自分の感情が欲するモノを人は選び、選択の自由は保障される 2016・2・1
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前回からの続き)
生まれて、その人がその人生で得ようと目標とするものは何だろう?
どの宗教でも 正誤の判断を誤らず、正しい目標を置くようにと教える。
正誤の判断とは何だろう?
間違えれば、神に罰せられるのだろうか?
罰せられないとしても自業自得で“良からぬ結果”をもたらして不幸になるのだろうか?
怖い、いろいろなことが起きるのだから。 結婚は周囲に祝福された。
が、夫は突然暴力を振るうようになった。
子供が生まれれば、周囲が笑顔になった。が、その子供は難病に侵されていた。
子供の受験が受かり、周囲は感嘆の声を上げた。
が、その子はクラブ活動の事故で死んだ。
成功にみえた事実が逆転していつどん底の気分を味わうかもしれない。
神の喜びとか安寧の境地とか求めたいが 自分や家族がこうした窮地になったとき、神を恨み、
そうさせた社会や相手をののしりたくなる。
それが人間。 私も、あなたも、みんな、そうだ。
だから、正しい判断で不幸を防げるのなら、ぜひ、聞きたい、占い師や牧師や僧侶のもとで進言を受けたい。
そう思うのは常だ。
私も、あなたも、みんな、不安を持っている。
“所詮、考えて行動したつもりでも、運命に翻弄されているだけ”と突発的な事故に遭遇した人は考える。
これも運命とあきらめるほかないと、自分の力が及ばないところで人は考える。
選択云々といっても、そういうものだ・・・と受け身的になる。
私たちは存在している。
存在していること、生まれ死に、又生まれて、人生を生きて、又死んでいくというプロセスを繰り返しているとしたら
生き通しの生命が私たちの本質であるとしたら、今まで人生にありがちな不条理も、
もしかしたら違う角度から見ることができるもではないだろうか?
ようやく、最近、何かが見えた。
今までの私は“~すべきだ”という物差しが意識しない分だけ影響を与えていた。この物差しがあるから、
判断できると考えていたが、それは判断ではなく、裁断、つまり、ジャッジすること、にたけていた。
そして、‘すべきだ’という考えは存在しないのかもしれないとさえ感じるようになった。
たぶん、キリスト教信者が守る最古の掟、それは モーゼの十戒(じゅっかい)かもしれない。
~をするべきではない・・と10項目の掟。
盗むなかれ、姦淫するなかれ、などなど、ほぼ誰もが、それに逆らうことない常識的戒律だ。
その掟を守らなければ、家庭は崩壊かねないし、社会の規律はなくなる。
それらの掟が2千年の歳月を経た今もまだ、語り継がれ守られ続けているからには
確かに社会生活に欠くべからざる常識的規範なのだ。
一方、姦淫するなかれ~といっても、アジアの在る国は一妻多夫制度があり、姦淫の定義が曖昧だ。
日本でも過去、通い婚は通常であったし、数回情を交わしてそのまま途絶えて夫婦に至らない例は多かっただろう。
一生の間、嘘をつかない人はいるのだろうか?
嘘も方便 という諺があるほどだから、場合によっては嘘は赦されると考える人もいるのだろう。
過去の正しい規律は今、忌むべきものになっているのは珍しくない。
“わたしは人殺したくない”と 戦地に赴くことを拒むなら、直ちに家族ともども処罰を与えられた時代があった。
結局正しい、正しくない~というのは、その国によって、時代文化に、時には政治家の
エゴイスティックな野望の理由によって、正当化されるのが常ではないのだろうか?
だから、“~すべきだ”という個人的レベルの物差しは、言わずもがな、その人の主観で決められているのだろう。
では 何をしても良いのか?
何を目標に置いても良いのか?
遠回りと苦い汁を吸うことを覚悟なら、それもありではないかと近年ふと思う。
苦い汁を吸わなければ、おいしい甘い汁もわからない。
だとしたら、その苦い体験も考えようによっては大切な体験となるわけだから。
それは子を持つ親なら、理解できるものだろう。
子供は 世間知らずゆえに、傷つきやすく、その上さらに、好奇心旺盛だから。冒険をしたがる。
かわいい子には旅をさせろ~という諺はその意味だろう。
冒険したり、難儀な機会に遭遇しながら、子供が生長していくものだということを親は知っている。
どんなときにも、きっと、うまく運ぶように“渡る世間に鬼はなし”と楽観的に子供を信頼して自由を与える。
うまく運ばなければ解決策や妥協策を講じるだろう、それが彼らの生長なのだからと不安にかられながらも、
心の片隅で知っている。
だから、
“わたし達が欲しいと思うもの”を求めれば、きっと、神(親)も納得してくれるだろう・・・
それぞれの人がそれぞれの欲するモノを求めればよいのだ。
精神的智慧、富、性欲、物欲、欲からの解放、などなど 相反するようにみえても、最後は矛盾するものは一つもないという。
なぜなら 最後に帰結するところは 、帰結したいところは、 それぞれの魂がわかっているから・・・
放蕩息子でも ‘助けて’と親の元に返ってきたとき、冷たくまた、突き放す親はいるのだろうか・・・?
親のもとに還ってくることを親は信じて、子供の長い一人旅を見つめているのだろう。
存在は 常に変化するプロセスを楽しむことともいわれる。
私たちは自分の欲するモノを得て、それを楽しめばよいのだ。
規律で‘それは悪いものだから、求めるのは良くない’と忠告しても、
心が向いている限り、無駄だろう。
欲しいものも、もう飽き飽きするほど、楽しめば、空しさに変わるのも体感するだろう。
そしたら“これなら空しくならないだろう”と思える何かを追求すればいいのだろう。
そんなことを 一通り、悪いと言われる事を自分なりに通過して
感じる昨今だ。
とりあえず、今日は、これまで・・・