Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

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100年ほど前に、西インド諸島(les Antilles)であったことを考える

2006年06月22日 | ダ・ヴィンチ・コード、ここがおかしい

アヴェ・マリア!

ダ・ヴィンチ・コードと世界の反応

 


 100年ほど前に、西インド諸島(les Antilles)でおよそ次のようなことがあった。


 約100年前の或る聖金曜日に、西インド諸島の或る町で、フリーメーソンの会員が、十字架を持って冒涜し、それを近くの休火山の山頂の火口に棄てたことがあった。その当時、一人の小教区の司祭を除いて、だれもそれに抗議の声を上げなかった。


 その数ヶ週間後の早朝、誰にも夢にも思っていなかったことが起こった。その火山は突然噴火し、大量の土砂を吐き出してその町を一瞬にして埋め尽くしてしまった。その町から生きて逃れることが出来たものは、たまたまその町を離れていた用事があった人などで、数えるほどしかいなかった。西インド諸島の人たちは、この火山の噴火を聖金曜日の冒涜の天罰であったとすぐに理解した。


 ノエの方舟の時代も、ソドマとゴモラの時も同じように、例え少数でも誰かが悪に対して抗議する人がいれば、町全体は救われただろう。たとえ多くの人々が黙っていようとも、残念ながら抗議が理解されなかったとしても。



 おそらく日本の司教様たちは、お忙しくて、ダ・ヴィンチ・コードの凶悪さにお気づきにならなかったのだろう。その他のお仕事がたくさんありすぎたのだろう。だから、誰かそれに気がついた人々が、代わりに、出来る限りをして補うべきではないだろうか。


 天主の御恵みによって、その危険さに気づかされた私たちは、不幸なことが私たちの愛する祖国日本に起こらないように願って償いを捧げたい。だから私たちは、司教様たちのためにも続けてお祈りを捧げたい。



 主よ、憐れみ給え!
 イエズスの至聖なる聖心よ、我等を憐れみ給え!
 聖母の汚れ無き御心よ、我等のために祈り給え!

 



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■どなたからか次のような書き込みをいただいた。


> 罪!悪!冒涜!などとヒステリックになじったり、不買やら上映反対などといった動きがあり、また、信者のそういった言動を教会幹部がセーブするどころか逆に煽り立てるという...。
> そういうのを見聞きするにつけ、非カトリック・非キリストで良かったなと思うのが、日本人の多数意見だと思います。



▲コメント▲


 「日本人の多数意見」・・・、また出たか。



 今の流行がミニスカートで、平気で下着を見せるのが普通なのに、もしもキリスト教信者が「それは慎みがない」といってそうしないとすると、「日本人の多数意見」がおかしく思うから、みんなと同じことをするべきだ。



 みんなが下品な冗談を言って笑っているのに、自分だけカトリックだからといって笑わないのは、「日本人の多数意見」がおかしく思うから、みんなと同じように下品な冗談をするべきだ。



 みんな子供は少ないのに、たくさん子供に恵まれると、「日本人の多数意見」に、だからカトリックは、とおかしく思われるから、みんなと同じことをするべきだ。



 他の日本人がみんなこうしているから、みんなやっているから、みんな読んでいるから、そうしないと、「日本人の多数意見」におかしく思われる、「だからカトリックは、ああなんだ」と変に思われるから、みんなと同じことをするべきだ。・・・ そう言いながら、日本のカトリックは、カトリックであることを止めてしまうのではないか。塩が塩の味を失うのではないか。光を升に隠してしまうのではないか。


 「日本人の多数意見」・・・、もうたくさんだ。
 私たちは、「みんなの多数意見」ではなく、良いことは何か、真理は何か、を考えてすべきではないだろうか。

 


 更に、良く考えてみよう。

 例えば自分の母親について、悪意を持って、讒言し名誉を毀損し、不倫や不誠実と欺瞞を並べ立てる小説を書き映画を作ったとする。それについて母親の真理を知っている子供が抗議も何もしなかったとしたら、「日本人の多数意見」は、おかしな子供だ、と思うのだろうか? それとも抗議して当然だ、と思うのだろうか?
 子供であるにもかかわらず、その讒言について、出来たにもかかわらず何も抗議しなかったら、子供は無関心・親不孝だと馬鹿にされるだろう。「寛容だ」と褒める人はいないだろう。口では褒めるかもしれないけれど。



 日本の領土であるにもかかわらず、例えば、或る外国が天然資源を発掘したり、外国政府が選挙の投票箱を設置したり、外国が領有権を主張したり、主権を侵害したりしたとしよう。そのようなことに対して、政府責任者が抗議したら、「日本人の多数意見」は、おかしな政府責任者だ、と思うのだろうか?
 日本政府の責任者が何も抗議しなかったら、日本国政府は無能・無関心だと自国民からも外国からも馬鹿にされるだろう。「寛容だ」と褒める人はどこを探してもいないだろう。利益を受ける外国の新聞の社説では賞賛されるかもしれないけれど。



 もしも例えば、誰かが今度は、ホロコーストは無かったという映画を作ったとしよう。そうしたらおそらく、多くのユダヤ人たちが抗議をして、不買やら上映反対などといった動きがあるだろう。「日本人の多数意見」は、ユダヤ人に同情するのではないだろうか?



 結局、「日本人の多数意見」とやらいうものも、マスメディアに操作されて作られているんではないだろうか?

 



> なんていうかねえ、せっかく聖書に愛とか寛容の精神が書いてあるんだから、教会も信者も実践して欲しいものですね。


 「愛」というのは、まず天主への愛、真理への愛だ。全てはそこに基づく。真理への愛があれば、ウソに対して憎むのが当然だ。


 「寛容」というのは「罪人」に対するものであって、「罪」と「誤謬」に対するものではない。


 聖書には、天主への冒涜については極めて恐ろしい天罰の話がよく載っている。




> 映画と事実は異なるということを論理立てて地道に反論すればいいのに、わざわざ悪・罪・冒涜といった言葉を使うと、不寛容で攻撃的な印象が広まってかえって逆効果ですよ。



 まず「映画と事実は異なるということを論理立てた反論」については、私たちなりに反論を準備してネット上に掲載している。

http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/b19dc2128e644a3446f0dc164642d1ff


 しかし、人間がどう思おうとも、悪・罪・冒涜は存在する。だから悪・罪・冒涜を悪・罪・冒涜と呼んでいるのだ。


 悪・罪・冒涜は、まず第一にそして主要に、天主の御稜威を傷つけ犯す。次に副次的に、社会と人間と自分自身を傷つける。


 悪・罪・冒涜は、それに対する償いを要求する。誰かが償いを支払わなければならない。何故なら、天主は、憐れみであると同時に、正義であるからだ。


 誤謬を誤謬として指摘する必要はある。しかし、悪・罪・冒涜については償う必要がある。

 



 そうしている間に、日本では悪魔崇拝やオカルトがエスカレートしているようだ。主よ、憐れみ給え!



============



 兄弟姉妹の皆様、ダ・ヴィンチ・コードの冒涜の償いのために多くの祈りをお願いいたします。日本の司教様や教会の指導者の方々のためにお祈りをお願いします。

 天主の御母聖マリアよ、我等のために祈り給え!


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ダ・ヴィンチ・コード:世界の反応:日本

2006年06月22日 | ダ・ヴィンチ・コード、ここがおかしい

アヴェ・マリア!


ダ・ヴィンチ・コード:世界の反応:日本


★日本★



■日本のカトリック司教たちはいかなる公式の宣言もせず



【以下はグリム神父様(Maryknoll Father William Grimm)のコメント「ダ・ヴィンチ・コードは回心への呼びかけ」の要約


 他の国々の司教らや教会の指導者は、ボイコットを呼びかけ上映禁止申請を提出し、時に、その国ではそれが成功して上映が禁止されたけれど、日本の司教たちは本についても映画についてもいかなる公式の宣言をしなかった。


 関心がなかったためなのか、やっても無視されるだけで無駄だと思ったのか、宣伝の一部に使われたくないと思ったのか、あるいはその他の理由なのか、私には分からない。・・・・


 私は司教たちが何もしなくて嬉しい。何故なら、これが本や映画の宣伝になるだけだから。・・・


 人々はイエズス・キリストに魅せられている。その神秘的なことを知りたいと思っている。・・・ それがうまく伝えられていないのは、伝える人がうまく伝えていないからだ。・・・・


 この小説と映画がそのような大衆を動員出来たという事実は、現代のカトリック教会の生き様についての悲しい解説である。


 現代の人々に挑戦し・激励し・魅惑することの出来るような、知的な・芸術的な・心情的な、そして最終的に霊的な完全性(integrity)が私たちにはあるのだろうか? もしそれがあるならそれらはどこにあるのか? 私たちは光をマスの中に隠してしまったのではないか? 人々のイエズスに関する関心を、私たちが答える代わりに、ダン・ブラウンが答えているというのは、この世のせいか? 悪魔のせいか? それとも私たちの過ちなのか?


 ダ・ヴィンチ・コードは、月並みなフィクションである。しかしこれは、同時に、生ぬるい月並みなキリスト教徒らへの回心への呼びかけだ。


グリム神父は、日本カトリック新聞の編集長

 原文は英語で次にある。
http://www.ucanews.com/html/ucan/f_dishpatch.asp?ucalang=English_../news_report/english/2006/06/w2/fri/JA00515Kg.txt


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▲コメント▲


>  私は司教たちが何もしなくて嬉しい。何故なら、これが本や映画の宣伝になるだけだから。・・・



 私たちは、司教様たちが何もしなかったのを悲しく思う。何故なら、司教様がイエズス・キリストが罵られて、あたかも何でもないかのように思われてしまうからだ。


 世界中のカトリック司教らの反応を見て見ると、おそらく公式に何もしなかったのは日本のカトリックだけだろう。


「抗議が、本や映画の宣伝になるだけ」? 何故、最初から敗北主義に浸っているのだろうか?


 何故、キリスト者が人口の1%にも満たない日本で、「ダ・ヴィンチ・コード」がキリスト教に対するウソの「宣伝」をしているのだから、抗議をすることで、カトリック教会がイエズス・キリストに対して別の見方をしているということを知らせることが出来たではないか。


 何故、この機会に、イエズス・キリストについての正しい知識を日本の兄弟姉妹に伝えるチャンスにしないのだろうか?


 私たちが悲しい理由は、それだけではない。

 日本に今、平和を与えているのは、平和の君である私たちの主イエズス・キリストだ。日本国憲法第9条ではない。私たちの愛する祖国の平和にとって、イエズス・キリストの名誉と真理を守る方が、その他の政治活動に優って有益なことである、と私たちは固く信じている。何故なら、イエズス・キリストは天地を統宰するまことの天主だからだ。

(日本国憲法に私たちは台風を放棄する、と書いてあったとしたら、台風は来なくなるのだろうか?)


 だから、政治的なロビー活動では活発な司教様たちが、私たちの主イエズス・キリストの名誉のために何もされなかったのを見て、私たちは悲しい。



>  この小説と映画がそのような大衆を動員出来たという事実は、現代のカトリック教会の生き様についての悲しい解説である。
>  現代の人々に挑戦し・激励し・魅惑することの出来るような、知的な・芸術的な・心情的な、そして最終的に霊的な完全性(integrity)が私たちにはあるのだろうか?
> もしそれがあるならそれらはどこにあるのか? 私たちは光をマスの中に隠してしまったのではないか?
> 人々のイエズスに関する関心を、私たちが答える代わりに、ダン・ブラウンが答えているというのは、この世のせいか?
> 悪魔のせいか? それとも私たちの過ちなのか?



 何故、かつて2000年間にわたって教会は、ギリシア・ローマの人文学術の高度な人々に挑戦し・激励し・魅惑することの出来るような、知的な・芸術的な・心情的な、そして最終的に霊的な完全性を持っていた。そして、その完全性によって、多くの博士、聖人、童貞女らを生み出してきた。


 それにもかかわらず、いったい何故、現代になって急激にそれが出来なくなってしまったのか? その完全性はどこにあるのか? 


 私たちはよく知っている。その完全性は、カトリック教会の聖伝にある、と。第二バチカン公会議後のカトリック教会は、その聖伝の完全性の光を升の中に隠してしまった。これは、この世のせいか? 悪魔のせいか? それとも私たちの過ちなのか? 

 


>  ダ・ヴィンチ・コードは、月並みなフィクションである。しかしこれは、同時に、生ぬるい月並みなキリスト教徒らへの回心への呼びかけだ。


 そうだ。これは全てのカトリックと全てのキリスト教への、聖伝への回心の呼びかけだ。私たちのカトリック教会が持つ、現代の人々に挑戦し・激励し・魅惑することの出来るような、知的な・芸術的な・心情的な、そして最終的に霊的な完全性(integrity)への回心の呼びかけだ。聖伝への回心の呼びかけだ。


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 私たちカトリックの指導者がダ・ヴィンチ・コードについて沈黙している間に、日本では悪魔崇拝がエスカレートしている。主よ、憐れみ給え!

 

■2006年05月24日、日本のロック・グループは冒涜のCDを発売。


5月24日発布 悪夢の3枚組教典『恐怖の復活祭』
昨年の12月26日、東京国際フォーラムでの最終「黒ミサ公演」を中心に、全会場即日SOLD OUTとなった各地での模様も収録。

http://music.livedoor.com/feature/demon/
【↑ここには、過激な画像があるので、敏感な方はご覧にならないことを勧めます。】


■悪魔の恐ろしさを知らずに悪魔と遊ぶ危険をおかす日本人


 <666>の日(?)である2000年6月6日(火)に全世界同時に公開される映画 『オーメン』の公開を記念して、梅田ナムコシティ前(旧アムラックス)に期間限定の《ダミアンの懺悔室》なるものが登場。(懺悔室のオープンは3日から7日まで)
 この懺悔室は、映画のヨハネ聖堂をモチーフにデザインされたもので、「悪魔のプリクラ」が設置されてしている。
 「ダミアン餃子」も販売。悪魔の黒い皮が売り物の6個入りでこちらはソフトドリンクとセットで666円(3日~17日)。

http://osaka.nikkansports.com/news/p-on-tp5-20060603-40763.html

 



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 兄弟姉妹の皆様、ダ・ヴィンチ・コードの冒涜の償いのために多くの祈りをお願いいたします。日本の司教様や教会の指導者の方々のためにお祈りをお願いします。

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新しい「諸聖人の連祷」(?)  エキュメニズム関連情報:アメリカ

2006年06月22日 | エキュメニズム関連情報

アヴェ・マリア!


 エキュメニズム関連情報:アメリカ


 テイヤール・ド・シャルダン、ガンジー、マルティン・ルター・キング、ゴッホ、モーツアルトも入った新しい「諸聖人の連祷」(?)



 アメリカのベネディクト会の修道女 Mary Lou Kownacki は、新しい千年期のための新しい「諸聖人の連祷」を作った。このシスターは、第三世界とアメリカとの200のベネディクト会とシトー会とを連帯させる事務総長。

 新しい「連祷」には、イエズス会のテイヤール・ド・シャルダン、インドのマハトマ・ガンジー、マルティン・ルター・キング、画家のファン・ゴッホ、音楽家のモーツアルトの名前もあるそうだ。


http://www.kreuz.net/article.3398.html
(最後の記事です。イコン風のガンジーの絵に注目して下さい。)


 主よ、憐れみ給え!

 


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--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】