Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

「二つの日付は、第三の秘密の二つのテキストゆえにどちらも正しいのか?」 「その通り」

2007年11月14日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、
ファチマ・クルーセイダー「ファチマの第四の秘密」を推薦します。

二つの日付と二つの「第3の秘密」



ファチマ第3の秘密について専門家たちはこう語る

 ファチマの第三の秘密についてオッディ枢機卿はこう指摘された:

「それはゴルバチョフとは何の関係もない。祝せられたおとめは教会における背教に対してわれわれに警告を発しておられる。」

[1990年3月17日、ローマの Il Sabato 誌でのインタビューにオッディ枢機卿はこう言っている。
「私はヨハネ二十三世をよく知っていると思います。・・・もしも(ファチマの第3の)秘密が教会を慰めることについてのことであったなら、例えばロシアの回心とか、東欧での宗教的再生とか、ヨハネ二十三世はこの秘密を公にするようにしたことでしょう。彼の性格上、喜ばしいことを伝えることには何らの躊躇もしなかったからです。しかし、1960年、私が秘密を守る義務が終わったとき、何故ファチマの最後の部分を公にしなかったのか、謁見のときに訪ねました。ヨハネ二十三世はため息をついて答えました。「お願いだから、その話題は私にしないで下さい。」
 オッディ枢機卿は、ファチマの第3の秘密がヨハネ二十三世の「新しい聖霊降臨」、第二バチカン公会議が生み出すと期待していた夢と対立していたので、これを快く思わなかったのだろうと信じている。
(from Cardinal Oddi was "well-known for his views on Third Secret of Fatima")]

 16年間にわたってファチマで公式の公文書記録係を務め、またシスター・ルチアと多くのインタビューを行った故ホアキン・アロンソ神父(+1981)は次のように証言した:

「それゆえに、そのテキストが教会内部の信仰の危機に、そして司牧者たち自身の怠慢、[そして]教会の懐そのものにおける内的な闘争、そして上級の位階の重大な司牧的怠慢に具体的に言及しているということは完全にあり得ることである...」

「マリアの汚れなき御心の偉大な勝利に先立つ時期に諸々の恐るべき事柄が起こるはずである。これらのことが秘密の第三の部分の内容を構成する。それらは何であるか?もし『ポルトガルにおいては信仰の教義が常に保たれる』ならば...このことから、教会の他の部分においてはこれらの教義が曖昧となる、あるいはまったく失われてしまうことさえある、ということが明らかに結論づけられ得る...」

「公表されなかったそのテキストは具体的な諸状況について語っているか?それがこの中間の時期の間の教会における信仰の真の危機について語っているばかりでなく、例えばラ・サレットの秘密と同じように、カトリック教徒たちの内的な闘争、あるいは司祭たちや修道者たちの堕落、へのより具体的な言及があるということは非常にあり得ることである。おそらくそれは教会の上層の位階の諸々の怠慢にさえ言及している。そのことに関するかぎりでは、このことのどれ一つシスター・ルチアがこの主題に関して行った他の諸々の伝達と無縁ではない。」

 ファチマの三番目の司教、アマラル司教は1984年9月10日にオーストリア、ウィーンにおける講演において秘密について次のことを語った:

「その内容はただわれわれの信仰にだけ関わりがある。[第三の]秘密を破局的な告知あるいは核のホロコーストと同一視することはメッセージの意味を変える。一大陸の信仰の喪失は一国家の絶滅よりももっと悪い。そして信仰がヨーロッパにおいて絶えず先細りをしていることは確かなことである。」

 次に、教皇ヨハネ・パウロ二世を含んで彼まで四人の教皇の個人的神学者であったルイジ・チアッピ枢機卿からの有名な引用がある:

「第三の秘密においては、他のこともいろいろあるが、教会において大きな背教がトップで始まる、ということが予告されている。」

 カトリック教徒は、教会における大規模の背教に関して「危険な内容」を含んだ秘密の部分 - まだ公表されるべき第二のテキスト - がまだあるということを信じるしかるべき理由を持っていた。

・・・

 ソリデオ・パオリーニは2006年7月5日、ソット・イル・モンタにある大司教の邸宅にカポヴィッラを訪問した。カポヴィッラ大司教は「ファチマの第三の秘密」を読んだことがあり、その内容を知っていた。

 前置きの会話の後にパオリーニはカポヴィッラに、彼の訪問の理由はファチマに関する彼のジャーナリストとしての研究から来ていると告げた。

パオリーニはこう言った:「あなたは第一級の情報源ですから、私はあなたにいくつかの質問」、特に第三の秘密に関して、「質問したいと思います。」

カポヴィッラ大司教は最初にこう答えた:「誤解を避けるために、本当に駄目です。それは公式的に明らかにされてきましたから、私は言われてきたことを固く守ります。たとい私がそれについてもっと多くのことを知っていたとしても、われわれは公式的な文書において言われていることに固執しなければなりません。

(それは大司教からの一つのヒントである。すなわち、「ええ、私はそれについてもっと多くのことを知っています!」ということである。)

大司教はこの時点で微笑みそしてこう言われた:「どうかあなたの質問を手紙に書いてください。そうすればそれらの質問に答えましょう。」「私はあるもの、おそらく一つの文言を送りましょう...手紙を書いて、そして待っていてください。」

 三日後にパオリーニはカポヴィッラ大司教に一連の質問を書いた手紙を出した。7月18日にパオリーニはカポヴィッラ[大司教]からその答えと彼の文書からの数枚の書類の入った小包を受け取った。

 カポヴィッラ[大司教]によって送られてきた小包にはいくつかの公式的な書類と次のように書かれた小さな自筆の署名の入ったカードが入っていた:


2006年7月14日
親愛なるソリデオ・パオリーニ様

「私の文書記録の中からいくつかの書類をお送りします。あなたが2000年に信仰教義聖省によって公表されたファチマ・メッセージの小冊子をお求めになるよう提案します。」

豊かな祝福がありますように
ロリス・カポヴィッラ


 パオリーニにとってはこれが大司教からのなおもう一つのヒントであるということは明白であった。それはあたかもカポヴィッラ[大司教]がこう言われたかのごとくであった:「6月26日文書をもう一度お読みなさい。しかし今回は私が送る諸文書の光に照らして、お読みなさい!」と。

 パオリーニはこう言った:「ヴァチカンによって出版された小冊子をヨハネ・パウロ二世の秘書[であるカポヴィッラ大司教]が私に送られた記録文書と比較することによって、一つの非常に印象的な矛盾が、それ[公式的な封印]の上の承認のスタンプをもった「控え目な符号において」著者[私]の目に直ちに入って来る。2000年6月26日の公式的な文書が『パウロ六世はその内容を1965年3月27日に読み、そしてテキストを公表しないことに決定されながら、その封筒を聖座の公文書保管所に送られた』と主張している一方で、教皇パウロ六世が秘密を1963年6月27日午後に読まれたということが正式に証明されている。」

 それゆえわれわれは日付の不一致をここに見るのである。カポヴィッラ[大司教]の公式のヴァチカン文書はパウロ六世が秘密を1963年6月27日に読まれたと述べた。一方で、[2000年]6月26日ヴァチカン公式文書は同じ教皇が秘密を1965年3月27日に読まれたと主張したのである。

 パオリーニは直ちに日付の不一致に関して説明を求めるために、カポヴィッラ大司教に電話した。

 カポヴィッラ[大司教]は「われわれは聖書について話しているのではありません」というようなそのような陳述を伴った彼の答において少しばかり責任のがれであった。

 パオリーニは直ちに答えた:「その通りです、閣下。しかし私が言及しているのは一つの公式的に書かれたテキスト(公式的なヴァチカン文書)であって、それは明白であり、また他の諸々の記録文書に基づいています!」

 モンシニョール・カポヴィッラは答えられた:「そうですね、おそらくベルトーネの包み[6月26日の文書]はカポヴィッラの包みと同一ではないのでしょう...」


パオリーニ:「それでは両方の日付は、第三の秘密の二つのテキストが存在するがゆえに、どちらも正しいのでか?

カポヴィッラ大司教は答えられた:「まさにその通りです!


もうひとつの不一致:ポルトガル語方言の表現

ソッチは、オッタヴィアーニ枢機卿が、ヨハネ二十三世は[秘密が入った]封筒を開け、そしてそれを読まれたとき、それがポルトガル語で書かれていたにもかかわらず、それを完全に理解された、と言われたと述べている。しかし、ファチマについての全真理 The Whole Truth About Fatima の著者聖三位一体のフレール・ミッシェルは、教皇がいくつかのポルトガル語の表現を理解するのに彼を助けるよう信頼できるモンシニョール・タヴァレスという人を呼ばれた、と指摘している。カポヴィッラ大司教もまた、テキストはポルトガル語の方言の表現を含んでいたので、モンシニョール・タヴァレスという一人の司祭が呼ばれたと証言しておられる。

ソッチは、この不一致はただ、秘密の二つのテキスト、ヨハネ二十三世がモンシニョール・タヴァレスの助けなしに読むことができたテキストと彼の助けを必要としたもう一つのテキストが存在する場合にのみ理解され得ると主張する。


それはどのようにして起こり得たか?

ソッチ氏はヴァチカンの壁の背後で2000年に何が起こったのかについての一つの仮説的な説明を構成している。ソッチは、ヨハネ・パウロ二世が秘密を公表しようと決定されたとき、性質の分からない一つの権力闘争がヴァチカンにおいて噴出したと信じている。彼は、ヨハネ・パウロ二世とラッツィンガー枢機卿が秘密をその全体において公表することを望まれたが、しかし、当時のヴァチカン国務省長官ソダノ枢機卿がその考えに反対したと仮定している。そしてヴァチカン国務省長官からの反対は手強いものである。


第一に、われわれは聖ピオ十世会のウィリアムソン司教による最近の陳述を持っている。彼はオーストリア出身の知人の一司祭が、ラッツィンガー枢機卿は(そのオーストリアの司祭に)自分は良心の重荷となる二つの事柄を持っていると打ち明けたと彼に告げたと述べている。その一つは6月26日にファチマのメッセージについての彼の誤った取り扱いであり、もう一つはルフェーブル大司教についての彼の1988年の誤った取り扱いであった。ラッツィンガー枢機卿はルフェーブル大司教の事例において「私は失敗した」、そしてファチマの事例においては「私の手は強制された」と言われたと報じられている。ソッチの仮説はラッツィンガー枢機卿が言われたとされている彼の手の強制についての陳述を支持している。

第二に、ヴァチカンの Romanita をよく知っている者は誰でもそのような仮説の可能性を受け入れることに何の困難も持っていない。

主流の論評

ソッチの書物はここで詳論するには余りにもその数が多すぎる他の多くの点を含んでいる。彼はヨハネ二十三世およびパウロ六世のシスター・ルチアに対する軽い軽蔑;秘密の隠された部分が信仰の重大な危機を予告し、そしておそらく第二ヴァチカン公会議についての否定的な警告を含んでいるという事実;当時のベルトーネ大司教によるシスター・ルチアとのばかばかしい2001年11月17日の閉じられた扉の中でのインタビュー - その中で彼は、ロスアンジェルス・タイムズがそのことに関する記事に「ヴァチカンのトップの神学者、ファチマ信心の名声をやんわりと低下させる」と表題をつけたほどその文書がファチマの名声を非常に激しく傷つけたけれども、6月26日文書におけるあらゆる事柄にシスター・ルチアが同意したと主張した - について話している。・・・

 くわしくは、ファチマ・クルーセイダー「ファチマの第四の秘密」をご覧下さい。

============
ブログランキング <= クリックで応援して下さい。兄弟姉妹の皆様の応援を感謝します!
============
【関連記事】

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】