自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

自分の必要なものはすでに自分のものとなる(なっている)~という自信

2019年11月11日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

 

祈り と 現実                   2019年11月11日

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前置き)

次には、村上博士の遺伝子とspirituality の続編を投稿する予定

でしたが、ちょっと、ここでまた、つまずきたくなりました。

先ほど、次の言葉に出会ったからです。  

少し、それについて一考いたしました。

また、”追記”を、今日、つまり、この記事投稿の翌日、

11月12日朝に後半に付け加えました。

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 ”故に、心配、不安、不信を以てではなく、自分の必要なものは、

すでに自分のものとなっていると知り歓び、晴れ晴れとした

感謝の心を以て 己自らの魂深く沈着することです。”

 

自分の必要なものは、すでに自分のものとなっていると”・・・・・・・・・・

このフレーズを読んで、心の目が覚めた。 

私の心の陰に潜む “満たされない” 空虚な感情に蓋をしてくれた。

“あたりまえのこと”の繰り返しが毎日のルーティーン。  

次第に、感動が薄れ、惰性が生まれがち。

惰性が霧のように、毎日の日課の中に漂い始めると、“今” 

が“ぼーっとかすむ”ような、うつろな感覚になってくる。

 

ところで、一人で時間を過ごすことが得意な人と、

そうでない人がいるようだ。

一人でいても、何かすることを次々と見つけられる人は、

退屈がない。 

次々と見つけられるためには、生き生きとしているだけの

エネルギーと好奇心が必要だ。

 

生き生きさが次第に薄れて、それも、“当たり前のこと”に

なってきたら、このフレーズを想いだせばよいと思った。

“自分に必要なものは、すでに自分のものになっている”~

一人で時間を過ごすことが不得意な人は、自分と向かい

合うことが苦手なのかもしれない。 

さびしがり屋さんかもしれない。 

“自分に必要なものは、すでに自分のものになっている” 

~というフレーズがそういう人たちにとって、

どう効果的か定かではないけど、少なくても、”他者”

に補ってもらうより”自分の中にすべてある”

という事実に気がつくきっかけになるかもしれない。

 

この言葉の中には、”人と比べることもない”、

”他人と自分が必要なものは違う” というニュアンスがある。

 

”あの人にはxxがあってうらやましい”~と思う必要はない。 

xxは、あの人には必要だろうが、私には本来必

要ないものかもしれない。

その代わりに、あの人が持っていない##が自分には

あるはずだから。

 

周りを見回してみよう。 

物質だけではなくて、友人や知人、知識や信仰、家族や親友、

はまっている趣味やお稽古事、そしてその先生、

よく考えてみれば、自分の周りに存在してくれていると

いうこと自体が、なんだか不思議だ。

 

“縁”があったから、とよく使っている言葉 。 

“縁” があったから その人も、この人も、彼も彼女も、

ペットも、服も食べ物も、住まいも、仕事も、

自分の世界の境界線の中に入ってきた。

“自分に必要なものは、すでに自分のものになっている” のだ。

逆に言ったらどうだろう? 

“自分のものになっているものは、自分に必要なものだ”ということ?

 

“自分のものになっている” というのは、英語でいう

ところの、That is mine のmineではなく、なんというか、

もっと、大らかに、“自分の世界を構成しているもの” 

として私は、受け止める。

自分の世界の中で、“関わり合い”を持っている、ともいえるだろう。

 

とすれば、目に見えるものだけでにあてはまるわけではないだろう。

目に見えない、“自分と関わり合いのあるもの”、今の環境や、仕事、

健康なども範疇に入るだろう。

 

いや、もっと、単純にこの言葉を味わいたい。

“自分に、必要なものはすでに自分のものになっている”、

“当たり前” であったと思っていたものが、本当は、

“与えられている” ものかもしれない。

人の巡り合いも偶然が重なって可能になる、とすれば、

“与えられた”ものといえるし、”健康で当たり前”が、 

本当は、“当たり前” と呼ぶのには、とても貴重

なものかもしれない。

 

純粋なるがゆえに若くして命を絶つ人がいれば、

老いて孤独から命を絶つ人もいる。

“自分に必要なものすでに自分のものになっている”、

と、遠目から、観察できたら、もしかしたら、

希望の片鱗がみえた、かも、しれない。

 

“命”こそ、まさに、“自分のものになっている” 

ものの中で 最大級の価値あるものだろう。

“自分のものになっている” といっても、自分で

創ったものでない以上、”お借りしているもの” 

かもしれない

そんな謙虚さとともに、かなり遠目から失望した

自分を観察すればするほど、”命”=生きること~

は飽きることなく興味がわいてくる代物かもしれない。

“自分に必要なものはすでに自分のものになっている。” 

この言葉の真意を、飲み込むことができたら、もっと、

地に足をつけた生き方と分別と満足感が得れる

ような気がしてきた。

同時に、どんな時でも、”まんざら人生悪くない” 

という希望も、湧いてきそうな気がした。

 

 

翌日に追記]ーーー 11月12日

 

朝、イヌの散歩から帰ってきたばかりです。

散歩中、昨日投稿したこの記事の内容を

思い返していました。

 

“自分に必要なものはすでに自分のものになっている。” 

という言葉。 

この言葉の背景は、”祈りの本質” についてインドの

賢者が語った言葉の一句です。

つまり、”今、自分に必要ばものは、与えられている”

と言う事実は勿論のこと、未来に与えられるであろう

ことも、ここでは予測されているのでしょう。

 

’祈り’の中で願う事柄、はすでに、必要なことなら、

もうあなたのものになってこれから現実に

顕れますよ~ということでもあります。

昨日の記事の終わり方をみると、自分に

必要なものはすでに自分のものになっている の句は、

ストイックな禁欲主義者の信条に聞こえがちですが、

そうではない。 

もし、何か欲するモノがあれば、欲しいのです~と祈ればよい。 

そして、その時、すでに与えられている~という信念で、

祈ることが大切というのが 本来の意味なのです。

私自身、その意味を味わって、今朝から、”与えられて

いるものに対する神経”を過敏にして、”恵まれている”

ことに心の目を見開いて、謙虚にでも、勇気をもって、

今日一日を過ごしていきたいと思いました。

皆様にとっても、善き日でありますように。

 

スダ

 

 

 

コメント
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