取れるようになる。

 

③ 計り知れない自由な感覚が心地よく、肉体を持っていた時の痛みや病状

から解放される。

 

④自分という意識は残るが、それが宇宙空間にどんどん拡大していき、

万有万物と一体感を味わうような超自然的状態が自覚され、愛に満たされる 

 

⓹ 肉体を持っていた時のほうが夢をみていたように感じるほど、幽体意識では

目覚めた本来の存在感覚が一層明確に意識される 

 

⑥ そこにはもはや性別、差別、資格、判断、などの差異や価値基準はなく、

喜びや恍惚感、畏敬の感情、そして無我の大愛を理屈抜きに証明無しに

感じ取れる。

 

⓻ すべての瞬間が過去現在未来と同時に感じられるほど、時間に対する

概念がひっくり返る。

時間は直線的ではなく、肉体の五感の制限により一列に時間をつなげる必要が

なくなるので、時間 の経過という感覚はなくなる。

 

①から③は、主に、まだ肉体のそばに意識があるときにみられるようだ。 

冒頭に書いたように、アニータが、医師の言葉や家族の悲しみをひしひしと共感して

”私は大丈夫よ”と声掛けしているのも、そうした例だろう。

 

特に③は興味深い。

交通事故にあい、危篤状態で臨死体験を体験した人の手記を読むと、意識が

体を離れた瞬間、あれほど苦しい痛いと感じていた肉体が、まるで自分の殻の

ように横たわっているのをみるだけで、さっきまで味わっていた身体的苦痛を

感じることがなくなったという。 

この世に戻る、つまり、意識が肉体に戻ると、また強烈な痛みが襲い掛かって

きた体験をしている。

 

④と⑤のコメントはスピリチュアルなものだ。 

誰しもが、こうした至福に似た感覚を持つのかどうか、定かではない。

が、多くの手記にはアニータと似たような体験が記されている。

ここではアニータの実際に体験したときの、言葉を借りてみたい。

 

"(臨死体験中)私は、自分に施されているあらゆる処置の細部にまで、

十分気づいていましたが外見上はこん睡状態に見えていました。 

私はどんどん外へ広がっていき、周囲の物理的環境から引き離されていく

のを感じました。

そこにはもはや空間や時間の拘束はなく、どんどん拡大し続けて、より大きな

意識と一つになっていくようでした。

身体を持っていた時には体験したことのない、自由や解放感がありました。

それは歓喜や幸福がちりばめられた、至福感としかいいようのないものでした。

病気で死にかけている身体からの解放、そして、病気による苦痛や痛みから

自由になった喜びから生じたのでしょう。”

 

次に④”自分という意識は残るが、それが宇宙空間にどんどん拡大していき、

万有万物と一体感を味わうような超自然的状態が自覚され、愛に満たされる

の体験についてこう記している。

 

”向こう側の世界に深くはいっていき、拡大しながらすべての人やものと、一つ

になるにつれて、愛する人達いや周囲の状況への愛着が、ゆっくりと消えて

いきました。

その間、すばらしい、’無条件の愛’としか表現できないものが、私を取り囲み

しっかりと包んでくれたのです。

でも、その感覚は’無条件の愛’という言葉では十分に表せるものではありません、

それはあまりにも、乱用されすぎて、言葉の持つ強烈さが失われているからです。”

 

そして、⑤の”肉体を持っていた時のほうが夢をみていたように感じるほど、

幽体意識では、目覚めた本来の存在感覚が一層明確に意識される” に関して

のアニータのコメントは以下だ。

 

”身体的にどこか別の場所へ行ったというより、むしろ目覚めたような感覚でした。

おそらく、悪夢からやっと目覚めたのかもしれません。

私の魂はその真のすばらしさをやっと悟ったのです。

それは、次第に私の身体や物質的世界を超えて遠くへと広がっていき、この世

の存在だけでなく、時間や空間を超えた別の領域にまで広がり、同時に、その一部

となりました。”

 

同時に一部となった? 

この表現は具体的に次のように感じていたということだ。

 

”愛、喜び、恍惚感、畏敬の念が私に注がれ、私の中を流れ、私を飲み込みました。

それまで存在していることさえ知らなかった、大きな愛に包まれました。

これほど、大きな自由や生きているという実感を味わったのは、初めてでした。

すでにお話しましたが、私のベッドから遠く離れた場所で話している、医師と家族の

会話が突然、わかるようになったのです。

これは物理的には不可能なことでした。” 

 

さて、⑥と⑦は?

⑥ そこにはもはや性別、差別、資格、判断、などの差異や価値基準はなく、

喜びや恍惚感、畏敬の感情、そして無我の大愛を理屈抜きに証明無しに感じ取れる。

 

⑦ すべての瞬間が過去現在未来と同時に感じられるほど、時間に対する概念が

ひっくり返る。

時間は直線的ではなく、肉体の五感の制限により一列に時間をつなげる必要が

なくなるので、時間の経過という感覚はなくなる。

 

アニータは ”私の魂はその真のすばらしさをやっと悟ったのです。”と書いている。 

もう少し、彼女の悟りについて、次回はみてみたい。

 

 

*  ”喜びから人生を生きる!”~臨死体験がおしえてくれたこと~ アニータ・ムァジャーニ著

  2013年 株)ナチュラルスピリット

 

 

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時間のない世界と異次元の私

2018年02月18日 | 健全生活のために”死”の常識を反転

 

死んだあとの第三の段階に知る、究極的実存の自分とは?

************************************2018・2.18

実母の葬式を終えて、母の魂の行方と意識の状態を

かんがえている間に、ニール氏の原著を読んだ。

その本によれば、死んだあと、三段階の過程を人は経るという。

 

一段階目は、肉体の衣を脱ぎ捨てて、自分が死んだという

認識を持った段階。


二段階目は、その人が生前、どのような信念で生きてきたか

によって、その信念通りの環境が死後の世界として表れるステージ。

たとえば、厳格なキリスト教徒は、死後、審判の日までは眠って

いると信じているから、死後、自分が死んだと気が付いても、

そのまま深い眠りの状態で過ごすという。


地獄に落ちるほど、生前、悪い業を重ねてきたと恐れていた善人は、

地獄の状況が待ち受けているだろう。

死んだら、愛していた家族と再会するのだと楽しみにしていた

人の前には、一足先に霊界に旅だった昔の家族が出迎えて、楽しい

再会を果たすだろう・・・という具合だ。


第三段階には何があるのか?

それは“ultimate reality “, 究極の実存 とも訳せる、その実態

を体験するステージが待っているという。


究極の実存 というのは、たとえば、地獄の世界で苦しんでいる

自分を認識すると同時に、もう一人の究極の自分が‘

”これは私の心が造りだしている世界だ”と 自覚したとき、

自然と地獄にいてそれを超越できる実存を体験するという。


地獄に居ながらにして、本当の自部の意識が、次元を超えて

たどりつくステージ”といえるだろう。

つまり、私は、本当は誰なのか?~という質問に、一時的な

感情でもなく、マインド(心)ではなく、魂(ソウル)である”

ストンと悟る、その瞬間に、このステージにたつ。


この究極の実存の段階のことを考えていたら、このブログの

冒頭のような’前置きの言葉’が思い浮かんだ。


 実存の段階には時間が存在しない。

なぜなら、般若心経でとくところの、不生不滅 の 空 

のポイントに存在していることが、’実存の実態’でもあるからだ。


在ってあるべき姿、未来永劫、いつ生まれたとか、いつ消える

という時間的限界があったり、有限の存在でないという 

明白な自覚を覚えることだろう。


この空 の自分を観る目というのは、死んでから 理解する

人もいれば 今この娑婆世界に生きていながら、持っている

賢人たちも多々いる。

ニール氏の本では以下のように、その目を 次のように表現

している。

“Even those who imagine they are  going to ‘hell’ and then send 

themselves there do not suffer. 

They simply observe themselves  having this experience, but without 

emotional connection to it.”

~地獄に行くと想像した者たちは、そこに自らを送り込むが、

決して苦しんではいない。

自分が地獄の体験をしていることを観察しているだけで、

感情的なつながりはそこにはない。


“Once the soul has remembered that suffering is not a reality, but, merely 

an experience created in the human  mind, it will have achieved what it 

sought to achieve with the creation of its own hell, and the experience 

will thereafter be meaningless.”

~一度、魂が 苦しみは実存するものではないということを

思い出した時、その苦しみは人間の心が単に、生み出して

体験していたということを知るとき、魂は、自ら創造した

地獄の体験を獲得はするだろうが、その体験は無意味であるという

こともわかるだろう。

 

こうした真に客観的な冷ややかな自分を観る目は、

ある意味、’空’的な 本来の’自分の目’と言ってもよいのだと思う。 

そして、それは、確かに、次元が異なるところから、

この三次元世界、もしくは、霊界における次元の境遇を

見ている目でもある。

 

あの人が!? と思わせる その人の多様性ある行動や意見、

私自身が自分を観たときにどうしても相いれない不整合的

自分の言動、 そうした矛盾性ある人間の様々な側面を

考えたとき、“私たちは違う異なる次元を今、同時に、

生きている”とも表現できるのはないか~・・・

と感じる。


そして、そう感じながら、つらつら思うには、それは 

同時進行で、目に見える今のこの場の出来事以外に、

目に見えないところ、あるいは、異次元の流れの中で、

自分が複数存在していても、おかしくはない~という

漠然としたアイデアに行き当たった。

 

幸い、ニール氏の本の中で、同様のことが以下のような

言葉で書かれているのを見つけた。

“All things (past, present, and in future) happen sequentially and 

simultaneously.”

~すべての事柄、(過去、現在、未来)で起きる事柄は、

順序だてながら、しかも同時に起きているのだ。

さらに、

You experience a three-dimensional world, but you do not live in one”

~あなたは、三つの次元の世界を今、体験しているが、

1つの姿として生きているのではない。


“It means that Ultimate Reality is far more complex than you may ever 

have imagined. 

It means there is more going on here than meets the eyes.

 I tell you that All Possibilities exist at all times. 

You are choosing the possibility that you wish now to experience from

 a multidimensional field of infinite possibilities.”

~それは、あなたが想像するより、はるかに、究極的実存の

世界は、複雑だということだ。

それは、目で見ていること以上にもっと多くの事が

ここでは繰り広げられているということでもある。 


私は、すべての可能性 は、常に、いつも、存在している

と言いたい。

あなた自身が、無限の可能性のある、多次元の事象の中

から、どの体験を選びたいかと決めて選び出したことは、

自ら、体験したいと願っているわけだ。

 

私の亡くなった母は、違う次元の姿で今も、私の傍らに

いるように感じる。

今ブログを書いて、原稿をパソコンで打っていても、

私の違う次元に漂う実存的意識は母のそばにある。


楽しそうに冗談を交えながら、今日あった興味深い出来事を

話して母に聞かせているのだ。 

かと思うと、違うところで、現実的な明日の予定を反芻して、

そのための準備の段取りの予定を、考えている。

 

人間というのは、しょせん、そのように、奥が深く、心の領域は、

他者が想像できないほど、多岐多様に様々に広がっている

ものだとニール氏の本の中でも、述べられている

 

 

* 青線挿入フレーズ(日本語訳、須田) 出所~

”Home With God"~

In A Life That Never Ends      

 by Neale Donald Walshch

Atria books ,2006 

 

 

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母の49日法要~死後の世界の共通性

2018年02月13日 | 健全生活のために”死”の常識を反転

 

希望の持つ、”永~い”意味  2018・2/13

*********************************************

 

母の49日法要を先日済ませた。

母が亡くなってから、ほぼ、毎日のように心に浮かんでくること。

それは、~母の魂は今霊界のどのあたりを浮遊して、どのような’意識’

を持っているのだろうか~ということだった。


その人固有の意識は、必ず、あの世にも持ち越されていると

思っている。

母が亡くなる数か月前からよく口にだして気にしていた、

実家の祖母や祖父、叔父叔母たちと再会できたのだろうか?


出迎えに来てくれた亡き父や親類に囲まれて、満たされた、

幸せな気分でいるだろうか?と思いをはせずにはいられなかった。

 

以前ブログでもご紹介した、医学博士ムーア氏や、経済博士

飯田史彦氏などの体験などを読むと、死後の世界というのは、

あの世に行った人の体験にはある程度の共通性があるようだ。

 

天国はともかく、宗教家の言う、地獄は存在しない。 

地獄とは、あくまで、その人の思念や信念、によって、出現する

らしい。 


生前から、自分は、罪深い人間だから、必ず、死んだら地獄に

行くと考え、固くそう信じている人の前には、死後、確かに

地獄の形相が表れ、自らそこで、想像していた通りの苦しみの

煉獄を味わうことになると、それらの著書の中では言う。


又、敬虔なクリスチャンが最後の審判まで人は眠り続ける 

という教義を純粋に信じているならば、その人はあの世でも、

確かに、意識的に覚醒することなく眠った状態だと、他の霊

の報告にもある。

 

前福島大学教授の、飯田氏のとりもった、自殺者の霊が 

死んでから、いろいろ肉体があったときは気づかなかった

ことが、自然とわかってきました。

私は、真っ暗な中にいますが、愛のような温かいものに

今包まれているのを感じます” と話した、その”あたたかさ”

とか”光”、を感じたりそれが視覚化されて、天使や守護神に取り

囲まれている自分を死後、見出す人は結構多いようだ。

 

つまり、この世とあの世と同じ原理があり、自分が

自分の周りの環境を生み出すということには その法則は、

変わりがないようだ。


だから、地獄の苦しみを味わっていても、’愛’とか’

すべてを受け入れてくれる存在’に気がつけば、地獄は

いつの間にか雲散霧消して、優しさに満ちた世界に

憩う事ができるという仕組みだろう。


あるいは自分は死んだら、きっと、こういうヴィジョンが

見れると信じているなら、そのようになる確率は大きい

ということだ。

仏教徒なら、仏様、クリスチャンなら天使やマリア様などとの

邂逅もその原理からすれば当然 あり得ること だろう。

 

以下の言葉(*1)は、母のそうした死後のことを

案じながら、読んでいた時期とても説得力があるような

気がして、生きていることと死んでいることとの違いは

あまりないこと、そして、希望の大切さを感じて励まされた。


ここには、’希望’の持つ意味合い、その大切さ、がわかりやすく

書かれていた。

 

今、この世に生きている自分と、あの世に行って間もない魂が、 

’一体何が起こったのか?’びっくりしてパニックって

いる状況下でも、”生きていることには変わりはない~

と、この本では語る。


確かに、体があることだけが ’生きている’ことではないだろう。

生きているということは、

’自分の意識’を持って 何かを創造して表現している~という

とだと定義すれば、死んだ人も 霊体に代わっただけで、

’意識’をもっている限り、現世で生きている私たちと基本的には

(意識を持っているというところでは)、同じことだろう。


さらに、生きている私たちの意識の中で、’希望’という

役割が大きいように、あの世に行った魂にとっても、それは

変わりがないらしい。


以下 その本からの抜粋。

Hope is the doorway to belief, belief is the doorway to knowing, 

knowing is the doorway to creation, and creation is the doorway to 

experience.

)希望は信念に通じ、信念は知ること(知識)に通じる。

知ることは、創造に通じ創造は体験に通じる。

 

Experience is the doorway to  expression, expression is the doorway

 to becoming, becoming is the activity of all Life and the only function 

of God.

訳)体験することは表現に通じ、表現は生成に通じ、生成は

すべての生命の活動であり神の唯一の働きである。

 

When you hope, you will eventually believe, what you believe,

you will eventually know, what you know, you will eventually create, 

what you create, you will eventually experience, what you experience, 

you will eventually become.

This is the formula for all of life.

訳)希望を持つとき、すでに信念が生まれ、信じる結果、

知ることができるだろう。

知ることの結果は、創造であり、創造の結果は体験を味わい

そうして、何かに成る。

これが、すべての生命の方程式である。

 

Hope plays a wonderful role in ‘death’ and in ‘life’.

訳) 希望は´死’にも’生’にも素晴らしい役割を果たしている

 

月並みに’希望を持ってください’と慣用句のように、使っていた

気がするが、’希望’という切符は死後の世界にも使えるとは、

認識していなかった。


希望を持つ というのは、言い換えれば、自分の理想とする姿

や状況を思い描き、それがいつか必ず、実現すると信じること

かもしれない。

 

長い人生の間、いつか、そうした状況に必ず、近づけるよう

努力を重ねる。

もし、今生が無理でも、必ず、もう一度生まれ変わったら、

きっと、そういう理想の自分になれると、その究極の姿を常に

心に抱き続ける・・・それが、必ず実現するということを

希望として持つ。


そうすると、長い気持ちを持ってあまり、焦らず、良い時も

悪い時もあるとくよくよしないで、楽しく、人生を客観的に、

構えて見ていられそうだ。


遅かれ早かれ、必ず、私たちは死ぬ。 

その時に’死後の世界’に行ったら、どのような状況が出現する

ことを願うか? 

否、その前に、やはり、今生で どんな自分でありたいか? 

と、理想のヴィジョン鮮明に持つことは、有効期限の永い、

希望の切符を得るための、楽しい代価かもしれない。

 

 

 

 

*1)”Home with God  In a Life~ That Never Ends"

by Neale Donald Walsch  Atria books ,New York, 2006

 

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唯脳論者飯田氏と自殺者の霊

2017年09月23日 | 健全生活のために”死”の常識を反転

わけのわからない、輩(やから)たちは退散しろ! 2017.9.23

********************************************

 

飯田史彦氏の“生きがい論”シリーズの中でも、

私は特に、このエピソードに興味を持つ。 


今までにも何回か、ブログの引き合いでご紹介している

が、それは、先回書いた記事に出てくる自殺霊との

対話である。

 

先回の内容では、結局、飯田氏が恐れていたように、

心に語り掛けてくる声、その声が与えてくれる情報に

従って 誘導されるように、自殺霊の実家にたどり

着いたところまでご紹介した。

 

今日は、その間の 自殺霊と向き合っているとき

の飯田氏の葛藤を少しお話したい。


飯田氏は当時唯脳論者、神も霊の存在も信じておらず、

こうした幻覚幻聴が始まったのは、或る日、高熱を

出して、一晩寝込んだ時以来のことなので

その後遺症ぐらいに思っていた。

 

さて、飯田氏に話しかけてきた自殺霊は、恋愛の成就

が妨げられたことが原因で、自殺した男性の霊だった。 

 

両親は自殺した息子の本当の原因を隠し、事故であると

周りに語っていた。 

そして、自殺の原因が恋愛にあることを知らない両親

は、息子の働いていた会社の労働条件の不当扱いに

よるものと思い込み、会社を訴えようとしていた。 

 

息子の自殺霊は、あの世とこの世の中間を漂いながら、

両親の悲しみと誤解を取り除かない限り、自分は

浮かばれないと感じていた。


なぜなら、両親が会社を訴えることで さらなる、

複雑なカルマを 両親に課すことになるからだ。 


自分が魂意識として両親の傍らにいることを飯田氏を

通じて知らせたかったのだ。

 

その目的で、話しかけてきたこの自殺者の霊と

対話をしながら、半信半疑のまま、飯田氏は次のように

考えて 矢継ぎ早に霊が心痛める質問をしたという:

 

その時の私には,自分の脳の中から‘、彼’に代表される,

‘おかしなものたち’をまとめて追い出したいという

願望しかありませんでした。” 

 

そこで、飯田氏は 自殺霊にこう言い放つ、

そもそも、あなたが自殺して、ご両親を裏切ったん

でしょう?” 


“そもそも、ご両親をそんな目に合わせたのは(須田注:

息子をなくした悲しみ大きく、さらに次なるカルマを

作ってしまう両親の姿に、自殺霊は 責任を感じて

‘救い出したい’と飯田氏に話した後の会話)

あなた自身じゃないですか!”

 

“なんか言ったらどうですか?”

とたたみかけるように、自殺霊に言うと、


“その時、私の心がぶるぶると激しく振動するのが

わかりました。 


‘彼’の魂が持つ、いいようのないほど、強くて深い罪悪感と

後悔の念が直接に伝わってきたのです。” 

 

こうして、飯田氏は自殺霊の悲しみの深さを感じると

ともに、頭がガンガンと痛んできた。

そして、決心せざるを得なかった。

 

“この頭の痛みから逃れるためには、‘彼’を救うしかない。 

この痛みは、‘彼’の痛みなんだから”

 

話は前後するが、なぜ、その自殺霊は、飯田氏に、

的を絞ったのか?


自殺霊が言うには、 寂しくて、光を求めてさまよって

いたら、一つの灯りのように見えたものがあったので、

あのう’ と話しかけたという。

それが、光に見えたのは、飯田氏だったという。

 

飯田氏は聞く:

なぜ、その光に話しかけたら、僕だったんでしょうね?”


霊:“自分にはわかりませんが、・・きっと、それが

あなたのお役目なんじゃないでしょうか?”

 

“使命です。・・暗闇でさまよう魂たちを、光にいざなう

こと・・

それが、あなたの使命であるに違いありません・

少なくても、自分にとっての光は、あなただったんです

から”

 

この一件のあと、飯田氏は、これまでの唯脳論を捨て、

その使命を自覚したかのようだ。


その後、見えない体を持つ 霊体の悲痛の願いを

聞き届け、日本中を飛び回り、多くの霊とその家族を

助けることになる。

 

しかし、当時は、まだ懐疑的だった飯田氏は、自殺霊に

次のように言う。


“それにしても、僕はまだ、20歳の大学生ですよ

・・略・・

魂みたいなものの存在なんて、まったく信じて

いないのです!” 

 

さらに、

“魂なんて存在するはずがない。そんなこと非科学的だ。

バカバカしい。” 


“あなたは、幻にすぎない。

あなたは、僕の脳が創作した、幻影なのだ。 

魂など、存在するはずはない。冗談もいい加減に

してくれ!”

 

と 頭に血が昇ったようになって、”切れた”ように叫んだ。


一方、霊は飯田氏に 自分の置かれている状況を 

どのように話したのか? 

 

まとめてみると:

真っ暗闇の中で、自分が犯してしまった罪をひたすらに

反省している。

 

② そこは、非常に寂しいところだが、‘愛に満ちている’

 

③  愛’という言葉が不適切なら、‘感謝の念’と‘確信’がある。

絶望のなどん底にいても、‘確かなる希望’をあたえてくれる

‘何か’が存在し それを‘愛’と感じる

 

④ 真っ暗闇の中に 贖罪のために、身を落として

(両親を悲しませるという最大の罪の一つを犯したこと

を言う)

猛反省して、‘自分は誰かに愛されている’という確信が

できた

 

⑤ 誰から?愛されているかといえば、‘すべて’に愛され

ている、

自分自身を含んだあらゆる存在が自分を愛してくれている

 

⑥    このことは、そちら(肉体の世界)で生きている間は

理解できなかった。


体を離れてから、ようやく、‘すべて’を理解できた・・・、

まるで、ただ、忘れてしまっていたことを思い出した’ように。(以上)

 

私(たち)は”霊魂とか魂は‘ある’、意識は‘生きとおしである’、

’‘すでに アートマでは、すべて悟っているが、この世で忘れ

ているだけ’、


存在するものは、すべて有機的につながっていて、しかも、

愛で繋がっている’とか・・そうしたことを、頭では理解

しているような気になっている。

 

しかし、こうして、飯田氏のやり取りの中に表現されると、

罪深いとされた、自殺霊でさえ、”自分はすべてから愛されて

いる”という実感を抱くほど 、一元の世界(時間・空間を

超越して、物質の無い世界)では愛に満たされているの

かもしれない。

 

’その愛を分け隔てなく与える存在’を人は‘神’と呼ぶの

かもしれない。

だとすれば、‘神’とは文字であらわした観念や象形ではない。

 

実際に いつも微笑み、すべてを包み込むような優しさで

誰をも抱きとる愛に満ちたエネルギーを発している、

振動として表現される、空気のようなものなのかもしれない。 

 

空気と違う所は、その‘優しさ’には 意思と想念があると

いうこと。


だから、気ままに、ある時は現れ、ある時は消えるような

自然現象的なものではない。

 

自殺霊が語る言葉、’自分が肉体を持っていて生きていた時は

忘れていた感覚’というのは、だから、あの世もこの世も

同様に、そうした愛で包まれた世界であることを、今、

思い出すことによって、感じ取ることが可能だという

ことかもしれない。

 

実相の世界、実存の世界と、夢のような儚い現実の

この世の世界と、重なり合っているのだろう。


この自殺霊が、肉体を失って思い出した、本来の愛

に包まれている自分を、この瞬間の今に、わたし達も

自覚することはできるし、それができれば、

至福を味わうことができるだろう。

 

結局、今の今、自分の意識をどちらの方向に向けるか?

それが 至福に通じる、幸せの境地を味わえるか否かの、

カギのような気もする。

 

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唯脳論者と不可思議体験

2017年09月18日 | 健全生活のために”死”の常識を反転

唯脳論者の方へのメッセージ

******************************2017.9.18

 グリーティング カード, Gnome, 花, 庭

貴方は唯脳論者ですか?


唯脳論者というのは・・・

すべての自分が認識するものは、脳内の化学的反応である~

 

だから、文化や伝統、社会制度はもちろん、言語、意識、

心など人のあらゆる営みは脳という器官の構造に対応

しているという考え方。”

とウイキペディアには簡単な説明がある。

 

なぜ、このような質問をしたのかというと、これまで木内氏の

臨死体験の記事を二つ続けて投稿させていただいているからだ。


唯脳論者の方の反応は、たぶん、

“だから、何?

すべてここに書かれている事は、体験というより、

木内氏の頭で作り出したことではない?”

というものだろう。


自然治癒力の発動のために、いろいろなアプローチ

からお話させていただいているが、霊 とか、

不思議な現象 という話題に関しては

 

唯脳論の方は、

“脳の仕業(しわざ)”と結論付けすることから、創作物語か 

幻影のようなもので、あり得るわけがない”と否定観で見る。 


前置きはこのくらいにして、本題に入りたい。 

今日 ご紹介するのは、ベストセラー “生きがい論”シリーズ 

生み出した 飯田史彦氏の、体験記である。

 

当時、飯田氏は唯脳論者だった。


死後の世界とか幽霊とかいう話は、毛頭受け付けるはずも

なかった。

それが、なぜ、次のような、‘魂を救う3つの仮説’をたてる

学者になったのか? 

 

簡単にその仮説をご紹介すると、


①   人間はトランスパーソナルな(物質としての自分を

超えた精神的な)存在であり、その意味で、人間の生命

は永遠である。(死後生仮説)

 

②   人間の本質は、肉体に宿っている(につながっている)

意識体  (sprit, soul)であり、修行の場(学校)で

ある物質世界を訪れては、生と死を繰り返しながら、

成長している。(生まれ変わり仮説)

 

③   人生とは、死 病気 人間関係などの様々な試練

や経験を通じて学び、成長するための学校(修行の機会)

であり、自分自身で計画した、問題集である。

 

したがって、人生で直面するすべての事象には,

意味や価値があり、すべての体験は予定通りに順調な

学びの課程なのである。(ライフレッスン仮説)

 

唯脳論者だった飯田氏がどのようなきっかけで、

スピリチュアル的仮説を、世の中に発表するまでの

変化を遂げたのだろう?

 

それは、大学生時代のある体験が根底にあった。

ある日、突然、不可思議な体験に直面した。 

 

イメージとしては、心に’情報の入った箱’が届き、

それを開けると、声やヴィジョンとして、鮮明に

飯田氏の心に 翻訳され、時には映像として、

映ったという。

 

一番最初の体験は、ある男性の姿なき声 “あのう・・”

という心でキャッチした声から始まった。それを人は

幽霊の声と呼ぶのだろう。 

 

話しているうちに、その男の人は自殺霊だという

ことがわかったからである。

 

飯田氏は本の中でこう述べている(*1)

 

“私はがちがちの唯脳論者でしたから、当然ながら、

幽霊の存在など全く信じていませんでした。

すべての不思議な現象は脳の仕業にすぎないと、

思い込んでいたのす。”

 

幻想、幻覚は、脳の支障と考えた飯田氏は近くの医院に行き、

診察してもらう。

しかし、検査後、医者は、”何も悪いことはないから、

心身症ではないか“という。 

 

体験した幻覚・幻聴をいくら説明しても、わかって

もらえそうな医師はおらず、大きな病院で検査を受ける

ことを勧められた。

 

しかし、飯田氏は、大きな病院に行けば、

精神病を宣告される“か

”脳の手術を勧められるか“

の、どちらかと判断し、


”貧乏学生でしたから、これ以上の騒ぎになって、高額の

医療費がかかってしまうのが一番怖かったのです“ 

という理由で、不思議な現象には不可解さを残しながら

そのままでいた。

 

先の話に戻ると、その自殺霊が語り掛けてきた時、飯田氏は

自問自答しながら 分析する。

その声の主は、中性的、個性を感じられながら、気味の

悪い感じはなかった。

 

①   自分の脳が生み出す幻覚ならば、どうして、

自分の脳がそれまで抱いていたはずの、(霊は)暗くて、

気持ちの悪い、怖い物 というイメージをヴィジョン化

した幽霊ではないのか

 

②   その霊の語る言葉や行動は、“独自の意思を持ちながら、

言動している”ということ。 

だから、“実感としては、私(飯田氏)とは全く別の存在だ”

という感覚があった”こと。

 

③   その霊の語り口は、普段 飯田氏が使っているものとは

違った言葉使いをした。

例えば、“自分は”というような一人称は、使ったことのない

飯田氏は,本当に この会話は、自分の脳が作り出している

のかと疑問を持ったという。

 

ついに、飯田氏の信念を変えてしまうような極め付きの

出来事は以下の状況で起こった。 

 

その霊は、自分の残してきた親に、飯田氏を通して

メッセージを伝えてほしいと懇願した。 


そこで、その自殺霊は、’情報の箱’を次々に、飯田氏の心に

送ってきた。

とにかく、必死に、飯田氏を親に会わせようと努力したのだ。

霊は、実家の地図のヴィジョンを飯田氏の心に浮かばせた。

こうして、飯田氏を誘導していった。

 

ついに、飯田氏も、その気になった。

霊の言葉を半信半疑ながら、信じ始めたのだ。


そこで、霊が導くまま、飯田氏の心のヴィジョンに出てきた

通りの家の前に 飯田氏がたどり着いた。

飯田氏は当時を振り返って言う:


“私は恐れていることが、現実になって、身震いして

しまいました。 

もう驚くというレベルの問題ではなく、ただただ‘畏怖’

の念を感じたこと覚えています。

 

なぜなら、それは、まさに私がそれまで抱いていた

‘唯脳論’がガラガラと崩れて、まったく異なる

宇宙観・人間観・人生観が表れた瞬間だったからです。

 

私は恐れていました。 

彼が示す地図の通りに進んで、彼が見せるビジョン

通りの家が表れてしまうことを・・

 

なぜなら、それらは、私が全く知らない情報であり、

もしも、彼が私の脳の別人格だとすれば、‘(自分の脳の)彼’ 

が知るはずの無い情報だったからです。”

 

とりあえず、今日のお話はここまで・・

次回に続きます。

 

 

 *1) ”生きがいの創造”Ⅱ PHP研究所 2005年

 ファンタジー, 風景, ホイール, 空, 自然, 神秘的な, おとぎ話

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