”家庭も職場も自分を必要としない。
生きていてもしかたない。
死んでしまおう。
もう、寂しくて、生きていけないから”・・・ドラマのセリフです。
でも、この言葉は、多くの人が見せない本音に、響くような気も
しました。
多かれ少なかれ、こうした寂しさは、誰でも味わったことがあるような
気がするのです。
自分が必要とされている感覚・・・それは”愛されている”という実感です。
”人のお役にたてている”という充実感です。
そのために、多少 無理してでも相手の期待に沿って、喜んでもらいたい、
・・そして、私を必要としてくれているという感覚を大事にしたい・・
これは、どんな場所にいても、自然な感情だと思います。
ところが、これまでの条件が崩されて、今までとは異なった条件が余儀なく
されたとき、それが満たされなくなるというリスクは、いつもあります。
経済状況の変化、健康の乱れや、特に、精神の変化、などで、これまでの
友人知人たちは、自分から離れていくかもしれません。
退職や離婚がその契機になるかもしれません。
価値観の違いが、腹を割って話せなくなる理由になるかもしれません。
まして、年を一年ずつ経ていくとき、壮年期までなら、こうした変化を機に
新しい人間関係の輪を、作り直すことが可能でも、退職後や、年金暮らし
になったとき、冒頭のような寂しいという感慨に、陥ることが無いと
誰がいえるでしょう・・・
その時、どうするのか?と私自身も自問自答します。
そして、そういう質問をされて、虚無感に浸っている友に、どのような言葉
がけができるのだろう?と考えます。
答えは意外と、シンプルでした。
答えは、”他人や、外の世界に必要とされなくても、いいのではない?”でした。
必要とされる、のは、その人に、価値があるからです。
その価値が必要とされているのです。
誰に?が問題です。
環境に・・職場で・・家庭で・・学校で・・というのが、ほとんどの人の
答えです。
誰も、”自分に”と答えません。
でも、自分が自分を必要としている限り、自分は必要とされない、という事態に
陥ることはないとしたら、自分が自分を必要としたらよいのだという、答えが
出てきました。
そして、それは、本当のことだからです。
そこで・・・話の視点を少し変えますね。
今日のタイトル、①”human being” と ②”human doing”の二つの言葉の
違いはどこにあるでしょう?
この二つは、人間という英語 human being のbeingを、doingという動詞に
換えてみただけの違いです。
”現代では、humanbeingは human doingになってしまっている。
何か成果を出して、認めてもらい、価値ある人間になるために、doing、
つまり、’何かをし続ける(doing) 。
その人らしく、そのままでいても(being)、十分、幸せのはずなのだけど。”
という人がいました。
何か成果を出して、周囲に認めてもらう。
周囲、学校、職場、家庭、などなど、すべて、自分の外の世界が対象です。
なぜなら、成果が自分の価値を高め、認めてもらえる・・・
これが”human doing”の信条です。
反対に、誰も認めてもらえず、誰も正当な評価をくれなくても、自分は
こういう(状態)自分であるから満足であると、自分自身の評価で、自分を計れる
人を、human being と”being"に強調を置くわけです。
human doing の人たちと違う、一番の大きなところは、自分の外の世界に向かって
何かの評価を見せつける必要性が無い、ということです。
あくまでも、内なる自分の世界の中で、自分が納得でき、満足でき、充実を味わう
ことが一番の、評価基準ですから、その物差しも、一人ひとり違います。
だから、human being は、価値観は自分の考えで創り出し、信条とするので、
他者と比較したり、評価されたりという、外の環境からの声を脅威に感じたり
人の観方と異なることに、恐怖を感じることもありません。
そして、一人でいることが、寂しい事ではありません。
十分、一人でも、することが見つかり、自分の内面と対話して、退屈することも
ないからです。
①と②の人間タイプ、それぞれ誇張して書いたようですが、誰でも、①か②、の
両面を持っていると思います。
バランスが大切なのでしょうけど、私は、できれば、これまで②の方法で生きる
ことがあまり、できなかったので、残る人生は、自分の幸せ感(充足感)を
自分の物差しでとりながら、他者のそれを、尊重して、生きていきたいと思う
今日この頃です。