聖ピオ十世会の中心:ミサ聖祭
会則によって定められている兄弟会(以下聖ピオ十世会)の目標とは“司祭職”である。
司祭職というこの莫大なプログラムは、つぎの精神によって明らかにされる。
「司祭の生活を、司祭の存在理由の本質的なこと、つまりミサの聖なるいけにえへと方向付け実現しなければならない。」(II, 1-2)
「聖ピオ十世会は、特に司祭であるイエズスの御保護の下に置かれている。それは、我らの聖主の全存在が生涯にわたって司祭的であったからであり司祭的であるからである。さらには十字架の犠牲こそが彼の御托身の理由だったからである。従って、“私にとって生きるのはキリストである(フィリッピ人、1.24)”が正に現実のものである聖ピオ十世会の会員たちは、聖主の御受難の延長であるミサの聖なる犠牲へと全てを方向付けて生きる(Ⅰ,3)。」
「聖ピオ十世会は、最高の司祭である方の御母である聖母マリア、またこの最高の司祭を通して全司祭の母となったマリアの御保護の下にある。マリアは、全ての司祭において御子を形作る。マリアは司祭たちに対して、彼らが召された司祭職の開花にとって必要条件となる童貞性に対する深い動機を発見させる(Ⅰ,4)。」
これに続いて、「私たちの罪の贖いのための司祭でありいけにえなるイエズスへの同情において」また「御自身の奉献に常に現存しておられる」聖母マリアにたいする「熱烈な信心を」(VI, 3) 聖ピオ十世会の会員はもつのである。
司祭の全生涯‐彼らの知識、敬虔、ならびに様々な活動‐はその中心をミサ聖祭に置いている。
ミサの聖なる犠牲に関する「深遠な」、つまり「神秘的な」、「神学的知識は、この至高な現実において、全啓示、信仰の神秘、御托身と贖罪の玄義の完成、使徒職の全ての効果が、実現させるということを、ますます会員たちに確信させるだろう(Ⅱ.3)。」
「神学と司牧活動の中心、さらにカトリック教会の生命の中心である聖なるミサの典礼に、彼らの信心が向けられ、そこからさらにこの信心が湧き起こるようにさせるため、私たちは何事も怠るべきではない(Ⅲ.1)。」
聖ピオ十世会は「本質的には使徒的である。なぜなら聖なるミサの犠牲も使徒的 だからである(Ⅰ,2)。」
したがって、ミサとは司祭たちにとって、己の聖化の源、十字架の生贄なるキリストとの一致の泉、さらにいとも尊き御血を霊魂たちの上に注がんとする情熱の源泉なのである。ルフェーブル大司教は将来の“霊的かつ司牧的な訓令集”に、この教義を発展させることを残しながらも、会の司祭たちに対しては自分が彼らを修道者にする必要性を感じないのかをしばしば説明した。つまり、彼は、聖ヨハネ・ユードに似て、司祭たちが持つただその尊厳の中に、つまり彼らを修道者よりも上位に位置づける品級の中に、修道者以上に、みずからをより大いなる完徳にまで上る理由と手段とを見出すと確信しているからである。彼は司祭職ならびに司祭職の要求する聖性に対する高い理想こそが、神学生たちを養成するための最も効果的な手段であると考えた。
事実、このようなことが、聖ピオ十世会の活動の第一位を占めている。すなわち「司祭養成の全ての職務とそれに付随するすべてのこと」である。従って、神学生たちは、彼らが聖ピオ十世会の神学生であろうがなかろうが、この司祭養成が“その主要な目標である、司祭の聖性と同時に十分な知識” に達するように心掛けなければならない(Ⅲ.1)。
だからこそ当会は聖ピオ十世の御保護に委ねられたのである。何故ならこの聖教皇の最大の配慮とは、司祭職の完全性とそこから生じる聖性であったからである 。
「歴代の諸教皇と公会議によってあまりにも頻繁に繰り返された願望と助言に従って、聖トマスの神学大全と彼の哲学的諸原則は当会神学校における学業の主要科目になるだろう。従って神学生たちは、近代の誤謬を、殊に自由主義とそこから派生するあらゆる思想を注意深く避けるだろう(Ⅲ.1)。」
神学校での司祭養成の任務に加えて、聖ピオ十世会は、黙想会指導や、老司祭たちの世話、それどころか、落ちぶれた司祭がたの更生援助を通して 、司祭たちを聖化する仕事が加わる。真のカトリック学校が奨励され、聖ピオ十世会のメンバーたちによって創設されるだろうが、当初は当会がこれらの学校を実際に経営するとは予見されていなかった(後に起こる出来事によりこれは現実となった)。これらのカトリック学校からこそ、「数々の召命とキリスト教的家庭が現れるであろう。」最後に、聖ピオ十世会の司祭たちは、教区の司牧と小教区の時節にあった黙想会 (missions) の説教に身を捧げるだろう(III, 4-5)。
ルブランド (Loublande) の考えを取り入れ、それを拡張しながら、当会会則はまた、“ミサの聖なる犠牲の執行と聖体礼拝、さらにその修道院内での黙想会指導などに専門化された、より観想的性格を備えた共同体”を予見した(Ⅶ, 5)。
聖ピオ十世会には、司祭と神学生の他にも「天主が彼らを奮起させるならば」、「修道者と同様の会員たち」だけではなく、当会と提携した修道女たちも含まれるであろう(Ⅱ.4)。 当会は「祭壇への奉仕のための援助という召命が有する偉大さと高貴さ」の意味を説き聞かせようと勤める(Ⅲ.3)。
聖ピオ十世会のメンバーに勧められている聖徳の数々は、第一に「天主への大いなる愛」、つまり「純潔と清貧をひとりでに生み出す程」の愛徳、並びに「信仰を通して、また迅速で寛大、そして愛に満ちた従順を通して、自己を与え尽くすこと(Ⅵ.1)」、さらに「常に変わらぬ気質の平静さと周囲に伝染し易い喜びから生ずる単純かつ率直な心(Ⅵ.5)」である。清貧の徳は、喫煙やテレビ視聴が引き起こす「奴隷状態」を粉砕するだろう:「私たちに当てはまる本当のテレビとは、聖櫃である(Ⅵ.7)」
この同じ愛徳こそが、天主に対する正義の徳への飢えと渇きを引き起こす。換言すれば、何よりも先ず「いとも崇高なキリスト教的祈りの行為」である、ミサ聖祭の聖なる犠牲に与り、敬神徳(the virtue of religion)の実践に飢え渇きを募らせるはずである。さらに敬神徳はスータンの着用によっても表わされるだろう。このスータンとは正に「証明であり、説教なのである。スータンは悪霊とその追従者を寄せ付けはしない。スータンは高潔な天主を敬う霊魂たちをひきつける。スータンによって使徒職は大いに促進される(Ⅵ.6)。」
聖ピオ十世会のメンバーたちの生涯と密接に関連し、上に述べたようにそれを導くこの愛徳は、「私たちの聖主イエズス・キリストに似た屈辱と試練という犠牲を払ってまで「霊魂の救いを熱望し」、謙遜、親切、慎ましさ、さらに犠牲をいとわない寛大さ(magnanimity)によって霊魂を勝ち取るために、使徒的(apostolic)であるべきである(Ⅵ.4)。」4回にわたる共同の祈りを含む共同生活は、当会の意欲的なメンバーと、その他全てのメンバーたちとの両方にとって規範である。それは“兄弟的愛徳を実践するための機会”となるのである。
聖ピオ十世会会則の解釈が、ルフェーブル大司教自身だけの特別な霊性を何も指し示していない事は疑いの余地はない。なぜなら、共同生活に囲まれた、使徒的愛徳の源泉としての祭壇、この祭壇を中心にする存在ということは、創立者の持つ“個人の思想”について語る事が私たちにはできないほど、聖職者たちの聖伝に深く根をおき過ぎるからである。
大司教は後年良く言っていたものである。
「もし私が常に捜し求めて来たものがあるとしたら、それは個人的思想がないという事です。なぜなら私たちにはカトリック教会の思想があるからです!皆さんに以前伝えたように、私はカトリック教会の霊性、この霊性以外のどんな並外れた霊性も押しつける気はありません。このカトリック教会の霊性とは、言い換えれば、聖トマスが神学大全の中でそれを理解している霊性であり、聖徳の実践をはじめ、信仰に関する様々な真理、超自然徳、さらに至福八端に基礎を置く霊性です。それに従って私たちの霊的生活は正常に機能するその霊性です。 」
ルフェーブル大司教は晩年になって、御自分の子供である司祭たちに向かい、如何に聖ピオ十世会が創立されるに至ったかを思い起こさせた。そしてこの事柄をことさらに強調された。
「当会は反対と対立の精神によって生まれたのではありません。全く違います。それよりはるかにかけ離れたものによって創立されました。聖ピオ十世会は、カトリック教会の業が誕生するようにして創立されたのです。すなわち、司祭職の良い養成を確保するための緊急な必要性から誕生したのです。・・・私は解決策を探しました。御摂理はフリブールにこの神学校を創立する事をお許しになりました。その後、司祭職を守るという目的で、この取るに足りないグループに聖ピオ十世会が与えられました。そして、神学校がフリブールからエコンへと移設したのです。」
【聖ピオ十世司祭兄弟会 (FSSPX) 創立者 ルフェーブル大司教 伝記 目次】
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会則によって定められている兄弟会(以下聖ピオ十世会)の目標とは“司祭職”である。
司祭職というこの莫大なプログラムは、つぎの精神によって明らかにされる。
「司祭の生活を、司祭の存在理由の本質的なこと、つまりミサの聖なるいけにえへと方向付け実現しなければならない。」(II, 1-2)
「聖ピオ十世会は、特に司祭であるイエズスの御保護の下に置かれている。それは、我らの聖主の全存在が生涯にわたって司祭的であったからであり司祭的であるからである。さらには十字架の犠牲こそが彼の御托身の理由だったからである。従って、“私にとって生きるのはキリストである(フィリッピ人、1.24)”が正に現実のものである聖ピオ十世会の会員たちは、聖主の御受難の延長であるミサの聖なる犠牲へと全てを方向付けて生きる(Ⅰ,3)。」
「聖ピオ十世会は、最高の司祭である方の御母である聖母マリア、またこの最高の司祭を通して全司祭の母となったマリアの御保護の下にある。マリアは、全ての司祭において御子を形作る。マリアは司祭たちに対して、彼らが召された司祭職の開花にとって必要条件となる童貞性に対する深い動機を発見させる(Ⅰ,4)。」
これに続いて、「私たちの罪の贖いのための司祭でありいけにえなるイエズスへの同情において」また「御自身の奉献に常に現存しておられる」聖母マリアにたいする「熱烈な信心を」(VI, 3) 聖ピオ十世会の会員はもつのである。
司祭の全生涯‐彼らの知識、敬虔、ならびに様々な活動‐はその中心をミサ聖祭に置いている。
ミサの聖なる犠牲に関する「深遠な」、つまり「神秘的な」、「神学的知識は、この至高な現実において、全啓示、信仰の神秘、御托身と贖罪の玄義の完成、使徒職の全ての効果が、実現させるということを、ますます会員たちに確信させるだろう(Ⅱ.3)。」
「神学と司牧活動の中心、さらにカトリック教会の生命の中心である聖なるミサの典礼に、彼らの信心が向けられ、そこからさらにこの信心が湧き起こるようにさせるため、私たちは何事も怠るべきではない(Ⅲ.1)。」
聖ピオ十世会は「本質的には使徒的である。なぜなら聖なるミサの犠牲も使徒的 だからである(Ⅰ,2)。」
したがって、ミサとは司祭たちにとって、己の聖化の源、十字架の生贄なるキリストとの一致の泉、さらにいとも尊き御血を霊魂たちの上に注がんとする情熱の源泉なのである。ルフェーブル大司教は将来の“霊的かつ司牧的な訓令集”に、この教義を発展させることを残しながらも、会の司祭たちに対しては自分が彼らを修道者にする必要性を感じないのかをしばしば説明した。つまり、彼は、聖ヨハネ・ユードに似て、司祭たちが持つただその尊厳の中に、つまり彼らを修道者よりも上位に位置づける品級の中に、修道者以上に、みずからをより大いなる完徳にまで上る理由と手段とを見出すと確信しているからである。彼は司祭職ならびに司祭職の要求する聖性に対する高い理想こそが、神学生たちを養成するための最も効果的な手段であると考えた。
事実、このようなことが、聖ピオ十世会の活動の第一位を占めている。すなわち「司祭養成の全ての職務とそれに付随するすべてのこと」である。従って、神学生たちは、彼らが聖ピオ十世会の神学生であろうがなかろうが、この司祭養成が“その主要な目標である、司祭の聖性と同時に十分な知識” に達するように心掛けなければならない(Ⅲ.1)。
だからこそ当会は聖ピオ十世の御保護に委ねられたのである。何故ならこの聖教皇の最大の配慮とは、司祭職の完全性とそこから生じる聖性であったからである 。
「歴代の諸教皇と公会議によってあまりにも頻繁に繰り返された願望と助言に従って、聖トマスの神学大全と彼の哲学的諸原則は当会神学校における学業の主要科目になるだろう。従って神学生たちは、近代の誤謬を、殊に自由主義とそこから派生するあらゆる思想を注意深く避けるだろう(Ⅲ.1)。」
神学校での司祭養成の任務に加えて、聖ピオ十世会は、黙想会指導や、老司祭たちの世話、それどころか、落ちぶれた司祭がたの更生援助を通して 、司祭たちを聖化する仕事が加わる。真のカトリック学校が奨励され、聖ピオ十世会のメンバーたちによって創設されるだろうが、当初は当会がこれらの学校を実際に経営するとは予見されていなかった(後に起こる出来事によりこれは現実となった)。これらのカトリック学校からこそ、「数々の召命とキリスト教的家庭が現れるであろう。」最後に、聖ピオ十世会の司祭たちは、教区の司牧と小教区の時節にあった黙想会 (missions) の説教に身を捧げるだろう(III, 4-5)。
ルブランド (Loublande) の考えを取り入れ、それを拡張しながら、当会会則はまた、“ミサの聖なる犠牲の執行と聖体礼拝、さらにその修道院内での黙想会指導などに専門化された、より観想的性格を備えた共同体”を予見した(Ⅶ, 5)。
聖ピオ十世会には、司祭と神学生の他にも「天主が彼らを奮起させるならば」、「修道者と同様の会員たち」だけではなく、当会と提携した修道女たちも含まれるであろう(Ⅱ.4)。 当会は「祭壇への奉仕のための援助という召命が有する偉大さと高貴さ」の意味を説き聞かせようと勤める(Ⅲ.3)。
聖ピオ十世会のメンバーに勧められている聖徳の数々は、第一に「天主への大いなる愛」、つまり「純潔と清貧をひとりでに生み出す程」の愛徳、並びに「信仰を通して、また迅速で寛大、そして愛に満ちた従順を通して、自己を与え尽くすこと(Ⅵ.1)」、さらに「常に変わらぬ気質の平静さと周囲に伝染し易い喜びから生ずる単純かつ率直な心(Ⅵ.5)」である。清貧の徳は、喫煙やテレビ視聴が引き起こす「奴隷状態」を粉砕するだろう:「私たちに当てはまる本当のテレビとは、聖櫃である(Ⅵ.7)」
この同じ愛徳こそが、天主に対する正義の徳への飢えと渇きを引き起こす。換言すれば、何よりも先ず「いとも崇高なキリスト教的祈りの行為」である、ミサ聖祭の聖なる犠牲に与り、敬神徳(the virtue of religion)の実践に飢え渇きを募らせるはずである。さらに敬神徳はスータンの着用によっても表わされるだろう。このスータンとは正に「証明であり、説教なのである。スータンは悪霊とその追従者を寄せ付けはしない。スータンは高潔な天主を敬う霊魂たちをひきつける。スータンによって使徒職は大いに促進される(Ⅵ.6)。」
聖ピオ十世会のメンバーたちの生涯と密接に関連し、上に述べたようにそれを導くこの愛徳は、「私たちの聖主イエズス・キリストに似た屈辱と試練という犠牲を払ってまで「霊魂の救いを熱望し」、謙遜、親切、慎ましさ、さらに犠牲をいとわない寛大さ(magnanimity)によって霊魂を勝ち取るために、使徒的(apostolic)であるべきである(Ⅵ.4)。」4回にわたる共同の祈りを含む共同生活は、当会の意欲的なメンバーと、その他全てのメンバーたちとの両方にとって規範である。それは“兄弟的愛徳を実践するための機会”となるのである。
聖ピオ十世会会則の解釈が、ルフェーブル大司教自身だけの特別な霊性を何も指し示していない事は疑いの余地はない。なぜなら、共同生活に囲まれた、使徒的愛徳の源泉としての祭壇、この祭壇を中心にする存在ということは、創立者の持つ“個人の思想”について語る事が私たちにはできないほど、聖職者たちの聖伝に深く根をおき過ぎるからである。
大司教は後年良く言っていたものである。
「もし私が常に捜し求めて来たものがあるとしたら、それは個人的思想がないという事です。なぜなら私たちにはカトリック教会の思想があるからです!皆さんに以前伝えたように、私はカトリック教会の霊性、この霊性以外のどんな並外れた霊性も押しつける気はありません。このカトリック教会の霊性とは、言い換えれば、聖トマスが神学大全の中でそれを理解している霊性であり、聖徳の実践をはじめ、信仰に関する様々な真理、超自然徳、さらに至福八端に基礎を置く霊性です。それに従って私たちの霊的生活は正常に機能するその霊性です。 」
ルフェーブル大司教は晩年になって、御自分の子供である司祭たちに向かい、如何に聖ピオ十世会が創立されるに至ったかを思い起こさせた。そしてこの事柄をことさらに強調された。
「当会は反対と対立の精神によって生まれたのではありません。全く違います。それよりはるかにかけ離れたものによって創立されました。聖ピオ十世会は、カトリック教会の業が誕生するようにして創立されたのです。すなわち、司祭職の良い養成を確保するための緊急な必要性から誕生したのです。・・・私は解決策を探しました。御摂理はフリブールにこの神学校を創立する事をお許しになりました。その後、司祭職を守るという目的で、この取るに足りないグループに聖ピオ十世会が与えられました。そして、神学校がフリブールからエコンへと移設したのです。」
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