自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

マッカーサー元帥を感動させた 昭和天皇

2023年05月10日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

万国共通の真理(1)”中心帰一”

2023年5月10日

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私自身そして、自然治癒力セラピ協会は、特定の

宗教心髄するものではありません。


ホツマツタヱを、天皇信仰と結び付ける考え方に

否定はしませんが、大切なことは、そこに書かれてる、

”真理”ではないかと思います。


ホツマツタヱには、太古地球の生成から、

国造りの話、そして、天照大神の御世に確立された"

天(あま)なる道”が 主に前半に描かれています。


そこには、”天皇は私利私欲を離れて、国民のために祈り、

(みそぎ)をして、国の安泰と弥栄を実現していくべし”


たびたび、大神(天照大神)の言葉として、

記述されています。


一方では、興味深いことに、天皇一般の民との、

違いは、双方とも”神の子”であるという考え方

よって差別をつけられるものではないことも

明らかにしてます。


ホツマツタヱの中の、”神は人なり、人は神なり”

という言葉よって、それは、知りえます。


つまり、天皇も神なら、人の子である以上、

誰もが、神と同格であるとも、ホツマツタヱには

述べられ、天皇と民との間に”人間価値”

として差別はありませんでした。


ただ、人体の部位にその働きの差があるように、

社会で、各々の務めの違いはありました。


差別ではなく、区別といえるでしょう。

その区別は、農民、商人、物づくりのヒト、

武士(もののふ)と明瞭化され、年代が経るにつれて、

次第にその違いは、身分格差として現れて来るよう

になりました。


が、天照大神の時世(実際、政を行われた年数は

何十万年という記載があり、これには諸解釈があります)

民は、天皇に忠誠を誓い、天皇は、無私公平な政

を司る頂点にたつ責任者として、民を守る義務を

自覚していました。


天照大神を中心として、宮中に仕える臣たちも、

民衆たち一つにしていたのです。

それは”中心帰一”と呼ばれる真理にも

照合しています。

万物には、中心があり、その中心がその役割を

果たしてこそ、また、周囲もその中心を軸として

一丸になって動くとき、和合と順調な結果を

もたらすという法則です。


至近の例では、船の運航にもたとえられるでしょう。

船のかじ取りをする船長は一人で充分です。

何人も、船長がいては指令が統一できず、かえって、

安全が損なわれます。


副船長や操縦士、技術者たちは、船長を信頼し、

その決断に随い、各自が仕事分担の責任を

果たしてこそ快適な船旅ができるです。

船長を中心として、安全航海を進めるというのも、

”中心帰一”のルールが潤滑に働いているからと

言えるでしょう。


これは、人間社会や組織だけでなく、

あらゆる分野に、当てはまるようです。


文化勲章を受けた医学博士の二木博士は、

医学的見地から、この法則を、”求心的帰一”

呼び、次のように語っています。

 

“われら日本式は、求心的帰一的研究である。

どういうことかといえば、個々の現象を

一つの中心にまとめしまう方法である。


医学で言うのなら、その中心というのは、

生命である。

生命には 空気も 日光も 水も 草も 

木も必要である。


そして、空気も日光も水も草も木も 

すべて生命に帰一するのである。” 

(引用終わり)

生きとし生けるものは、生命力に帰一します。


それでは、自然界を国体に変えたとき、何に、

帰一するのか?


ホツマツタヱでは、”無視無欲で国を治める指導者”

に帰一するとしてます。

それが、天皇(天照大神)でした。


大神(天照大神)ご自身も、国が乱れれば、

自分に非がありと、自ら禊(みそぎ)をして、

身を清め続け、その間に、策を講じ、臣たちに

指示を与え、国を安泰に保っていたのでした。


民を子とする、大神の民に対する、親心に

匹敵する、御心を知っている民衆は、大神を深く慕い、

信頼して、天照大神他の地に移り住もうと旅立てば、

寄って囲んで、留まるように懇願したことも

記述されています。


現代の政治家のように、”私に一票ください”と、

選挙でひたすら、魂願して、頭を下げ、

当選すれば、自ら”万歳”と、手を揚げる光景とは、

まったく逆さのことです。


天照大神が自分の住む地にとどまり、政を

治めてくださるーーと万歳三唱するのは、民たち

なのです。


さて、古より、天皇は禊を日課とされていました。

身を清めて祈る・・・それが、大切なお役目

でもありました。


現代でも、天皇の大切なお仕事の一つに”ご祈祷”

があります。

我々庶民には、そのことはニュースで報道される

ことはないので 知る由もありません。


天皇の無私無欲で、国と民を護るという古代

から続いている、”この天(あま)成る道”の

精神は、現代でも、繫がれていること

が、次のマッカーサー元帥の手記から 

伺えるのでご紹介します

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天皇の話はこうだった。

『私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が

政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動

に対して、責任を負うべき唯一人の者です。


あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を

委ねるためここに来ました』


大きな感動が私をゆさぶった。

死をともなう責任、それも私の知る限り、

明らかに天皇に帰すべきでない責任を、

進んで引き受けようとする態度に

私は激しい感動をおぼえた。


私は、すぐ前にいる天皇が、一人の人間

としても日本で最高の紳士であると思った」

(『マッカーサー回顧録』1963年)


GHQが戦後、天皇制の廃止を試みようとした

そうですが、それを実行しなかったのは、

次の事情があったようです。


皇室と国民の関係の絆が強いこと、そして、

マッカーサー元帥に、昭和天皇が会見したときの、

上にあげた会見中、

”わが身はどうなっても良いから日本国民を助けたい”

という篤い天皇の国民への想いと私欲のない

言葉に、元帥が、心を打たれたため、ということを

聞いております。

 

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縄文より以前、日本の超古代に栄えた文明

2023年05月07日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

2023年5月8日

(イザナミイザナギ尊が、この滋賀

の土地で琵琶湖の周辺の葦を引き抜き、

土地を耕し、農耕を広め、国造りの

基礎をされたーーホツマツタヱ)

 

先日のブログ冒頭にも書いたのですが、10年程前、目の前に、

聖徳太子とおぼしき魂態が、顕れました。

その様子をたまたま、ウィットネスとして証人してくれた人が、

います。

なぜか、聖徳太子とおぼしき方は、頭を垂れて、詫びを入れて

いる風情でもありました。

そのとき、私は、古事記と、秀真伝えの、”位置替え”が、

聖徳太子の時代に、聖徳太子の政の一環として行われたこと

を理解しました

 

”位置替え”とは、’秀真伝え’に書かれている内容を隠蔽する

ことで、正当な天皇家系図や、超古代から続いていた日本の

伝統祭り、行事などの風儀書が、一般に閉ざされたという

こと、


そして、その代わりに異国文化の血を引いた帰化人

である、曽我氏の文筆書によって、古事記が編纂され、

それをもって、それ以来、正式な日本の神話書になりました。


曽我氏の書いた文筆書というのは、一つは、天皇系譜に

関してまとめられた、”帝皇日継


もう一冊は、古(いにしえ)からの伝承をまとめたことに

なっている、先代旧辞”です。

 

天皇系譜に関しては、ホツマツタヱと重なる部分もありますが

全体としては、天照大神が女神になり、そのご家族も

したがって、ホツマツタヱとは異なった解釈になっています。


天皇系譜もさることながら、ホツマツタヱでは、五大元素に

よって、天地が形成された様子に始まり、地球随所へ、神々

(クニトコタチノミコト)が降臨して各地で古代文明が発祥

したこと、日本に目を転じては、日本の男神女神の起源、

子孫にあたる、イザナギイザナミ尊の、国造りから、

世継ぎ御子を望みそのための祈祷の方法。


天照大神の誕生の様子や、長きにわたる大神の時代

の世の中の反乱や鎮圧、など、細かに描かれています。

大神亡き後の代々の天皇系図が綿密な年代表示とともに、

示されいるのが特徴です。


先代旧辞に関しては、内容は精査してませんが、

ホツマツタヱでは、日本古代から現代にも継承されて

いるお祭りや風儀などが書かれています。


普段、私たちが、何気なく使っている”言葉”にも、

ホツマツタヱにはその語源が出てきます。

たとえば、”酒”、”雛”まつり、”三々九度”の源流、

”和歌の枕ことば”の由来、”七草かゆ”の背景など、数々

の日本に残る地名の由来など、です


また、縄文文化以前に日本に存在していた高度な科学を感じ

させる記述もあります。

たとえば、胎内の赤子の成長の詳細、天文学の星座の巡り

具合による、一か月の日数の定め方や、五臓六腑の病気

と原因となる精神性(現代の心療内科にあたる)

関連、子供の教育方法や東西南北という言葉

の語源から、判断された”家相”なども、扱っています。


さらに、国家のありかた、特に、皇尊(すめらみこと)

の民衆に対する’民衆に寄り添うまつりごと’の大切さが、

天照大神の勅令として多くの綾【章】にエピソードの

中に、盛り込まれています。


”民を我が子を慈しむように、和をもって、治める道”、

それが”天なる道[天成神道]"として ホツマツタヱ

の中では、確立されています。


農耕技術や干支(えと)の起源や、(バラモン教から

仏教、密教と伝わってきたと言われている)諸文化的

因習なども、すでにホツマツタヱには表記されています。


これらのことが、事実なら、現在の正規な学術的学問

内容は、多岐にわたって、変わってくることでしょう。

輪廻という、仏教から伝わったとされる考え方も、

すでに、ホツマツタヱでは明記されています。


縄文時代前の日本に、ホツマツタヱ示している

文明を持つ、超古代の日本が存在していたことは、

想像にかたくないのです。

 

滋賀県の田園風景、稲、クローズアップの風景【8月】 68041803

 

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小笠原礼法とホツマツタヱ

2023年05月05日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

・・・2023年5月5日

 

一方、なぜ、ここで、聖徳太子という、純粋なる、

日本の皇族の血を引いた方こうした事

(ホツマツタヱ隠蔽)を黙認されたのか・・・

それには、深い理由があるようです。


このとき、顕れた聖徳太子のメッセージは、

聖徳太子が摂政時代に、’やむを得ず’に’秀真伝え’を、

蘇我馬子がしたためた古書と、差し替えなければ

ならなかった~ことへの複雑な想いが伝わって

きました。


太子の声なき返答はこうでした。

”大和(やまと)を守るため”。 


当時の富国強兵対策の鏡となる大国は、日本の

対馬海峡を隔てたすぐ傍の、大陸にありました。


それらの国々と、どこかで、妥協しながら、

共存する道を選ばなければ、きっと、日本は、

大陸から、植民地的な属国として、攻められ、属国に

成り下がる可能性ももしかしたら、あったの

かもしれません。


聖徳太子は、帰化人である、蘇我氏を政治の

執務者として容認し、共に働きながら、その動向

をうかがい、日本を守るという極めて、戦略的な

立ち位置をバランスをとりながら、保持して

いたのだろうと推測しました。

 

こうして、現代、さまざまな角度で多くの研究者

が、”秀真伝え”を研究できる時代になりました。

それまで、秀真伝えは、前にも述べたように、

密に、隠されて守られ続けてきました。


たとえば、徳川家の血をひく、四国小笠原家

蔵に、あるいは、滋賀県の琵琶湖湖畔の

田中神社という、小さな神社の奥宮で・・・

 

小笠原家は、’小笠原流礼法’として 日本伝来

作法流儀を現代人にも伝え続けています。


こうして、’秀真伝え’を守り続けながら日本精神

の奥深さを忍ばせる所作を世の中に知らしめて

きた背景には、小笠原家の御蔵に大切に保存

されていた、ホツマツタヱの存在が影響を

与えていたかもしれません


一つ一つの、伝統作法の裏に、我々、日本人の

心を軸に、ご先祖様たちが守り通してきた

”謙虚”さと、”相手へ尊敬心”と、”ものの大切さ”

を示し合わせた古代日本精神が、脈々と

息づいていることを、とても、尊く

感じます

 

後添え)

Wikpediaによると、小笠原流礼法(総領家系)

とは昭和期に、小笠原総領家(旧小倉藩主家)

第32代の小笠原忠統は、『小笠原流礼法伝書』

(東洋文庫)等を出版し、家伝の古文書や

教えをもとに一般へ向けて礼法の普及に努めた。

忠統は、糾法・弓馬礼の内、一般生活に関わる

「礼」に特化し教授した。

武家故実の中核である弓馬術の教授・実践は

していないが、忠統の流れを

汲み弓馬術を実践している。


「小笠原流 流鏑馬」(宗家 源長統)という組織もある

現在は、三十一世宗家 ・小笠原 清忠氏が弓馬術礼法他、

「時、所、相手」に応じた正しい生活態度として

現れる礼法や、礼法の歴史を、多数の著書の中で

伝書をもとに、詳述している。

 

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聖徳太子の葛藤(3)

2023年05月03日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

大化の改新の必然性 2023年5月3日

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前回の続きです。

ある日、私の目前でメッセージを伝え始めた

聖徳太子は、続きを語った:


なぜ、女性天皇の擁立が必要で

あったか?・・・”

言い変えれば、それは、誰にとって、

メリットであったのか?


それは、当時の権力者、帰化人である、

蘇我一族にとっての 権力を堅固に

するための悲願であった。


私(聖徳太子)亡き後、曽我氏の権力が肥大し、

祖国への立憲を守るため

”大化の改新”が中大兄皇子中臣鎌足

よって為され、曽我氏をたおしたのも、

意味があることでした。


日本人の魂と精神を守るためにあの反乱は、

必須だったのです。

蘇我家を滅ぼし、日本古来の天皇制国体

に戻すために


が、私(聖徳太子)の時代は、仏教伝来を

奨励して、異国の精神文化を

日本人本来の精神文化に融合させることも、

国策として必要だった。


仏教を積極的に受け入れることで、

民衆の異国への関心と畏敬が進むこと

になり、近隣国との友好を保つ良い

きっかけでもあった。


それまで日本の精神的支柱は、神道一筋

だったが、精神文化を取り入れる

ことで、次第に、様相が変わってきた

のでした。”


”それでは、なぜ、そうした大陸文化

重きを置いた政策が必要だったのか?


私(聖徳太子)が仕えた、推古天皇は、

蘇我一族の純粋の血統を引き継いて

母上は、蘇我稲目の女。


当時、私とともに、政治運営の実権を

握っていた、蘇我馬子は、推古天皇の

叔父にあたる。


大陸文化に重きを置くことで、外交の重要性

を確立すること。


そのためには、蘇我氏の権力を活用する

意味がありました。

そして、曽我氏の権力が充分ふるうため

には、それまでの、天皇血筋の

純粋な系統図と日本人が古代より拠り所

にした行動基盤(風習)などを書きした

ホツマツタヱは、それを推奨するときには、

精神的支障でした


何故なら、天皇が神であり、由緒正しき血統で、

古来よりの文化を引き継いでいるという日本人

誇りは、他国への文化を受け入れるには純粋

すぎたからです。


そのために、蘇我氏の勢力拡大都合の良い、

新しい、日本古代文化史を編纂する必要が

あったのです。


こうして編纂された曽我馬子の二冊の

天皇系図と、風儀書は、古事記

として、正式な古文書として認められ

伝えられるようになりました


その本源は曽我氏とともに、摂政の座

にいた、私の決断によるところ

もあったのです。”

 

古事記編纂は、712年。

聖徳太子、蘇我馬子が活躍した時期は、

600年前後。


古事記の誕生までには、馬子が監修した

2冊の書をもとに100年の歳月が

流れていた。

(続く)

 

 

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