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聖伝のミサは廃止されたのか?聖伝のミサは本当に廃止されたことがあったと言えるのか?

2007年11月15日 | ミサ聖祭
アヴェ・マリア!

聖伝のミサは廃止されたのか?


 私たちはベネディクト十六世教皇様の自発教令によってこう確認することが出来た。

「福者ヨハネ二十三世が1962年に公布した且つ決して廃止されていないローマ・ミサ典書の規範版に従ったミサ聖祭の犠牲(いけにえ)」
 ベネディクト十六世『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM』)


「ミサ典礼の特別な形式としての1962年版典書の使用に関して、私は、この典書が今迄決して法的に廃止されたことはなかったし、従って原則として常に許されていた、という事実に注意を引きたいと思います。」
 ベネディクト十六世の「司教達へ宛てられた書簡」2007年7月7日


何故か?何故、聖伝のミサ典書を使うことがが今迄決して法的に廃止されたことはなかったし、従って原則として常に許されていたのか?


何故なら、
(1)聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)が、その聖伝のミサが永久に有効だと言っているから。


 今後、未来永劫にわたって、全キリスト教世界〔の教会〕において、諸地方の総大主教の教会において、司教座聖堂において、参事会管理聖堂及び教区教会において、在俗及び男女を問わず如何なる修道院・修道会においても、更に、義勇修道会(仮訳)の教会においてさえも、又、「権利或いは習慣によって、ローマ教会の挙式法に従って合唱隊と共に高い声で或いは低い声で修道院のミサが挙行される」(霊魂を導く)責のない教会又は聖堂において、余によって出版されるミサ典礼式の定式による以外が歌われ、或いは唱えられる事の無いように。〔その事は上記の〕同じ諸教会が、使徒座の許可によって、習慣によって、特権によって、例え宣誓によるものであっても、使徒座の批准によって、如何なる方法で特別許可を備えていてもである。・・・
厳しく、全ての、そして個々の上記の諸教会の総大主教、管理聖職者、そして他の如何なる教会位階の尊厳を有する人物であれ、更に、彼等が聖なるローマ教会の枢機卿、或いは、如何なる他の卓越した位階であっとしても、彼等に聖なる従順の名において、他の全てのやり方、及び他のミサ典礼書の挙式法が、例え古く、現在に至るまで習慣化していたとしても、それらを今後完全に除き、全面的に廃止する事によって、今、余によって伝えられるこのミサ典礼書による挙式法、やり方、そして法規に則ってミサ聖祭を歌い、又、読誦し、ミサ聖祭の挙行においてこのミサ典礼書に掲載されているもの以外の他の儀式、又は祈りを敢えて追加、又は唱える事の無いようにと命じ規定する。
更に、如何なる教会においても歌ミサ聖祭、或いは読誦ミサ聖祭において、如何なる良心の呵責無しに、或いは他の罰、宣言そして非難を全く課される事無く、今後このミサ典礼書それ自体に、全く従うように、そして、それを自由に合法的に使用する事が可能であり適法であるように、使徒継承の権威を以って、しかも永久のこの〔文面〕を以って、余は承認し認可する。
聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)


(2)パウロ六世は、新しいミサを許可しただけだったから。

"Ad extremum, ex iis quae hactenus de novo Missali Romano exposuimus quiddam nunc cogere et efficere placet. ...
Nostra haec autem statua et praescripta nunc et in posterum firma et efficacia esse et fore volumus."
【日本語の直訳】
「ここまで私が新しいローマミサ典礼書について述べてきたことから、今、最後に何らかのことをまとめて結論付けるのがよいでしょう。・・・
 私はこの (haec) 規定 (statua) と決定 (praescripta) とが今も将来にも確定され、効力を持つものであることを望みます。」

「第2バチカン公会議の教令に基づいて刷新されたローマ・ミサ典礼書を公布する使徒座憲章」
Constituio Apostolica qua Missale Romanum ex decreto concilii Oecumenici Vaticani II instauratum promulgatur "Missale Romanum"

【但し、日本語の公式訳は次の通り】


「最後に、新しいローマ・ミサ典礼書について今まで述べてきたもののうち、あるものを、今ここで義務づけ、発効させたいと思います。・・・
 この憲章に規定したことは、本年の11月30日待降節第1主日より発効するものとします。【註:この一文は本来のラテン語には存在していなかった】
 上記の規定と決定とが今も将来にも確定され、効力を持つものであることを望みます。」




【メモ】
(1)この憲章の承認は4月3日であったが、「公布」は、典礼聖省の教令により4月6日に行われた。承認され「公布」された、新しいミサの本文自体は Institutio generalis(総則)と共に、その数週間後に印刷された。

(2)聖ピオ五世の大勅令『クォー・プリームム』は、この憲章によって廃止されなかった。もしも廃止しようとしたなら、そのことをこの憲章の中ではっきり言わなければならなかった。しかしそうしなかった。

(3)教会法的観点から見ると、パウロ六世の新しいミサは大勅令『クォー・プリームム』の規定からの特別例外(particular derogation)となる。

(4)パウロ六世の新しいミサとその総則は、4月3日の「承認」及び4月6日の「公布」後、何度も修正が加えられ、規範版(すなわち公式版)が発表されたのは、1970年3月でしかなかった。

(5)カルメル会司祭ジョゼフ・ド・サント・マリ神父は、ラ・パンセ・カトリック誌212号(1984年9-10月号)において、この異常さを次のように疑問を投げ掛けている。
「この(1969年10月20日の)教令 Instructio の最初は、「新しいミサ典書を承認した」使徒憲章「ミサーレ・ロマーヌム」について語っている。しかしこれは承認されても公布はされていなかった。まだ存在していないミサ典書をどうやって公布することが出来たのか?あたかもどんな金額でも書くことが出来る白紙の小切手にサインをしたこの「承認」と、実際にミサ典書が出てくるまでの間に、何度も手直しが入っている規範版という、カトリック典礼の根本的書籍に、教皇様の権威がかけられていたというのは既に異常事態である。これは、これらの文書に関わるその他多くの様々な種類の違反というこのドラマの一つに過ぎない。これらは慌てて混乱のうちに発表され他ということ自体が、疑いを引き起こす。一つのミサ式次第を「承認」する4月3日の使徒憲章と、その数週間後になってようやく出された総則、そしてその後もあった多くの手直し。特にミサ典書を「承認」していた憲章は、その当のミサ典書を一年後にようやく見ることになった・・・。」

(6)1969年4月3日の使徒憲章の題は「公布」という意図を明示していた。
「第2バチカン公会議の教令に基づいて刷新されたローマ・ミサ典礼書を公布する使徒座憲章」
Constituio Apostolica qua Missale Romanum ex decreto concilii Oecumenici Vaticani II instauratum PROMULGATUR "Missale Romanum"
 しかし、1970年3月26日、典礼聖省の「教令」(decretum)が、新しいミサの公式版を「公布」したとき、この教令は1969年4月3日の使徒憲章はこのミサ典書のテキストを承認していた、承認していたが公布はしていなかった、と説明した。

 

新しいミサが発表されると、例えば次のような反対の声が挙がった



1969年9月
 オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿とはパウロ六世に新しいミサの批判的研究を提出し、新しいミサの廃止を求める。

1969年9月12日
 デ・カストロ・マイヤー司教は、パウロ六世に新しいミサに反対する手紙を書く。

1969年9月24日
 ルイ・サルロンは、週刊誌カルフールに新しいミサに反対の最初の記事を書く。

1969年9月25日
 レモン・ドュラック神父は、「ローマ通信」紙に新しいミサに反対する最初の記事を書く。

1969年10月
 ジョルジ・ド・ナント神父は、「カトリック反宗教改革」紙に新しいミサに反対する立場を表明する。

1969年12月
 イティネレール誌の論説にてジャン・マディランは聖伝のミサ禁止に反対する記事を書く。

1970年1月
 ドミニコ会司祭カルメル神父は、イティネレール誌に自分は、聖ピオ五世が法定化した聖伝のミサを捧げ続け、新しいミサを拒否すると宣言する。

1970年2月
 レモン・ドュラック神父は、イティネレール誌に「新しいミサを拒否する理由」を発表する。

1970年10月
 ルフェーブル大司教により、エコンにおいて聖ピオ十世国際神学校が開かれる。

1970年12月
 ルイ・サルロンは、新しいミサに反対する本を Nouvelles Editions Latines 社で発表。

1971年6月9日
 ルイ・サルロンはローマに行ってオッタヴィアーニ枢機卿とインタビューをし、枢機卿の宣言を週刊誌「カルフール」に発表。
オッタヴィアーニ枢機卿「聖ピオ五世の命令によるミサの聖伝の典礼様式は、私の知るかぎり廃止されていない。」

1971年6月14日
 典礼聖省から、新しいミサ実施の通知(Notificatio)

1971年11月
 Latin Mass Society の要請により、ヒーナン枢機卿は聖伝のミサを英国人のために時々する許可をパウロ六世から与えられたことを知らせる。

1972年10月27日
 ジャン・マディランはパウロ六世に手紙を書く。
「教皇様、私たちに聖書と公教要理とミサを返して下さい。」


1977年2月27日
 四旬節第一主日、モンシニョール・ドュコ・ブルジェとルイ・コアッシュ神父、ヴァンサン・セラルダ神父と聖伝のミサを求める信徒たちとは、パリのサン・ニコラ教会に留まり始めた。


ところが、・・・



1969年11月12日
 フランス司教団からの通達(Ordonnance)により、1970年1月から、司教委員会の作ったフランス語訳による新しいミサの執行が義務となる。
 ただしこの通達は、教会法的観点から見ると離教的である。何故なら、自分の権力でフランスにおいて典礼様式を変更することが出来ると主張し、教皇の権能を簒奪しているからである。この通達は、使徒憲章「ミサーレ・ロマーヌム」も、ローマからの通達も参照していない。この通達を持ってフランス司教団は事実上1970年1月より、聖伝のミサの典礼様式を禁止し、いかなる典礼様式であれラテン語のミサを禁止した。

1971年6月14日
 典礼聖省から、新しいミサ実施の通知(Notificatio)

1973年1月
 スイスのシオン教区司教であるアダム司教は「特別許可の場合以外は、聖ピオ五世の典礼様式に従ってミサを執行することは禁止される。この典礼様式は、1969年4月3日の憲章「ミサーレ・ロマーヌム」によって廃止された(ソノママ)。」さらに「この宣言は、当局の正統な教えと厳格な指示に従ってなされた」と付け加えた。

1973年7月
 スイス司教団の定例会議の発表よれば「聖ピオ五世の典礼様式によるミサを捧げることはもう許されていない。」

1973年10月
 バイユー及びリジューの司教であるバドル司教の名で、通達が発表された。「教会への従順の気遣いより、どのような状況の下であれ、聖ピオ五世の典礼様式によるミサを捧げることは禁止される。」

1974年11月14日
 フランス司教団の通達により、明示的に聖伝のミサが禁止される。
(それまでは、フランス語の新しいミサをすることが義務であるとして暗黙のうちに聖伝のミサを禁止していただけだった。)そして、今回は、自分の権威に訴えるのではなく、1971年6月14日のローマからの通達を「適応させる」と述べた。

1976年6月25日
 バチカン国務長官ベネリ司教は、パウロ六世の名前でルフェーブル大司教に手紙を書き「"公会議の教会"に真の忠実」を要求した。

1976年9月8日
 ジャン・ギトンは、フランスに聖伝のミサの執行を許可することをパウロ六世に求めたが、パウロ六世は厳しく「これは決して許さない」と答えた。(このことはパウロ六世の死後、ジャン・ギトンの書籍『パウロ六世の秘密』の中で明らかにされた。)

1976年9月11日
 カステルガンドルフォにて、ルフェーブル大司教はパウロ六世に謁見。ルフェーブル大司教は教皇に「聖伝の実験をさせてほしい」と求めた。つまり聖伝のミサに対して主張されていた禁止を解いてほしいと言うことだった。教皇は、良く考えて相談してみる、と答えただけだった。

1976年10月11日
 パウロ六世からルフェーブル大司教への手紙。その中で聖伝のミサを放棄するように要求。

1978年6月16日
 教義聖省長官のセペール枢機卿は、ルフェーブル大司教に聖伝のミサに忠実な司祭たちの叙階を中止するように要求。

1976年5月24日
 パウロ六世は、枢機卿会議の訓話でこう語る。
「聖伝の名前により、私は全ての私の子供達とカトリック共同体に、熱心と尊厳をもって新しい典礼の典礼様式を捧げることを求めます。新しいミサを取り入れることは、司祭や平信徒の自由な決定に委ねられているのではありません。・・・ 新しいミサは古いミサの代わりに発布されました。」 ・・・

1999年7月13日、及び1999年10月18日、
 メディナ枢機卿、典礼聖省長官として公式文書での発言
新しいミサ典書こそが「典礼一般法により、ローマ典礼様式のミサ聖祭祭儀の唯一の有効な形式」である。

こうして、聖伝のミサを捧げる多くの司祭たちは、事実上「破門」同然の処置を受けてきた。



 だから、1984年12月7,8,9日、スイスのマルティニーで、ミサ聖祭擁護のための大集会が開かれ、聖ピオ十世会は聖母の悲しみに満ちた汚れ無き御心に奉献された時、その機会に12月8日、ルフェーブル大司教は聖伝のミサをささげて、説教でこう言ったのだった。

「このようなやり方で私たちが迫害されるのは正しいのでしょうか?この敵意を持って追い回されるのは正しいのでしょうか?もしも私たちのミサが、教会のものではないなら、カトリック教会は今までかつて存在したことがないことになります! 私たちは、私たちをこのようなやり方で迫害する人びとの方こそ、もはやカトリック精神を持っていないと言わざるを得ません。何故なら、彼らが迫害しているのは私たち自身ではなく、私たちが代表する全てだからです。私たちは、20世紀の間の聖伝を代表しています。20世紀間のキリスト教世界と20世紀の間の霊魂の聖化を代表しています。教会が20世紀の間してきたことを批判する人々は、教会の精神をもはや持っていません。

 パウロ六世教皇、フランス司教団、スイス司教団、いや全世界の司教団が、聖伝のミサが「廃止された」「禁止された」と思いこませようとして、教会法に基づかない様々な発言をしてきた。しかし、それは教会の精神にも、教会の法にも基づかないものだった。

 それでは、聖伝のミサは本当に廃止されたことがあったと言えるのか?

 否、この聖伝のミサ典書が今迄決して法的に廃止されたことはなかったし、従って原則として常に許されていた、それが「事実」(ベネディクト十六世)である。

 ベネディクト十六世がそう言ったから、それが事実になったのではなく、聖ピオ五世の大勅令とパウロ六世の使徒憲章という客観的な事実がそうだから、ベネディクト十六世がそれを今回ようやく確認してくれたのだ。

 それを確認して下さったベネディクト十六世に感謝すると共に、聖ピオ五世の大勅書とカトリックの聖伝にあくまでも忠実であったルフェーブル大司教様やその他のカトリック司祭たちに感謝する。

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【参考資料】ビッフィ枢機卿の自叙伝『イタリアの枢機卿の追憶と叙述』より

2007年11月15日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

【参考資料】ビッフィ枢機卿の自叙伝『イタリアの枢機卿の追憶と叙述』“Memorie e digressioni di un italiano cardinale”



 イタリアの枢機卿、元ボローニャの大司教ビッフィ枢機卿は『イタリアの枢機卿の追憶と叙述』という自叙伝(640ページ)を発表しました。少し内容をご紹介します。

 それによると、ビッフィ枢機卿は、第二バチカン公会議が「教会の内的刷新」ということよりも、ヨハネ二十三世の“aggiornamento”アジョルナメント(今日化)というモットーがふさわしくなく有名になってしまった、と嘆く。教皇様のお考えではなかったが、「アジョルナメント」は、聖父の永遠のご計画と救霊の御旨を追求すると言うよりも、この世的な歴史上の「今日」だけを追求するようにさせてしまった。

 ビッフィ枢機卿は、第二バチカン公会議が共産主義について沈黙を守ったことを驚く。二十世紀の最も長い厳しい歴史的現象であるにもかかわらず、教会と現代世界に関する憲章において、共産主義については何も語らない。共産主義において、人類史上初めて、「無神論」がいわば「国家宗教」となり、押しつけられた。第二バチカン公会議はそれについて何も語らなかった

 第二バチカン公会議の参加者の中には、ナチの犯罪についてピオ十二世が「沈黙」を守ったと主張し批判するものがいたが、共産主義の犯罪に対する沈黙について、私たちはそれよりも遙かに遠くにいる。

 ヨハネ・パウロ二世は、1997年7月7日、ビッフィ枢機卿を昼食に招待した。食事の途中、ヨハネ・パウロ二世は枢機卿に、使徒書簡『第三千年期の到来』の一文を変更したことを告げた。

 公表される前の草稿ではこの一文が入っていた。「教会は、自分の子らの罪を自分のものと見なす」と。しかしビッフィ枢機卿はこれを受け入れられないと忠告し、最終文章は「教会は、罪深い自分の子らを、それでも自分のものと見なす」と変更された。

 枢機卿は言った。「私は、過去の誤りや矛盾の赦しを求めるという前例のないことを率先してやることは、主イエズスのお好みの「小さき者たち」をつまずかせるでしょう。信徒たちは、神学上の区別をどうつけて良い分からず、教会の神秘を健全に信じるだろうか?信仰宣言が私たちに告げるように、この教会の神秘とは、特に、教会が聖なるものであるということの神秘です。彼らはこの自己批判に混乱させられるでしょう。」教皇様は「はい、そうですね。そのことを考えてみます」と答えた。しかし、教皇様はそのことを充分に考えなかった。

 ベネディクト十六世が教皇に選ばれる四日前、将来の教皇様に向けて次のようなスピーチをした。

「・・・私は、私の言うことを聞いている将来の教皇様に、私の連帯と理解、また私の兄弟愛に基づく同情を表明します。しかし、私は彼にここで聞いたことを心配し過ぎたり、恐れすぎないようにとアドバイスしたいと思います。主イエズスは、彼にこの世のこれらの問題を解決するようにとは求めないでしょう。イエズスは彼に特別の愛を持ってイエズスを愛することを求めるでしょう。「これらの人々よりもあなたは私を愛するか?」と。アルゼンチンのマンガ、マファルダの中に、数年前こんなものがありました。手に負えない賢い小さな女の子マファルダはこう言うのです。「分かった!この世界には、問題発見学者はたくさんいるけれど、解決発見学者は珍しいってことね。」



「将来の教皇様に、私はこれら全ての問題に注意してもらいたいと思いますが、しかしそれよりも前に、そしてそれよりももっと、現代、天主の民を苦しめている混乱と指針の狂いの状況(state of confusion and disorientation)とを理解していただきたいと思います。彼らがどれ程、道を踏み外して導かれているか、とくに「小さき人々」が迷わされているか、をです。」
「数日前、私はテレビである老修道女がインタビューにこう答えているのを見ました。「亡くなったこの教皇様は、だれよりも偉大でした。何故ならこの教皇様は私たちに全ての宗教が同じだと教えてくれたからです」と。ヨハネ・パウロ二世がこのような賛辞を聞いて喜ぶか、私にはよく分かりません。・・・」


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【参考資料】ビッフィ枢機卿は、今年2月25日から3月3日まで教皇様とバチカンの長官たちの黙想会の指導をした。

 黙想会中、ビッフィ枢機卿は教皇様たちにこう訓話した。
反キリストは、自分を平和主義者、エコロジスト、エキュメニストとして提示する。反キリストはエキュメニカルな公会議を開催し、全てのキリスト教派の同意を求め、それぞれに何かを妥協するだろう。カトリック、政教徒、プロテスタントの少数グループを除き、群衆は反キリストのあとに従うだろう。反キリストに駆逐され、彼らは反キリストにこう言うだろう。『あなたは私たちに全てを与えたが、私たちにとって重要なこの一つだけは例外だ。すなわちイエズス・キリストだ。』」

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