アヴェ・マリア!
ダ・ヴィンチ・コードと世界の反応
100年ほど前に、西インド諸島(les Antilles)でおよそ次のようなことがあった。
約100年前の或る聖金曜日に、西インド諸島の或る町で、フリーメーソンの会員が、十字架を持って冒涜し、それを近くの休火山の山頂の火口に棄てたことがあった。その当時、一人の小教区の司祭を除いて、だれもそれに抗議の声を上げなかった。
その数ヶ週間後の早朝、誰にも夢にも思っていなかったことが起こった。その火山は突然噴火し、大量の土砂を吐き出してその町を一瞬にして埋め尽くしてしまった。その町から生きて逃れることが出来たものは、たまたまその町を離れていた用事があった人などで、数えるほどしかいなかった。西インド諸島の人たちは、この火山の噴火を聖金曜日の冒涜の天罰であったとすぐに理解した。
ノエの方舟の時代も、ソドマとゴモラの時も同じように、例え少数でも誰かが悪に対して抗議する人がいれば、町全体は救われただろう。たとえ多くの人々が黙っていようとも、残念ながら抗議が理解されなかったとしても。
おそらく日本の司教様たちは、お忙しくて、ダ・ヴィンチ・コードの凶悪さにお気づきにならなかったのだろう。その他のお仕事がたくさんありすぎたのだろう。だから、誰かそれに気がついた人々が、代わりに、出来る限りをして補うべきではないだろうか。
天主の御恵みによって、その危険さに気づかされた私たちは、不幸なことが私たちの愛する祖国日本に起こらないように願って償いを捧げたい。だから私たちは、司教様たちのためにも続けてお祈りを捧げたい。
主よ、憐れみ給え!
イエズスの至聖なる聖心よ、我等を憐れみ給え!
聖母の汚れ無き御心よ、我等のために祈り給え!
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■どなたからか次のような書き込みをいただいた。
> 罪!悪!冒涜!などとヒステリックになじったり、不買やら上映反対などといった動きがあり、また、信者のそういった言動を教会幹部がセーブするどころか逆に煽り立てるという...。
> そういうのを見聞きするにつけ、非カトリック・非キリストで良かったなと思うのが、日本人の多数意見だと思います。
▲コメント▲
「日本人の多数意見」・・・、また出たか。
今の流行がミニスカートで、平気で下着を見せるのが普通なのに、もしもキリスト教信者が「それは慎みがない」といってそうしないとすると、「日本人の多数意見」がおかしく思うから、みんなと同じことをするべきだ。
みんなが下品な冗談を言って笑っているのに、自分だけカトリックだからといって笑わないのは、「日本人の多数意見」がおかしく思うから、みんなと同じように下品な冗談をするべきだ。
みんな子供は少ないのに、たくさん子供に恵まれると、「日本人の多数意見」に、だからカトリックは、とおかしく思われるから、みんなと同じことをするべきだ。
他の日本人がみんなこうしているから、みんなやっているから、みんな読んでいるから、そうしないと、「日本人の多数意見」におかしく思われる、「だからカトリックは、ああなんだ」と変に思われるから、みんなと同じことをするべきだ。・・・ そう言いながら、日本のカトリックは、カトリックであることを止めてしまうのではないか。塩が塩の味を失うのではないか。光を升に隠してしまうのではないか。
「日本人の多数意見」・・・、もうたくさんだ。
私たちは、「みんなの多数意見」ではなく、良いことは何か、真理は何か、を考えてすべきではないだろうか。
更に、良く考えてみよう。
例えば自分の母親について、悪意を持って、讒言し名誉を毀損し、不倫や不誠実と欺瞞を並べ立てる小説を書き映画を作ったとする。それについて母親の真理を知っている子供が抗議も何もしなかったとしたら、「日本人の多数意見」は、おかしな子供だ、と思うのだろうか? それとも抗議して当然だ、と思うのだろうか?
子供であるにもかかわらず、その讒言について、出来たにもかかわらず何も抗議しなかったら、子供は無関心・親不孝だと馬鹿にされるだろう。「寛容だ」と褒める人はいないだろう。口では褒めるかもしれないけれど。
日本の領土であるにもかかわらず、例えば、或る外国が天然資源を発掘したり、外国政府が選挙の投票箱を設置したり、外国が領有権を主張したり、主権を侵害したりしたとしよう。そのようなことに対して、政府責任者が抗議したら、「日本人の多数意見」は、おかしな政府責任者だ、と思うのだろうか?
日本政府の責任者が何も抗議しなかったら、日本国政府は無能・無関心だと自国民からも外国からも馬鹿にされるだろう。「寛容だ」と褒める人はどこを探してもいないだろう。利益を受ける外国の新聞の社説では賞賛されるかもしれないけれど。
もしも例えば、誰かが今度は、ホロコーストは無かったという映画を作ったとしよう。そうしたらおそらく、多くのユダヤ人たちが抗議をして、不買やら上映反対などといった動きがあるだろう。「日本人の多数意見」は、ユダヤ人に同情するのではないだろうか?
結局、「日本人の多数意見」とやらいうものも、マスメディアに操作されて作られているんではないだろうか?
> なんていうかねえ、せっかく聖書に愛とか寛容の精神が書いてあるんだから、教会も信者も実践して欲しいものですね。
「愛」というのは、まず天主への愛、真理への愛だ。全てはそこに基づく。真理への愛があれば、ウソに対して憎むのが当然だ。
「寛容」というのは「罪人」に対するものであって、「罪」と「誤謬」に対するものではない。
聖書には、天主への冒涜については極めて恐ろしい天罰の話がよく載っている。
> 映画と事実は異なるということを論理立てて地道に反論すればいいのに、わざわざ悪・罪・冒涜といった言葉を使うと、不寛容で攻撃的な印象が広まってかえって逆効果ですよ。
まず「映画と事実は異なるということを論理立てた反論」については、私たちなりに反論を準備してネット上に掲載している。
http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/b19dc2128e644a3446f0dc164642d1ff
しかし、人間がどう思おうとも、悪・罪・冒涜は存在する。だから悪・罪・冒涜を悪・罪・冒涜と呼んでいるのだ。
悪・罪・冒涜は、まず第一にそして主要に、天主の御稜威を傷つけ犯す。次に副次的に、社会と人間と自分自身を傷つける。
悪・罪・冒涜は、それに対する償いを要求する。誰かが償いを支払わなければならない。何故なら、天主は、憐れみであると同時に、正義であるからだ。
誤謬を誤謬として指摘する必要はある。しかし、悪・罪・冒涜については償う必要がある。
そうしている間に、日本では悪魔崇拝やオカルトがエスカレートしているようだ。主よ、憐れみ給え!
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兄弟姉妹の皆様、ダ・ヴィンチ・コードの冒涜の償いのために多くの祈りをお願いいたします。日本の司教様や教会の指導者の方々のためにお祈りをお願いします。
天主の御母聖マリアよ、我等のために祈り給え!
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