アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
麻生内閣総理大臣 平成二十一年 年頭所感を読みました。
====引用開始====
新年あけましておめでとうございます。
今年は、平成二十一年。今上陛下、御即位二十年であります。国民とともに、心からお祝い申し上げたいと存じます。
この二十年間、日本は、平和と繁栄を続けてまいりました。バブル崩壊、金融危機など、いくつかの困難にも見舞われましたが、国民の力によって、見事に乗り越えてきました。
しかし、アメリカ発の百年に一度と言われる世界的な金融・経済危機が生じています。日本だけが、この「つなみ」から逃れることはできません。しかし、適切な対応をすることにより、被害を最小に抑えることはできます。
国民の皆さんの、景気や生活に対する不安。これを取り除くため、政府は、全力を尽くします。そして、世界の中で、最も早くこの不況から脱するのは、日本です。
振り返れば、日本人は、これまでも、自らの選択と努力によって、日本という国を保守し、変化させながら、発展させてきました。近代に入ってからも、二度の大きな危機に直面しながら、そのたびに、新たな道を切り拓き、驚異的な成功をおさめてきました。
百四十年前。明治の先人たちは、戊辰戦争という内戦の中で、新年を迎えました。しかし、殖産興業を推し進め、欧米列強に屈することなく、肩を並べるまでになりました。
次に、六十年前。昭和の先人たちは、戦争によってすべてを失い、占領下の新年を迎えました。しかし、その後の革新的な努力によって、世界第二位の経済大国をつくりあげました。
「日本」は、「日本人」は、その底力に、もっと自信を持っていい。これまでと同様に、日本という国は、ピンチをチャンスに変える。困難を必ず乗り越えることができると、私は信じています。
私が目指す日本は、「活力」ある日本。「安心」して暮らせる日本です。日本は、これからも、強く明るい国であらねばなりません。
五十年後、百年後の日本が、そして世界が、どうなっているか。未来を予測することは、困難です。
しかし、未来を創るのは、私たち自身です。日本や世界が「どうなるか」ではなく、私たち自身が「どうするか」です。
受け身では、だめです。望むべき未来を切り拓く。そのために、行動を起こさなければなりません。
私は、決して逃げません。国民の皆さんと共に、着実に歩みを進めていきます。
新年にあたり、あらためて、国民の皆さんのご理解とご支援を、お願い申し上げます。
本年が、皆さんお一人お一人にとって、すばらしい一年となりますよう、心よりお祈り申し上げる次第です。
平成二十一年一月一日
内閣総理大臣 麻生太郎
========
私は、カトリック教会の偉大な指導者であったルフェーブル大司教さまのことを思い出しました。
カトリック教会は二〇〇〇年間、繁栄を続けてまいりました。異端の危機、戦争など、いくつかの困難にも見舞われましたが、天主様の御助けと聖人達の努力によって、見事に乗り越えてきました。
しかし、第二バチカン公会議以来の世界的な教会の危機、信仰の危機が生じています。日本だけが、この「つなみ」から逃れることはできません。しかし、適切な対応をすることにより、被害を最小に抑えることはできます。
司祭や司教さまのせいで教会はこのまま「どうなるか」ではなく、私たち自身がカトリック信仰を守らなければなりません。私たち自身はカトリック信仰を守るために何ができるか「どうするか」です。
受け身では、だめです。大切な信仰を守り抜く。そのために、行動を起こさなければなりません。私たちは決して逃げてはなりません。
ルフェーブル大司教さまは、決して逃げませんでした。着実に信仰を守っていきました。
ルフェーブル大司教さまの御言葉をお聞き下さい。
「私たちは、心の底から全霊を上げてカトリックのローマに、すなわちカトリック信仰の保護者でありこの信仰を維持するために必要な聖伝の保護者である永遠のローマ、知恵と真理の師であるローマによりすがる。
私たちは、しかしながら、第二バチカン公会議とそれに由来して公会議後の全ての改革において明らかに現れた公会議新近代主義と新プロテスタント主義の傾向を持つローマに従うのを拒否し、常に拒否した。実に、これら全ての改革はカトリック教会の瓦解と司祭職の崩壊、いけにえと秘蹟の無化、修道生活の消滅、大学・神学校・公教要理における自然主義とテイヤール主義、教会の荘厳教導権によって何度も排斥された自由主義とプロテスタント主義とに由来する教育のために貢献したし、今でも貢献し続けている。
たとえ位階制度の最も高い地位に上げられたものであれ、いかなる権威といえども、十九世紀もの長きにわたって教会の教導職によって明らかに表明され、宣言された私たちのカトリック信仰を棄てる、あるいは減少させるように強制することは出来ない。
聖パウロはこう言っている。「私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとはちがう福音を告げる者にはのろいあれ。」(ガラチア1:8)
これが今日、教皇様が私たちに繰り返し言われることではないだろうか。そしてもしも万が一、教皇様の言葉と行動において、また聖座の諸聖省の文書において、一つでも [過去の教導権との] 矛盾が現れるなら、その時私たちは、常に教えられていたことを選び、私たちは教会を破壊する革新に耳を閉じる。
Lex credendi(信仰の法)を変更することなく les orandi(祈りの法)を深く変更させることは出来ない。新しいミサは新しい要理と新しい司祭職に対応し、新しい神学校、新しい大学、カリスマ運動的教会、聖霊降臨運動的な教会、また正統と常なる教導職とに対立する全てに対応している。
この改革は、自由主義と近代主義とに由来するが故に、その全てに毒が含まれている。これは異端から生み出され異端へと辿り着く。良心的で忠実な全てのカトリック信者にとってこの改革を受け入れ、なにがしらであれそれに従うことは出来ない。
私たちの霊魂の救いのために、教会とカトリックの教えとに忠実である唯一の態度は、改革を受け入れることを断固として拒否することである。
それ故、いかなる反乱も、苦々しさも、憎悪もなく、私たちは常なる教導職の星の導きの元、司祭養成の事業を続ける。私たちは聖なるカトリック教会のために、教皇様のために、そして未来の世代のために、これよりも偉大な奉仕をすることが出来ないと確信している。
それ故、聖伝の真理の光が永遠のローマの空を暗くしている暗闇を追い払う日を待ちながら、私たちは、永遠の教会によって過去信じられていたこと、信仰と道徳と礼拝、公教要理の教え、司祭の養成、教会の諸施設において実践されていたこと、公会議の近代主義の影響を受ける前に出版された本の中に法定化されたことを全て固く保持する。
天主の聖寵と、童貞聖マリア・聖ヨゼフ・聖ピオ十世の御助けによって、こうすることによって、私たちはローマ・カトリック教会に忠実であり、ペトロの全ての後継者に忠実に留まり、fideles dispensatores mysteriorum Domini Nostri Jesu Christi in Spiritu Santo(聖霊において私たちの主イエズス・キリストの玄義の忠実な奉仕者)となることができると確信している。アーメン。」
(私たちはカトリックのローマに、聖伝の保護者である永遠のローマによりすがる)
「私たちは今、本当に劇的な状況にいます。私たちは、選ばなければなりません。敢えて言えば見かけ上の不従順か、あるいは私たちの信仰を捨てるかのどちらかです。ところで、教皇様は私たちに信仰を捨てるようにと命じることは出来ません。それは不可能です。ですから私たちは、信仰を捨てないことを選びます。なぜなら、そうすることによって私たちは間違うことがないからです。なぜなら、教会が2000年間教えてきたのです。教会がその間ずっと誤っていたと言うことはありえません。全くありえません。」
(ルフェーブル大司教の説教 1976年6月29日)
ルフェーブル大司教さまは、聖伝のミサが禁止されたと全世界が騙されていたとき、一人で聖ピオ五世の大勅令を信じていました。
「聖伝のミサは禁止されていないし、禁止され得ないのです。・・・ このことから、もしもある司祭が、聖伝のミサのためにカトリック教会法典の制裁を受けたとしたら、或いは破門されたとしたら、この排斥は絶対的に無効です。・・・ 私たちは、聖伝のミサを全く良心の平安の内に捧げることが出来ますし、カトリック信徒たちも、何らの心配もなく、これこそが信仰を維持するための最善の方法であるという確信の内にこれに与ることが出来ます。
(教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ ルフェーブル大司教の公開書簡 その20)
「私たちは教会から離れたくありません。その全く反対です。私たちは、カトリック教会を続けたいのです! 自分の過去と断絶してしまった教会、それはカトリック教会ではありません。・・・ 将来、真理が再び明らかになることでしょう。私たちはそれを確信しています。それ以外では有り得ないからです。天主様は、ご自分の教会をお見捨てにはならないからです。」
(ジュネーブにおいての説教1978年5月15日)
新年にあたり、あらためて、愛する兄弟姉妹の皆様のご理解とご支援とお祈りを、お願い申し上げます。
本年が、愛する兄弟姉妹の皆様のお一人お一人にとって、天主様の祝福に満たされたよき一年となりますよう、心よりお祈り申し上げます。
【関連記事】
愛する兄弟姉妹の皆様、
麻生内閣総理大臣 平成二十一年 年頭所感を読みました。
====引用開始====
新年あけましておめでとうございます。
今年は、平成二十一年。今上陛下、御即位二十年であります。国民とともに、心からお祝い申し上げたいと存じます。
この二十年間、日本は、平和と繁栄を続けてまいりました。バブル崩壊、金融危機など、いくつかの困難にも見舞われましたが、国民の力によって、見事に乗り越えてきました。
しかし、アメリカ発の百年に一度と言われる世界的な金融・経済危機が生じています。日本だけが、この「つなみ」から逃れることはできません。しかし、適切な対応をすることにより、被害を最小に抑えることはできます。
国民の皆さんの、景気や生活に対する不安。これを取り除くため、政府は、全力を尽くします。そして、世界の中で、最も早くこの不況から脱するのは、日本です。
振り返れば、日本人は、これまでも、自らの選択と努力によって、日本という国を保守し、変化させながら、発展させてきました。近代に入ってからも、二度の大きな危機に直面しながら、そのたびに、新たな道を切り拓き、驚異的な成功をおさめてきました。
百四十年前。明治の先人たちは、戊辰戦争という内戦の中で、新年を迎えました。しかし、殖産興業を推し進め、欧米列強に屈することなく、肩を並べるまでになりました。
次に、六十年前。昭和の先人たちは、戦争によってすべてを失い、占領下の新年を迎えました。しかし、その後の革新的な努力によって、世界第二位の経済大国をつくりあげました。
「日本」は、「日本人」は、その底力に、もっと自信を持っていい。これまでと同様に、日本という国は、ピンチをチャンスに変える。困難を必ず乗り越えることができると、私は信じています。
私が目指す日本は、「活力」ある日本。「安心」して暮らせる日本です。日本は、これからも、強く明るい国であらねばなりません。
五十年後、百年後の日本が、そして世界が、どうなっているか。未来を予測することは、困難です。
しかし、未来を創るのは、私たち自身です。日本や世界が「どうなるか」ではなく、私たち自身が「どうするか」です。
受け身では、だめです。望むべき未来を切り拓く。そのために、行動を起こさなければなりません。
私は、決して逃げません。国民の皆さんと共に、着実に歩みを進めていきます。
新年にあたり、あらためて、国民の皆さんのご理解とご支援を、お願い申し上げます。
本年が、皆さんお一人お一人にとって、すばらしい一年となりますよう、心よりお祈り申し上げる次第です。
平成二十一年一月一日
内閣総理大臣 麻生太郎
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私は、カトリック教会の偉大な指導者であったルフェーブル大司教さまのことを思い出しました。
カトリック教会は二〇〇〇年間、繁栄を続けてまいりました。異端の危機、戦争など、いくつかの困難にも見舞われましたが、天主様の御助けと聖人達の努力によって、見事に乗り越えてきました。
しかし、第二バチカン公会議以来の世界的な教会の危機、信仰の危機が生じています。日本だけが、この「つなみ」から逃れることはできません。しかし、適切な対応をすることにより、被害を最小に抑えることはできます。
司祭や司教さまのせいで教会はこのまま「どうなるか」ではなく、私たち自身がカトリック信仰を守らなければなりません。私たち自身はカトリック信仰を守るために何ができるか「どうするか」です。
受け身では、だめです。大切な信仰を守り抜く。そのために、行動を起こさなければなりません。私たちは決して逃げてはなりません。
ルフェーブル大司教さまは、決して逃げませんでした。着実に信仰を守っていきました。
ルフェーブル大司教さまの御言葉をお聞き下さい。
「私たちは、心の底から全霊を上げてカトリックのローマに、すなわちカトリック信仰の保護者でありこの信仰を維持するために必要な聖伝の保護者である永遠のローマ、知恵と真理の師であるローマによりすがる。
私たちは、しかしながら、第二バチカン公会議とそれに由来して公会議後の全ての改革において明らかに現れた公会議新近代主義と新プロテスタント主義の傾向を持つローマに従うのを拒否し、常に拒否した。実に、これら全ての改革はカトリック教会の瓦解と司祭職の崩壊、いけにえと秘蹟の無化、修道生活の消滅、大学・神学校・公教要理における自然主義とテイヤール主義、教会の荘厳教導権によって何度も排斥された自由主義とプロテスタント主義とに由来する教育のために貢献したし、今でも貢献し続けている。
たとえ位階制度の最も高い地位に上げられたものであれ、いかなる権威といえども、十九世紀もの長きにわたって教会の教導職によって明らかに表明され、宣言された私たちのカトリック信仰を棄てる、あるいは減少させるように強制することは出来ない。
聖パウロはこう言っている。「私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとはちがう福音を告げる者にはのろいあれ。」(ガラチア1:8)
これが今日、教皇様が私たちに繰り返し言われることではないだろうか。そしてもしも万が一、教皇様の言葉と行動において、また聖座の諸聖省の文書において、一つでも [過去の教導権との] 矛盾が現れるなら、その時私たちは、常に教えられていたことを選び、私たちは教会を破壊する革新に耳を閉じる。
Lex credendi(信仰の法)を変更することなく les orandi(祈りの法)を深く変更させることは出来ない。新しいミサは新しい要理と新しい司祭職に対応し、新しい神学校、新しい大学、カリスマ運動的教会、聖霊降臨運動的な教会、また正統と常なる教導職とに対立する全てに対応している。
この改革は、自由主義と近代主義とに由来するが故に、その全てに毒が含まれている。これは異端から生み出され異端へと辿り着く。良心的で忠実な全てのカトリック信者にとってこの改革を受け入れ、なにがしらであれそれに従うことは出来ない。
私たちの霊魂の救いのために、教会とカトリックの教えとに忠実である唯一の態度は、改革を受け入れることを断固として拒否することである。
それ故、いかなる反乱も、苦々しさも、憎悪もなく、私たちは常なる教導職の星の導きの元、司祭養成の事業を続ける。私たちは聖なるカトリック教会のために、教皇様のために、そして未来の世代のために、これよりも偉大な奉仕をすることが出来ないと確信している。
それ故、聖伝の真理の光が永遠のローマの空を暗くしている暗闇を追い払う日を待ちながら、私たちは、永遠の教会によって過去信じられていたこと、信仰と道徳と礼拝、公教要理の教え、司祭の養成、教会の諸施設において実践されていたこと、公会議の近代主義の影響を受ける前に出版された本の中に法定化されたことを全て固く保持する。
天主の聖寵と、童貞聖マリア・聖ヨゼフ・聖ピオ十世の御助けによって、こうすることによって、私たちはローマ・カトリック教会に忠実であり、ペトロの全ての後継者に忠実に留まり、fideles dispensatores mysteriorum Domini Nostri Jesu Christi in Spiritu Santo(聖霊において私たちの主イエズス・キリストの玄義の忠実な奉仕者)となることができると確信している。アーメン。」
(私たちはカトリックのローマに、聖伝の保護者である永遠のローマによりすがる)
「私たちは今、本当に劇的な状況にいます。私たちは、選ばなければなりません。敢えて言えば見かけ上の不従順か、あるいは私たちの信仰を捨てるかのどちらかです。ところで、教皇様は私たちに信仰を捨てるようにと命じることは出来ません。それは不可能です。ですから私たちは、信仰を捨てないことを選びます。なぜなら、そうすることによって私たちは間違うことがないからです。なぜなら、教会が2000年間教えてきたのです。教会がその間ずっと誤っていたと言うことはありえません。全くありえません。」
(ルフェーブル大司教の説教 1976年6月29日)
ルフェーブル大司教さまは、聖伝のミサが禁止されたと全世界が騙されていたとき、一人で聖ピオ五世の大勅令を信じていました。
「聖伝のミサは禁止されていないし、禁止され得ないのです。・・・ このことから、もしもある司祭が、聖伝のミサのためにカトリック教会法典の制裁を受けたとしたら、或いは破門されたとしたら、この排斥は絶対的に無効です。・・・ 私たちは、聖伝のミサを全く良心の平安の内に捧げることが出来ますし、カトリック信徒たちも、何らの心配もなく、これこそが信仰を維持するための最善の方法であるという確信の内にこれに与ることが出来ます。
(教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ ルフェーブル大司教の公開書簡 その20)
「私たちは教会から離れたくありません。その全く反対です。私たちは、カトリック教会を続けたいのです! 自分の過去と断絶してしまった教会、それはカトリック教会ではありません。・・・ 将来、真理が再び明らかになることでしょう。私たちはそれを確信しています。それ以外では有り得ないからです。天主様は、ご自分の教会をお見捨てにはならないからです。」
(ジュネーブにおいての説教1978年5月15日)
新年にあたり、あらためて、愛する兄弟姉妹の皆様のご理解とご支援とお祈りを、お願い申し上げます。
本年が、愛する兄弟姉妹の皆様のお一人お一人にとって、天主様の祝福に満たされたよき一年となりますよう、心よりお祈り申し上げます。
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