自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

大我と自然治癒、肉体と小我

2014年05月17日 | 自然治癒力セラピー協会のセラピー

 真の癒し一考    2014.5.17

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本来、癒されるということは

自分自身の中にある安寧で平和な心の領域に

帰ることをいうのでしょう。

その領域をアートマと呼ぶのなら、アートマセラピーは、

自分自身のアートマに復帰するための自然に還るセラピー

といえそうです。

 

もし、アートマを今ここに、復元できたら何が

おきるでしょう。

まず、願望 が叶い始めます。

それは 偶然の一致を装って訪れるでしょう。

偶然は何で起きるのでしょう?

それは”意思や願望”が 波動で”生きている”からです。 

波動 が同じ波動を呼ぶのです。  

 

私たちが今住んでいる世界は ”二元の価値観 ”

を持っている世界です。 

当たり前のように、この二つの対比される価値観

を私たちは日ごろ何気なく使って物事を判断して

います。

”良い・悪い” とか、”美しい・醜い” とか

”好き・嫌い”といった、対立した価値観 が私たちの周りに

あふれています。

もちろん、”幸せと不幸”というのもその例にもれません。

二つの価値観には絶対性がないから、今日 美しく

見えていたものでもしばらくすると、醜く見えたり、

その反対もあるわけです。

だから、”今日は、幸せ” と喜んでいても、明日は 

”不幸” が来るかもしれない。

人は”この幸せ”が永遠に続くとは限らないことを知っています。

それだからこそ、いつまでも変わらない幸せを

求めるのでしょう。

 

いつまでも変わらない、ほんとうの幸せ?

それはいったいあるのでしょうか?

あります。

どこに?

本当の自分自身の中に。

 

本当の自分の姿を知るということは

それは 悟りを開く という言葉が使われているようです。

ただし、頭で考え、理屈を述べたり、評論家や学者の

ように、理論で、”悟り”を説明できることと、 

自分自身を知り、

その中に至福を感じて充たされる境地に入ることとは

雲泥の違いがあるでしょう。

後者の人こそ、悟りを開いた人といえるのでしょう。

 

そのために、何か特別な修行をしなければならないと

一般には考えられています。

修行をする時間がないから、神社仏閣などのパワースポット

と呼ばれているところに行く人もいます。

滝に打たれたり、火のついた薪の上を歩く本格的な修行を

する人達もいます。

断食して瞑想三昧の境地に浸ることもその手段の一つと

言われています。

ところか、そういうことと”悟り”とは、あまり、関係の

ないことだと思うのです。

なぜなら、自分自身の本質はもう、自分の中にありますし、

その”本質”=アートマ も、早く、気がついてくれるの

を待っているだけなのですから。

 

深い意識の中で眠っている自分自身を呼び出せばよいだけ。

愛と呼べるその自分の本質の糸口をひっぱって、引き出すだけ。

手始めに何をどうしたらよいのでしょうか? 

 

それを考えるのが自然治癒力セラピー協会の目的であり、

人それぞれ、人生が異なるのですから、いろいろな手段が

あって当然でしょう。

 

自然治癒力セラピー協会と名前を付けたのは、

自然治癒力を開発することで、このほんとうの

自分に気が付くことができると考えているからです。

自然治癒力 というのは、アートマ(真の自己・実相)の波動が

心身を揺るがしたとき、”自然に”あるいは、

”自発的(スポンテニアス)に” 発動します。

 

持病が軽くなった、

難病が治った、

肩こりがいつの間にか消えていた、

気分が爽快で人にやさしくなってきた、

イライラ感がいつの間にかなくなった、

家族が円満になった

などなど、こうした癒しの効果が、出てくるとしたらそれは、

自然治癒力の発動とともに、その治癒力の根源のエネルギー

がアートマから流れて体と心に循環しているのに

相違ないのです。

 

 

幸せを求める私たちは、反対に不幸や苦労を味わいたくない。

ところが、神様は平等ですから、誰にでもそれ相応の

人生の難関や苦難があるというものです。

ですが、或る人にとっては、波乗りのように、得意なスポーツか

ゲームのように、楽しみながら乗り越えてしまう。

一方、その波に押しつぶされそうになって、人生の海におぼれて

しまいそうに、もがいている人もいるのです。

この違いは、どこから来るのでしょう?

 

それは、自分への評価です。

自分を弱い人間だ、意気地のない何をしても失敗ばかり、

誰も自分を愛していない、人は自分の失敗すら気にも

留めないだろうし、

自分の失敗を嘲笑っている人もいるに違いないなどと、

考えている人には、なかなかサーフインゲームのような 

楽しく”挑戦”するゆとりはないでしょう。

反対に、自分の本質が、”神性~アートマ”であり、

どんなことでも、

小さな自分がするのではなく必ず、自分を生かしてくれる

大生命の力が自分に応援していてくれる~と

知っている人は、なかなか、へこたれないものです。

 

だから 覚者はこうした困難に遭遇したときの人

それぞれの反応の違いの根本は、

”一過性の 実在しないもの”への ”恐れ”に対する

強弱の違いだと言うのです。

自分自身を信じていれば、恐れは少なく、信じられない分だけ

恐れが強まるというのです。

 

 

ちょっとした出来事に対しても、

恐れと不安が押し寄せて しまうと、人はパニック

になりやすい。

 

”アートマ” という自分の”実相”に気づけば、

必ず、どんなことでも乗り越えられるという

自信を失うことはない。

アートマは神性、それは、小さな体の中の自分ではなく、

宇宙を貫く大生命の力が自分に流れている、と

信じるからです。

だから、 

”私は誰ですか? 私の体は 誰のものですか?” と 

折に触れて、内面の自分に問いかけることが、大切だと

思うのです。

 

立ち向かうべき困難も 頂上を制覇するために、

乗り越えなければならない峠(とうげ)くらいの

気持ちで客観的に見つめることができるでしょう。

 

ハクション!とくしゃみをすると人は

”あら、風邪ひいたかな” と 反射的に感じる。

感じるというより、一種の恐れが伴う。

そんなとき、日頃から、

私は、風邪をひいて、寝込んでしまうような存在ではない。

ガンに侵されて ひしがれるような生命ではない。~と

体に言い聞かせていれば、

”自分の生命力が今、くしゃみをして、肺や気管支のつまりを

吹き飛ばしてくれたのだ”~と感じることも自然と

できるでしょう。

 

筆者も”癌”だと、言われました。

そして、病室の外で、(筆者の背後で)医師が夫に

余命の宣告したことがあるようです。

(私は直接医者から聞いていません)

 

当時、”腫瘍”があるということで、摘出したばかり

でした。

私は自分自身にこう言い聞かせ続けました。

”あなたは 癌に侵されているその肉体そのものですか?”

”熱でだるさに耐えられないと感じているのは体ですか?”

肉体が私?

そんなわけがない。

二つの価値観で揺れ動く心 がわたし?

それも違う。

私なんか、あるようでないのです。

だって、髪の毛一本自分で作ったのではないのだから。

としたらこれは借り物の肉体。

つまり、私と意識する”私”はどこか別な存在なのだ、

腫瘍でもなんでも、悪いものをもう切り取ったのだから、

私の体は円満完全の神性の心の反映を映し出す

波動体として今、再起するほかない・・・・

 

自分の体、と言う言葉を、普段 私たちは使います。

体を、自分のものだと思う 理由 も考えてみると

もっとわかりやすいかもしれません。

 

肉体を構成している材料は、もともと、宇宙に存在する

物質なのに、それらは本来、ほんとうに、 自分の物 だと、

いえるのか?ということです。

私たちは この体を 自分の意思で創り上げたのでしょうか?

母親の胎内で自分が設計して 自分がその材料を調達して、

創作したものでない以上、やはり、この体も借り物だという

ことなのでしょう。

だとすれば、体が自分であるというのはどこか違うような

気がします。

人生ハイウェイを走るレンタカーがこの身体なら、

その操縦者こそが自分であるからです。

ですから、

その”自分”が何者かというのを、問い続ける~これが悟りの

一歩だと覚者は教えています。

 

 

 

 

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