アヴェ・マリア!
兄弟姉妹の皆様、
数週間前に、「つぶやき」というタイトルで「あるブログで、指針『贖いの秘跡』104項(拝領者がホスティアを御血に浸す方法)の記事を見た。コメント欄に登場した○○司教。HNと思いきや、途中から権威をもって語りだした。しかし、・・・その内容は、目を覆いたくなるほどお粗末。ニセモノであれば・・・、と願った。」というコメントをいただきました。
最初、何のことか分からなかったのですが、これが「頬白親父の一筆啓上」というブログであることを教えてもらいました。
またヘレナ(仮名)さんからのメールで、日本のある教会では、御聖体拝領に関して、毎主日『あがないの秘跡』104項で認められていない両形態の方法がとられているということも教えていただきました。未成年者に対してもそうなのだそうです。拒否している信徒の方々は、片手で数えることが出来るだけです。
これらのことを知り、いろいろなことを思いましたが、まず、手による聖体拝領、女性の侍者、と同じパターンだ、と思いました。
手による聖体拝領は、バチカンが「禁止、禁止、禁止」と繰り返していましたが、司教様たちは「無視、無視、無視」と繰り返し、結局「容認」となり、過去禁止されてきたことが今では「通常の形式」となり、ほぼ事実上「義務」となってしまいました。
女性の侍者も、同じ道をたどりました。バチカンが「禁止、禁止、禁止」と繰り返していましたが、司教様たちは「無視、無視、無視」と繰り返し、結局「容認」となり、過去禁止されてきたことが今では「通常の形式」となり、ほぼ事実上「義務」となってしまいました。(例えば韓国では、ある司祭は、女性の侍者を拒否したために司教様から厳しく罰せられ、「再教育」を受けることになりました。私はこの神父様と会ってお話しをしたことがあります。)
聖伝のミサについても、聖ピオ五世の大勅令が無視され続けてきたことを見ると同じことが言えるでしょう。
第2に思ったことは、信徒の方々の御聖体への信仰・信心がどれ程深く傷つこうと、バチカンの「認可」があるから全ては問題がない、という「法至上主義」です。
ピオ十二世教皇様は1944年こう訓話をしたことがあります。
「教会は、天主からの起源と天主の という固有の性質を持っている。そこから教会における司法的生命は、それ固有の特徴、方針、究極の目的、考え方、及び最高の超自然の永遠の善を持っている。・・・霊魂の救いは、導き手として最高の絶対に安全な規範を持つ。法と天主の御旨である。」(1944年10月2日、教会最高裁への訓話)
"La Chiesa ha un proprio particolare carattere di origine e di impronta divina. Da cio deriva anche nella sua vita giuridica un tratto a lei proprio, un orientamento, fin nelle ultime conseguenze, verso pensieri e beni superiori, oltremondani, eterni. ... La salute delle anime possiede come guida una norma suprema assolutamente sicura: la legge e la volonta di Dio."
DISCORSO DI PIO XII, AL TRIBUNALE DELLA SACRA ROMANA ROTA, 2 ottobre 1944
つまり、教会法は霊魂の救いのため、霊魂が正統信仰を保持することが出来るように助けるために存在するのであって、教会法のために霊魂が存在するのではない ≪Leges propter homines, et non homines propter leges≫ ということです。
日本でもこのことはよく知られているはずです。例えば、「教会は「家庭」をどう見てきたか」(編者:日本カトリック宣教研究所 初版1993年)の中には、「教会法から見た家庭 稲川保明(東京教区司祭)」という文章が掲載されています。
稲川神父様は、以前の教会法を「法至上主義」だと非難しつつも、新教会法ではそうではない、「法至上主義」を捨てた、と強調しているからです。
「1983年の新しい教会法典は、教会的性格を持つ方です。・・・全部で2414条あった教会法が、今は1752条に縮められました。数として約4分の1は減っています。条文の数が減ったことを心配する人たちがいます。新しい法典にはいろいろなことが書かれていない、どうしたらいいか。法に書いてあればどんなことでも許され、法に書いてなければ許されない。それはおかしいことです。このような法至上主義的な感覚がありました。」(167ページ)
「イエスのいわれた、新しい唯一の掟の精神は、この新しい法典の最後に、いわばピリオドのようにおかれています。それは Suprema lex salus animarum つまり、「最高の法規とは、人間の救いを目ざすものである」ということです。最も素晴らしい法律は何か。それは、人間の救いに役立つもの、それを目ざすものです。ですからその最後に書かれているひと言が、この新しい教会法典の正確と物語っており、新しいカノンの精神を表していると思います。」(169-170ページ)
しかし、実際に起こっていることは、信徒の方々の信仰がどうなっても「認可」があるから全ては問題がない、という日本の教会の「法至上主義」です。
教区長の許可をとって行われる、或いは教区長自身の捧げる、形の上では「合法的な」ミサであっても、内容はカトリック信仰とはますますかけ離れたものとなっており、「新しいミサ典礼書が「典礼を創造的に行うこと」を正当化し、さらには要求しているとまで考えられ」、「しばしば耐えがたいしかたで典礼をゆがめ」ています。しかし、「典礼を勝手にゆがめることが、教会の信仰に完全なしかたで根ざした人々を深く傷つけて」いるのにもかかわらず、司教たちの許可によって、事実上、推進されています。私たちはこのような権力の濫用によりカトリック信仰の生活を送ることを極めて困難にさせられてしまっています。日本では「憲法9条を世界の宝に」とか「トリエント・ミサは必要ない」などというプロパガンダだけが幅をきかせているのです。
「過去の人々にとって神聖だったものは、わたしたちにとっても神聖であり、偉大なものであり続けます。それが突然すべて禁じられることも、さらには有害なものと考えられることもありえません。わたしたちは皆、教会の信仰と祈りの中で成長してきた富を守り、それにふさわしい場を与えなければなりません。」しかしながら、現実には、以前のやり方のまま信仰を守ろうとする信徒の方々は、いわば、少なくとも心理的に「突然すべて禁じられ」「有害なものと考えられ」「一致を妨げる」と非難されるのです。
主よ、我らを憐れみ給え!
「黙想
重い十字架の下にイエスはまたお倒れになります。三度もお倒れになったということについて、何を言うべきでしょうか。おそらく、人間の一般的なつまずきについて、多くに人のキリスト離れについて、神不在の世俗主義に向かう時流について考えなければならないでしょう。しかし、私たちは、キリストがご自分の教会において苦しんでおられることを考えなくてもよいのでしょうか?
キリストの現存である聖なる秘蹟(=御聖体のこと)が、どんなに濫用されていることか、しばしば、虚ろな心や悪意に満ちた心の人にも拝領されているのです。
私たちはどれほど、イエスについて何の意識も持たないまま、ただ自分たちのミサを行っていることでしょう。
どれほど神のことばがないがしろにされ、濫用されていることでしょう。
多くの理論・学説にわずかな信仰、何といむなしい言葉。
何とひどい汚れが、教会の中に、またすべてイエスのものであるはずの司祭たちのあいだに見られることか。
何という傲慢、自己満足。
何という、ゆるしの秘蹟に対する尊敬の足りなさ。イエスがそこで、私たちの罪から立ち直らせるために待っておられるというのに。
これら全てが、イエスの受難の中に現存しているのです。弟子たちの裏切り、イエスの御体と御血の不謹慎な拝領は、確かに、贖い主の最大の苦痛であり、彼の心(=聖心のこと)を刺し貫くものです。
魂のもっとも奥深いところから主イエスに向かって、主よ、憐れんで下さい、と、叫び声を上げるほかありません。「主よ、私たちを救って下さい」。
祈り
主よ、あなたの教会は、しばしば、今にも沈みそうな船、あちこちからあいた穴から浸水してくる船のようです。あなたの麦畑もまた、よい麦よりも毒麦のほうが多いように見えます。あなたの教会の、汚れた衣や顔に驚かされます。しかし、それは私たち自身の汚れです。私たち自身、大きなことを言うたびに、大げさに振る舞うたびに、あなたを裏切っているのです。・・・」
「教皇ベネディクト16世 黙想と祈りによる十字架の道行き」(女子パウロ会)
「私たちが今日経験している教会の危機は、「あたかも神が存在していないかのような」(etsi Deus non daretur)の原則に従って行われた改革の結果である典礼の崩壊が原因であると、私は確信しております。」(ベネディクト十六世 ヨゼフ・ラツィンガー著 里野泰昭訳『新ローマ教皇 わが信仰の歩み』春秋社 164ページ)
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最初、何のことか分からなかったのですが、これが「頬白親父の一筆啓上」というブログであることを教えてもらいました。
またヘレナ(仮名)さんからのメールで、日本のある教会では、御聖体拝領に関して、毎主日『あがないの秘跡』104項で認められていない両形態の方法がとられているということも教えていただきました。未成年者に対してもそうなのだそうです。拒否している信徒の方々は、片手で数えることが出来るだけです。
これらのことを知り、いろいろなことを思いましたが、まず、手による聖体拝領、女性の侍者、と同じパターンだ、と思いました。
手による聖体拝領は、バチカンが「禁止、禁止、禁止」と繰り返していましたが、司教様たちは「無視、無視、無視」と繰り返し、結局「容認」となり、過去禁止されてきたことが今では「通常の形式」となり、ほぼ事実上「義務」となってしまいました。
女性の侍者も、同じ道をたどりました。バチカンが「禁止、禁止、禁止」と繰り返していましたが、司教様たちは「無視、無視、無視」と繰り返し、結局「容認」となり、過去禁止されてきたことが今では「通常の形式」となり、ほぼ事実上「義務」となってしまいました。(例えば韓国では、ある司祭は、女性の侍者を拒否したために司教様から厳しく罰せられ、「再教育」を受けることになりました。私はこの神父様と会ってお話しをしたことがあります。)
聖伝のミサについても、聖ピオ五世の大勅令が無視され続けてきたことを見ると同じことが言えるでしょう。
第2に思ったことは、信徒の方々の御聖体への信仰・信心がどれ程深く傷つこうと、バチカンの「認可」があるから全ては問題がない、という「法至上主義」です。
ピオ十二世教皇様は1944年こう訓話をしたことがあります。
「教会は、天主からの起源と天主の という固有の性質を持っている。そこから教会における司法的生命は、それ固有の特徴、方針、究極の目的、考え方、及び最高の超自然の永遠の善を持っている。・・・霊魂の救いは、導き手として最高の絶対に安全な規範を持つ。法と天主の御旨である。」(1944年10月2日、教会最高裁への訓話)
"La Chiesa ha un proprio particolare carattere di origine e di impronta divina. Da cio deriva anche nella sua vita giuridica un tratto a lei proprio, un orientamento, fin nelle ultime conseguenze, verso pensieri e beni superiori, oltremondani, eterni. ... La salute delle anime possiede come guida una norma suprema assolutamente sicura: la legge e la volonta di Dio."
DISCORSO DI PIO XII, AL TRIBUNALE DELLA SACRA ROMANA ROTA, 2 ottobre 1944
つまり、教会法は霊魂の救いのため、霊魂が正統信仰を保持することが出来るように助けるために存在するのであって、教会法のために霊魂が存在するのではない ≪Leges propter homines, et non homines propter leges≫ ということです。
日本でもこのことはよく知られているはずです。例えば、「教会は「家庭」をどう見てきたか」(編者:日本カトリック宣教研究所 初版1993年)の中には、「教会法から見た家庭 稲川保明(東京教区司祭)」という文章が掲載されています。
稲川神父様は、以前の教会法を「法至上主義」だと非難しつつも、新教会法ではそうではない、「法至上主義」を捨てた、と強調しているからです。
「1983年の新しい教会法典は、教会的性格を持つ方です。・・・全部で2414条あった教会法が、今は1752条に縮められました。数として約4分の1は減っています。条文の数が減ったことを心配する人たちがいます。新しい法典にはいろいろなことが書かれていない、どうしたらいいか。法に書いてあればどんなことでも許され、法に書いてなければ許されない。それはおかしいことです。このような法至上主義的な感覚がありました。」(167ページ)
「イエスのいわれた、新しい唯一の掟の精神は、この新しい法典の最後に、いわばピリオドのようにおかれています。それは Suprema lex salus animarum つまり、「最高の法規とは、人間の救いを目ざすものである」ということです。最も素晴らしい法律は何か。それは、人間の救いに役立つもの、それを目ざすものです。ですからその最後に書かれているひと言が、この新しい教会法典の正確と物語っており、新しいカノンの精神を表していると思います。」(169-170ページ)
しかし、実際に起こっていることは、信徒の方々の信仰がどうなっても「認可」があるから全ては問題がない、という日本の教会の「法至上主義」です。
教区長の許可をとって行われる、或いは教区長自身の捧げる、形の上では「合法的な」ミサであっても、内容はカトリック信仰とはますますかけ離れたものとなっており、「新しいミサ典礼書が「典礼を創造的に行うこと」を正当化し、さらには要求しているとまで考えられ」、「しばしば耐えがたいしかたで典礼をゆがめ」ています。しかし、「典礼を勝手にゆがめることが、教会の信仰に完全なしかたで根ざした人々を深く傷つけて」いるのにもかかわらず、司教たちの許可によって、事実上、推進されています。私たちはこのような権力の濫用によりカトリック信仰の生活を送ることを極めて困難にさせられてしまっています。日本では「憲法9条を世界の宝に」とか「トリエント・ミサは必要ない」などというプロパガンダだけが幅をきかせているのです。
「過去の人々にとって神聖だったものは、わたしたちにとっても神聖であり、偉大なものであり続けます。それが突然すべて禁じられることも、さらには有害なものと考えられることもありえません。わたしたちは皆、教会の信仰と祈りの中で成長してきた富を守り、それにふさわしい場を与えなければなりません。」しかしながら、現実には、以前のやり方のまま信仰を守ろうとする信徒の方々は、いわば、少なくとも心理的に「突然すべて禁じられ」「有害なものと考えられ」「一致を妨げる」と非難されるのです。
主よ、我らを憐れみ給え!
「黙想
重い十字架の下にイエスはまたお倒れになります。三度もお倒れになったということについて、何を言うべきでしょうか。おそらく、人間の一般的なつまずきについて、多くに人のキリスト離れについて、神不在の世俗主義に向かう時流について考えなければならないでしょう。しかし、私たちは、キリストがご自分の教会において苦しんでおられることを考えなくてもよいのでしょうか?
キリストの現存である聖なる秘蹟(=御聖体のこと)が、どんなに濫用されていることか、しばしば、虚ろな心や悪意に満ちた心の人にも拝領されているのです。
私たちはどれほど、イエスについて何の意識も持たないまま、ただ自分たちのミサを行っていることでしょう。
どれほど神のことばがないがしろにされ、濫用されていることでしょう。
多くの理論・学説にわずかな信仰、何といむなしい言葉。
何とひどい汚れが、教会の中に、またすべてイエスのものであるはずの司祭たちのあいだに見られることか。
何という傲慢、自己満足。
何という、ゆるしの秘蹟に対する尊敬の足りなさ。イエスがそこで、私たちの罪から立ち直らせるために待っておられるというのに。
これら全てが、イエスの受難の中に現存しているのです。弟子たちの裏切り、イエスの御体と御血の不謹慎な拝領は、確かに、贖い主の最大の苦痛であり、彼の心(=聖心のこと)を刺し貫くものです。
魂のもっとも奥深いところから主イエスに向かって、主よ、憐れんで下さい、と、叫び声を上げるほかありません。「主よ、私たちを救って下さい」。
祈り
主よ、あなたの教会は、しばしば、今にも沈みそうな船、あちこちからあいた穴から浸水してくる船のようです。あなたの麦畑もまた、よい麦よりも毒麦のほうが多いように見えます。あなたの教会の、汚れた衣や顔に驚かされます。しかし、それは私たち自身の汚れです。私たち自身、大きなことを言うたびに、大げさに振る舞うたびに、あなたを裏切っているのです。・・・」
「教皇ベネディクト16世 黙想と祈りによる十字架の道行き」(女子パウロ会)
「私たちが今日経験している教会の危機は、「あたかも神が存在していないかのような」(etsi Deus non daretur)の原則に従って行われた改革の結果である典礼の崩壊が原因であると、私は確信しております。」(ベネディクト十六世 ヨゼフ・ラツィンガー著 里野泰昭訳『新ローマ教皇 わが信仰の歩み』春秋社 164ページ)
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