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【死者の月】死と永遠についての黙想

2007年11月20日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 11月は死者の月ですから、続いて死と永遠についての黙想を提案します。


 私たちは数限りない御恵みの露に潤いながら、世の空しい歓楽に惹かれて主に背き奉り、本来なら、とっくに地獄の底に突き落とされ、血の涙を飲んで泣き狂いしていなければならない身でした。

 しかしながら、主はこの恐ろしい罰を降し給わなかったのみか、かえって色々と私に勧めて、脅かして、悔い改めさせて下さったのです。。この御恩に万一でも報い奉るために、今より志を立て直し、主に背き奉った事を一心に悔い悲しみ、力の限りを尽して主を愛せんと決心いたしましょう。

 一度ならず、二度ならず、主を愛し奉ると約束しながら、私たちは、かえって一度ならず、二度ならず、主に背き奉ったのです。ただ私の為に磔にされ給いし主の感ずべき愛を思い、それを頼りにあえて御前に近づき、痛悔の涙と、主を愛する熱情とを伏して祈りましょう。

 主に背いて大いに御胸を痛め奉ったことを一心に悔い悲しみ、今よりは心を傾けて、身を尽してひとえに主を愛せんと決心しいたしましょう。

 私たちの力は極めて弱く、常に決心はしても、その決心を貫き得ないのですが、イエズスの御心の御憐れみにより、聖寵の助けをこいねがいましょう。

 罪人の拠り所なる聖母よ、私の為に御子に取り次ぎ、罪の赦しを乞い求め給え。アーメン。



些細なことから地獄に落ちた者の嘆き

 地獄に罰せられた悪人の何よりも大きな苦しみは良心の責めである。「かしこにてはその蛆は死なず」(マルコ9-47)と、主が予め注意された蛆、いつまでも死ぬ事の無い蛆とは、地獄において悪人の心を喰らう良心の責めに他ならない。

 私は真の教えを信ずる幸福を与えていただきないがら、罪を犯して主を打ち棄て奉り、一生の間哀れな月日を送り、果ては永遠にこの怖ろしい焔の底に永らえねばならないことになった。私を救わんとて主は数々の御光、色々な手段をお授け下さったのに、私はそれを一つも利用しないで自ら好んでこの苦罰の中に踊りこんだのである。

 過ぎ去った年月は、我らの目にすら夢の如く、瞬く間の如くにしか見えない。まして、地獄の悪人の為には、その邪悪を欲しいままにした五十年、六十年の歳月は果たしてどんなに見えるだろうか。地獄は永遠に終りがない。幾千万年と経ってから後に振り返ってみても、その悲しい永遠は、今始まったかのようであろう。それなのにその瞬く間の楽しみの為に、この永遠極まりなき苦罰の淵に身を投げたかと思って、彼等は如何ばかり悔しく悔しく思うであろうか。しかもその僅か五十年か六十年の間にしても、四六時中楽しみに耽っていた訳ではない。主に遠ざかり、罪悪に溺れていて何の楽しみが味わわれよう。罪悪の与える楽しみというものは、いかにも短い。瞬く間に過ぎ去ってしまう。後に残るのはただ心配と、恐怖と、良心の呵責のみではないか。


 いわんや自分の滅びの原因となった世間の栄華や楽しみの儚さを見ては、尚更堪らなく思うであろう。「ああ私は何という馬鹿げた事をしたものであろう?瞬く間に過ぎ去ってしまうような儚い栄華の後を追い、その為に霊魂も天国も天主までも失い、全ての人には見捨てられ、永遠にこの火の中に焼かれねばならぬ事になってしまった!」と歯噛みして悔しがるであろう。

 地獄の悪人はこの二つの蛆に激しく噛み苛まれるのみではない。なお僅かの努力で地獄を逃れる事が出来たのにと思い、悔しさの余り我と我が身を掻き毟るのである。

「ああ私もあの侮辱を赦してやったなら!」
「あの人目を憚る邪念を打ち破っていたなら!」
「あの危うい機会より遠ざかっていたなら!」
「あの交際を断つのにどんな困難があったろう!」
「あの忌まわしい楽しみを差し控えるのに、何が難しかったのか!」
「あの柄でもない欲望を投げ棄てるのに何の困難があった!?」

「例えどんなに難しい事があったとしても、救霊の為に万事を犠牲にするべきではなかったか!それに私はそれ位の事を思い切る勇気が無くて、その為にかくも不憫な身の上になった。今はもうこれまでだ。どうすることもできない!」

「いくら私でもしばしば秘蹟に与っていたならば!」
「毎日黙想を怠らなかったならば!」
「不断に主に寄り縋るのを忘れなかったならば、罪など犯さなかったであろうに!」
「私はいく度も決心した。決心しても決心通りには行わなかった。時には行いかけたが・・・長続きしなかった!」




救霊を得るのは容易だったという嘆き

 キリスト信者の身にして、地獄に投げ込まれる不幸に陥った者は、自分が主から与えていただいた霊光とか、御招きを思い出しただけで、胸が抉られるような心地がしないだろうか?

 「ああ私は徳を修めて聖人となり、終わり無き幸福を欲しい儘にすることは造作も無かったのに、どうしてこんな浅ましい身の上と成り果てたのだろう!」

 「ああ、私ぐらい愚かな者があろうか!主は私を救う為、全能の天主にもかかわらず十字架上にお命を擲って下さった。いくたびその慈しみ溢れる御手を差し伸べて私を抱き上げて下さった事だろう!それなのに私はその温かい御手を振り切って、自らこの火の中に飛び込んだのだ!」

「ああ、天国を失ってしまった。天主も失ってしまった・・・いつまでも、いつまでも、ここで焼かれねばならないのだ!」

 ここに一人の病人があるとしよう。言うにも言われぬ苦しみに悶え悩んでいるのに、誰も同情を寄せようとする者すらなく、かえって様々に侮辱し、その不身持ちを咎め、果ては殴るやら、踏むやら、蹴るやら、乱暴の限りを浴びせかけるとするなら、その病人の哀れさ加減を見るのも涙の種ではあるまいか。でも、地獄で罰せられている悪人は、その幾千倍もむごたらしく取り扱われる。ありとあらゆる恐ろしい責め苦に悶死せんばかりなのに、誰一人として「可哀想に!」と言葉をかけてくれる者すらいないのである。

 滅んだ霊魂は「ああ、私は遂に罰されたのだ・・・ああ、私は遂に罰されたのだ・・・」と悲しい声を振り絞って泣き叫びつつ、万に一つも地獄を逃れ出る道がないか探し回るであろう。

 彼等はせめて我と我が身を欺いて「この地獄もいつかは終わる時がくるかもしれない」と思ったならば、幾分なりとも気休めにもなるだろうが、いかんせん地獄には「かもしれない」などという単語は無い。彼等が被っている苦罰は永遠に終りが無いのだと彼等は明確に承知しているのである。地獄がかくも恐ろしい場所だと信じていながらどうして罪を犯す気になるのだろう。

 愛すべきイエズスよ、私の唯一の希望は主の御血と御死去にある。他人は残らず私を棄て去ろうとも主がお見棄てくださらなかったなら何も恐れることはない。私の罪がどんなに重かろうと、痛悔さえすればいつでも赦しを与えようと主は待ちうけておられる。私さえ主を愛する気になれば、主は聖寵でも親愛でも豊かに雨の様に降らせたいと思し召しである。これをもって見ると未だ今日まで私をお見限りになっていない証拠なのであるから、私は深く主に寄り縋り、この身をあげて全く主の御憐れみに任せ奉る。ああ私の命、宝、愛にてましますイエズスよ、私はこれまでの罪を絶えず悔い悲しみ、力の限り主を愛し奉りたい。たとえ今までは主から遠ざかっていたにせよ、今からは決して主を離れない。主を見捨て遠い遠い罪悪の巷に駆け落ちするようなことは断じてしない決心である。主よ、御望みを告げ給え。私はきっと満足に果たし奉るであろう。生きるも死ぬも主の聖寵のうちにおいてすることさえできたなら、他はいかようにも取り計らい給え。



限りなき宝を失ったという嘆き

 失った宝の大きなことを思うのも悪人の心を食い破る怖ろしい蛆である。「彼等は地獄の苦罰よりも天国の幸いを失った事を一層耐え難く思うのだ」と聖ペトロ・クリソロゴは断言しておられる。

 地獄の悪人は、無上の宝である主を失った次第を考えては、尚更耐え難く思うであろう。自分が主を失ったのは運が悪かったからではない。他人に邪魔されたからでもない。全く自分の失策が原因だ。

 主は自分を天国で楽しませる為に創り、生と死と終わりなき幸福と極まりなき禍とを勝手に選択させて下さった。永遠の幸福を得るのも、失うのも、全く自分の意のままにして下さったのである。

 しからば、自分が今の様になったのは全く自分の責任である。誰も怨みようが無い。

自分の知人で自分と同じような危険の中を通っても、安穏と天国へ辿り着いた者は多い。彼らとて倒れもした、罪も犯した。しかし主の御助けを呼び求めて起ち上がったから、格別怪我は無かった。

それなのに自分ばかりは倒れたら倒れたままでいつまでも罪悪の中に横たわっていたばかりに、こんな始末に立ち至ったのだ。


ああ、なぜあの時、すぐに起ち上がらなかったのだ!なぜあんな所に入り浸っていたのだ!といつまでもしても仕方ない懺悔を繰り返しているのである。

 主よ、その時になってから幾ら血の涙を飲んで悔しがっても済む話ではない。そんな事にならないよう、今から私は全く心を入れ替えて、罪の中をサッサと立ち退きたい。私は一心に主を愛し奉る。思し召しとあらば何事であろうと飛び立って従い奉るであろう。

 もし汚らわしい肉の快楽を求め、夢のような世の栄華を追い回して、その為に天国も天主も棒に振るような馬鹿馬鹿しい事をやっているなら、早く足を洗ってその罪悪の中から飛び退かねばならぬ。いつまでも罪悪にしがみ付いていては、永遠に血の涙を飲んで無益な懺悔をするより他に無い。

 今読んでいる所が、主の最後のご忠告であったらいかん・・・すぐに心を改めず、あいも変わらず罪を犯し続けていて、遂には主に見限られてしまったら、どうする考えなのだろう。

 「ああ私は道を誤った」と後悔しても、地獄に落ち込んでからそれが何の役に立つだろう?今からは悪魔の誘惑に遭うたび毎にすぐさま地獄を思い起こすことにしよう。

「汝の終わりを思え。しからば永遠に罪を犯さじ」(集会の書7-40)と聖霊はおっしやった。そして地獄が怖ろしくなれば、必ず主の御足の下に駆けつけるであろう。聖母マリアの御袖に縋りつくようにもなろう。

 主よ、私はこれまで主を見棄てて汚らわしい罪悪と親しく手を握り合っていた。しかしもう決心した。プツッと罪悪の手を振り切って主の御前にはせ寄り奉る。主よ、私の罪を赦し給え。私を退け給わず、いつまでも御傍に留め置き給え。

ああ罪人の仲介者なる聖母よ、私と御子との和解を取り計らい給え。いつまでも私を御陰の下に護り給え。アーメン。

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