アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
第3回アシジ集会の予告を知らされ、私たちはもう一度、教皇ピオ11世の回勅「Mortalium animos 真実の宗教の一致について」(1928年1月6日)を読むことを提案します。
==引用開始==
ある人達は「宗教的感覚を完全に失ってしまった人は極めてまれである」と確信しています。そして、この確信を基礎に、諸民族を、その宗教の違いにもかかわらず、宗教生活の共通の基礎として認められる幾つかの教義を兄弟的に認めあうまでもって行くことが、容易にできるという希望を養っているようです。ですから、彼らはかなり多くの聴衆者が出入りする会合、集会、講演会などを開いています。彼らは全ての人々を区別無く、ありとあらゆる種類の不信者、信者、更に不幸なことにキリストから離れ苦々しくそして頑固にキリストの神性とその使命を否定するものまでもその公演に招待しています。
このような骨折りにたいして、カトリック信者はいかなる賛同をも与えてはなりません。何故かというと、彼らの活動が“全ての宗教は、たとえ形は違っていても、全て等しく、私たちを天主に導き、私たちをして天主の力の前に尊敬を持って屈めさせる自然の生まれつきの感情を表している”という意味で“どの様な宗教でも、多かれ少なかれ、良いものであり称賛すべきである”という、間違った考えに基づいているからです。
彼らは、ただ単に誤謬のうちに迷い込んでいるだけではありません。この誤りを支持しつつ、彼らは、宗教に関する本当の観念を歪め、同時にそれを拒んでいるのです。そうして彼らは、[どんな宗教でも同じだという]宗教に関する誤った考えを持ち、少しずつ[真の宗教に関する問題よりも、この地上のことを重視する]超自然否定主義(naturalism)そして、[真の宗教も、真の天主もないのだという]無神論へと歩んでいます。ですから、このような誤った教えの賛同者となり宣伝者に合同することは、天主によって啓示された宗教[すなわちカトリック教]を全く打ち捨てることであるということは完全に明らかです。
3 しかしながら、それが全てのキリスト者の一致を促進させることとなりますと、より簡単に多くの霊魂たちは、この達成すべき目標の素晴らしさに魅せられて、誤った道に引きずり込まれてしまいます。
よく耳にすることですが、『全てキリストの聖名を呼び求めるものが、相互の非難をやめて、互いの愛によって遂に一致するのが正しく、更に義務ではないか? もし誰かが、キリストを愛していると言いながらも、主が御父に願った、ご自分の弟子らが一つであるように(ヨハネ17:21)とのキリストご自身の願いを実現させるため、全ての力を尽くして追求せずに、どうしてキリストを愛するなどとあえて主張できるのか。キリストは、ご自分の弟子らが、その他の人々から相互の愛の印によって印され区別されることを願われたではないか。主曰く“全ての人々は、もしあなたたちが互いに愛するなら、これによってあなたたちがわたしの弟子であると知るだろう”(ヨハネ13:35)と。願わくは、全てのキリスト者が一つであるように。何故なら、現代、日々、一層ひどく不敬虔の毒は広がり、福音の壊滅を準備しているからだ。そのさなかに、この一致によって、この不敬虔の毒を、より一層効果的に排斥できるではないか』と。
これや、これと似たようなことを、[教派に偏らず、福音の教えを純粋に伝えると主張する]『汎キリスト者』と呼ばれる人々が常に教えています。ところで、このような人々が数少なくまれでバラバラな個人に過ぎない、と思うのは大間違いです。彼らは、信仰の真理に関していろいろな人々がいるにもかかわらず、完全な組織を幾つも作り、非カトリック者が指導する会をあらゆるところに創立しています。この事業はさまざまなところで好感を得、更に、多くのカトリック信者の好感さえも勝ち取る程に活発に活動しています。何故なら、この事業が、私たちの母なる聖なる公教会の願いに沿った一致を実現できるという、見かけ上の希望を提示しているからです。確かに、公教会は道に迷った自分の子らを、自分の胸元に呼び戻し連れ戻したいということをひたすら願っています。しかし、これらの美しく魅惑的な言葉の下に、間違いなく、最も危険でカトリック信仰の基盤をそこから覆す誤謬が滑り込んでいます。
4 私の持つ使徒継承の責務は、主の羊の群れを迷わしに来る、かの危険な誤謬を禁止することです。そのため、尊敬する兄弟たちよ、私は自分の責務を良心に従って果たすため、このような悪を予防するようにと、諸君の熱心に呼びかけます。私は、諸君の書物により、また言葉により、それぞれが信者たちに私がこれから説明する原理と理由を容易に理解させることができると確信しています。カトリック信者は、諸君の努力により、「キリスト者という名を自称する全ての人々を、まぜこぜの一致であろうと、一つの体にまとめることを目指す事業」に対して、一体どの様な見解と、どの様な行動をとったらよいか、を知ることができるでしょう。(中略)
7 この全ての問題の基礎にある、そして、私が上述したようにキリスト教の諸教会を連合させるための非カトリック者の多くの活動と努力が出てくる、その誤謬を示し、それに反論する時が来ました。
この計画の作者らは、キリストのこの御言葉を引用するのを常とします。『全てが一つになるように。一つの群れ、一つの牧者となるだろう』(ヨハネ17:21,10:16)と。
あたかも彼らによれば、キリスト・イエズスの祈りと長いが今に至るまで死文書となっていたかのように、彼らは「唯一の真の教会の性質である信仰と統治の一致が、今に至るまでほとんど存在したことも無く今も存在していない」ということを、「本当のことを言えば、それを願い、時としては共通の意志の疎通により実現できるのだが、しかし、それはやはり一種のユートピアとして考えるべきである」ということを支持しています。
彼らは加えてこういうのです。『教会はそれ自体その本性からして分かれている。即ち、教会は、教義のうえでいくらかの共通点を持ちながらも、その他の点でそれぞれ異なる更に細分化された多くの教会、又は、個別の共同体によって構成されている。そしてそれぞれの教会は、同じ権利を享受する。特に使徒の時代から最初の幾つかの公会議までは、教会は一つであり唯一だった。そこで、たとえ最も古くからの論争であれ、教義の違いであれ、今日までこれらの教会を分裂し続けているものは、忘れ取り去らねばならない。更に別の教義上の真理とともに、共通の信仰の確かな基準を提示し、築き上げなければならない。この信仰宣言において、彼らは自分たちが知る以上に、互いが兄弟であると感じるようになるだろう。更に、さまざまな教会や共同体が、一度、全世界的な一種の連邦を結べば不敬虔の進歩に対抗して力強く勝利を勝ち取るとるために戦うことができるようになるだろう。…』
8 これが、尊敬する兄弟たちよ、皆が繰り返し説くところです。しかし中には、『プロテスタント主義が、慰めになり有益な、いくらかの教義あるいは何らかの外的儀式をあまりにも良く考えもせずに、捨ててしまったが、ローマ教会はそれをまだ保持している』と説き、譲歩する者たちもいます。
実のところ彼らは、この(ローマ)教会自身が、福音に反するというよりも、むしろ『福音に幾らかそぐわない幾つかの教えを付け加え、信者にそれを信じるように押し付けたので、初代の宗教から迷い腐敗した』とあわてて言い足しています。
彼らはそれらの付け加えられた教えとしていろいろある中で、特に、ペトロとローマ司教座に於けるその後継者たちに帰せられた裁治権の首位性を挙げています。彼らのうちで僅かに少数はローマ司教に名誉上の首位を、あるいは裁治権か権威の権能を幾らか譲歩することに同意はします。しかし、この首位権は神権に基づくものではなく、『信者たちのなんらかの同意から得られたところである』とします。他の者たちは、『雑種の』と呼べる彼らの集まりが、ローマ教皇その人によって司られることを願いさえします。
しかし、キリスト・イエズスにおいて兄弟的な交わりをしきりに説く非カトリックの多くは、イエズス・キリストの代理者が教えを説く時には、それに従おうともせず、彼が命じる時、それに従順たろうともしません。しかし彼らは喜んでローマ教会と同じレベルで、同輩の者として話し合おうとするでしょう。しかし、現実には、彼らがもしそうしたとしたら全く疑いもなく彼らは、彼らを今でもキリストの唯一の群れの外に迷わせ放浪させているまさにその誤りを放棄しなくても大丈夫だという考えを持ってしか、いかなる同意をも結ばないでしょう。
この条件の下では、使徒座はいかなる口実の下であろうとこれらの集いに参加することができず、いかなる犠牲を払ってまでもカトリック信者は、その賛同あるいは行動によってこれらに好意を与えることができないことは一目瞭然です。
9 そうする(=誤謬を持ったままでの一致に賛同する)ことによって、カトリック信者は、或る一つの偽りの宗教に、キリストの唯一の教会に全くよそ者である宗教に、権威を与えることになるってしまうでしょう。
私は真理が、特に、啓示された真理が、この様に疑問視されるがままになるのを黙認することができるでしょうか。いえ、私がそうすることは邪悪の極みでしょう。
実に、これは、啓示された真理を守ることに関わるのです。全ての国々が、福音の信仰について教えを受けるために、キリスト・イエズスはその使徒たちを遣わされたました。それは、まさしく、全ての国々へとであったのですから、また、彼らのほんの僅かな誤謬さえも恐れ給い、主は、聖霊が全ての真理を彼らに教えるように望まれたのですから、その頭また守護者として天主ご自信をもつ教会に於いて、使徒たちのこの教えが、完全に既に消えうせたり、幾らかの大きな変更を受けたということは、認められ得ることなのでしょうか。更に、私たちのあがない主の明らかな宣言に基づいて、もし福音が使徒の時代だけでなく更に全ての時代に関わるものだとしますと、信仰の対象が、時と共にいろいろの意見、更にさまざまな矛盾までも、今日黙認され得るほどに、かくも曖昧で不確かなものになってしまったと言うことを認め得るでしょうか。もしそうであるとすれば、聖霊が使徒たちのうえに降臨したこと、この同じ聖霊が教会に絶えずおられること、イエズス・キリストご自身のご説教が、数世紀も前からその全ての有効性その全ての福祉を失ったということを支持しなければならなくなります。これは明らかに冒涜的な断言です。
それだけではありません。天主の御独り子は、その使者に全ての国々に教えよと命じ、他方で『天主によってあらかじめ立てられた証人』(使徒10:41)を信じる義務を全ての人に負わせられました。主はこのみ言葉によってその掟を裁可されました。「信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は排斥される」(マルコ16:16)と。ところで、キリストのこの2重の掟は、即ち永遠の救いを得るための教える掟と、信じる掟は、もし教会が福音の教えを完璧にかつ公に示し、かつ、この教えの公示において、教会が全ての誤りから免れている、とした時に初めて守りかつ理解することができるのです。
この地上のどこかに真理の遺産が存在することを信じてはいる迷ったものがまだいるかも知りませんが、彼らがそれを発見しそれに溶け込むために、人生がようやく足りるか足りないかの長い勉強と議論の労苦がそれの追求のために必要でしょう。従って、無限に良い天主が予言者とその独り子によってただ僅かに、年老いた少数の人々だけに啓示を示したに過ぎず、人々をその生涯の長きにわたって導くことのできる信仰と教えと道徳律とを与えようとは夢想だにしなかったということになってしまいます。
10 諸教会を連合させようともくろむこれらの汎キリスト教徒は、全てのキリスト者間の愛徳を発展させるという崇高な計画を遂行しているかのように見えます。
しかし、信仰を犠牲にしてまでの愛徳の増加をどうして想像できるでしょうか。愛徳の使徒である聖ヨハネ自身が、その福音の中で言わばイエズスの聖心の秘密を明かすのですが、そして、互いに愛し合いなさいと新しい掟を信徒たちに絶えず繰り返すこの使徒が、キリストの教えを完全にそして純粋に宣言しない者たちとの全ての関係を一切断て、と言うことを知らない者はいません。
『もしこの教えをもたずにあなたたちのところに来るものがあれば、その人を家にいれず挨拶もするな。(2ヨハネ10)』
11 従って、愛徳の土台は真摯で完全な信仰ですから、信仰の一致こそがキリストの弟子たちを一つに結ぶ第一の絆でなければなりません。
そうならば、信仰に関する問題に於いてでさえ自分独自の見解や思潮を保持しつつ、多大に他人の意見と矛盾していても、キリスト者の間で締結を結ぶ可能性さえ考えられるでしょうか。
私はあなたたちに尋ねます。一体いかなる信仰表明でもって、互いに矛盾する意見の人々を一つで唯一の連合に結ぶことができるとでも言うのでしょうか。(後略)
愛する兄弟姉妹の皆様、
第3回アシジ集会の予告を知らされ、私たちはもう一度、教皇ピオ11世の回勅「Mortalium animos 真実の宗教の一致について」(1928年1月6日)を読むことを提案します。
ある人達は「宗教的感覚を完全に失ってしまった人は極めてまれである」と確信しています。そして、この確信を基礎に、諸民族を、その宗教の違いにもかかわらず、宗教生活の共通の基礎として認められる幾つかの教義を兄弟的に認めあうまでもって行くことが、容易にできるという希望を養っているようです。ですから、彼らはかなり多くの聴衆者が出入りする会合、集会、講演会などを開いています。彼らは全ての人々を区別無く、ありとあらゆる種類の不信者、信者、更に不幸なことにキリストから離れ苦々しくそして頑固にキリストの神性とその使命を否定するものまでもその公演に招待しています。
このような骨折りにたいして、カトリック信者はいかなる賛同をも与えてはなりません。何故かというと、彼らの活動が“全ての宗教は、たとえ形は違っていても、全て等しく、私たちを天主に導き、私たちをして天主の力の前に尊敬を持って屈めさせる自然の生まれつきの感情を表している”という意味で“どの様な宗教でも、多かれ少なかれ、良いものであり称賛すべきである”という、間違った考えに基づいているからです。
彼らは、ただ単に誤謬のうちに迷い込んでいるだけではありません。この誤りを支持しつつ、彼らは、宗教に関する本当の観念を歪め、同時にそれを拒んでいるのです。そうして彼らは、[どんな宗教でも同じだという]宗教に関する誤った考えを持ち、少しずつ[真の宗教に関する問題よりも、この地上のことを重視する]超自然否定主義(naturalism)そして、[真の宗教も、真の天主もないのだという]無神論へと歩んでいます。ですから、このような誤った教えの賛同者となり宣伝者に合同することは、天主によって啓示された宗教[すなわちカトリック教]を全く打ち捨てることであるということは完全に明らかです。
3 しかしながら、それが全てのキリスト者の一致を促進させることとなりますと、より簡単に多くの霊魂たちは、この達成すべき目標の素晴らしさに魅せられて、誤った道に引きずり込まれてしまいます。
よく耳にすることですが、『全てキリストの聖名を呼び求めるものが、相互の非難をやめて、互いの愛によって遂に一致するのが正しく、更に義務ではないか? もし誰かが、キリストを愛していると言いながらも、主が御父に願った、ご自分の弟子らが一つであるように(ヨハネ17:21)とのキリストご自身の願いを実現させるため、全ての力を尽くして追求せずに、どうしてキリストを愛するなどとあえて主張できるのか。キリストは、ご自分の弟子らが、その他の人々から相互の愛の印によって印され区別されることを願われたではないか。主曰く“全ての人々は、もしあなたたちが互いに愛するなら、これによってあなたたちがわたしの弟子であると知るだろう”(ヨハネ13:35)と。願わくは、全てのキリスト者が一つであるように。何故なら、現代、日々、一層ひどく不敬虔の毒は広がり、福音の壊滅を準備しているからだ。そのさなかに、この一致によって、この不敬虔の毒を、より一層効果的に排斥できるではないか』と。
これや、これと似たようなことを、[教派に偏らず、福音の教えを純粋に伝えると主張する]『汎キリスト者』と呼ばれる人々が常に教えています。ところで、このような人々が数少なくまれでバラバラな個人に過ぎない、と思うのは大間違いです。彼らは、信仰の真理に関していろいろな人々がいるにもかかわらず、完全な組織を幾つも作り、非カトリック者が指導する会をあらゆるところに創立しています。この事業はさまざまなところで好感を得、更に、多くのカトリック信者の好感さえも勝ち取る程に活発に活動しています。何故なら、この事業が、私たちの母なる聖なる公教会の願いに沿った一致を実現できるという、見かけ上の希望を提示しているからです。確かに、公教会は道に迷った自分の子らを、自分の胸元に呼び戻し連れ戻したいということをひたすら願っています。しかし、これらの美しく魅惑的な言葉の下に、間違いなく、最も危険でカトリック信仰の基盤をそこから覆す誤謬が滑り込んでいます。
4 私の持つ使徒継承の責務は、主の羊の群れを迷わしに来る、かの危険な誤謬を禁止することです。そのため、尊敬する兄弟たちよ、私は自分の責務を良心に従って果たすため、このような悪を予防するようにと、諸君の熱心に呼びかけます。私は、諸君の書物により、また言葉により、それぞれが信者たちに私がこれから説明する原理と理由を容易に理解させることができると確信しています。カトリック信者は、諸君の努力により、「キリスト者という名を自称する全ての人々を、まぜこぜの一致であろうと、一つの体にまとめることを目指す事業」に対して、一体どの様な見解と、どの様な行動をとったらよいか、を知ることができるでしょう。(中略)
7 この全ての問題の基礎にある、そして、私が上述したようにキリスト教の諸教会を連合させるための非カトリック者の多くの活動と努力が出てくる、その誤謬を示し、それに反論する時が来ました。
この計画の作者らは、キリストのこの御言葉を引用するのを常とします。『全てが一つになるように。一つの群れ、一つの牧者となるだろう』(ヨハネ17:21,10:16)と。
あたかも彼らによれば、キリスト・イエズスの祈りと長いが今に至るまで死文書となっていたかのように、彼らは「唯一の真の教会の性質である信仰と統治の一致が、今に至るまでほとんど存在したことも無く今も存在していない」ということを、「本当のことを言えば、それを願い、時としては共通の意志の疎通により実現できるのだが、しかし、それはやはり一種のユートピアとして考えるべきである」ということを支持しています。
彼らは加えてこういうのです。『教会はそれ自体その本性からして分かれている。即ち、教会は、教義のうえでいくらかの共通点を持ちながらも、その他の点でそれぞれ異なる更に細分化された多くの教会、又は、個別の共同体によって構成されている。そしてそれぞれの教会は、同じ権利を享受する。特に使徒の時代から最初の幾つかの公会議までは、教会は一つであり唯一だった。そこで、たとえ最も古くからの論争であれ、教義の違いであれ、今日までこれらの教会を分裂し続けているものは、忘れ取り去らねばならない。更に別の教義上の真理とともに、共通の信仰の確かな基準を提示し、築き上げなければならない。この信仰宣言において、彼らは自分たちが知る以上に、互いが兄弟であると感じるようになるだろう。更に、さまざまな教会や共同体が、一度、全世界的な一種の連邦を結べば不敬虔の進歩に対抗して力強く勝利を勝ち取るとるために戦うことができるようになるだろう。…』
8 これが、尊敬する兄弟たちよ、皆が繰り返し説くところです。しかし中には、『プロテスタント主義が、慰めになり有益な、いくらかの教義あるいは何らかの外的儀式をあまりにも良く考えもせずに、捨ててしまったが、ローマ教会はそれをまだ保持している』と説き、譲歩する者たちもいます。
実のところ彼らは、この(ローマ)教会自身が、福音に反するというよりも、むしろ『福音に幾らかそぐわない幾つかの教えを付け加え、信者にそれを信じるように押し付けたので、初代の宗教から迷い腐敗した』とあわてて言い足しています。
彼らはそれらの付け加えられた教えとしていろいろある中で、特に、ペトロとローマ司教座に於けるその後継者たちに帰せられた裁治権の首位性を挙げています。彼らのうちで僅かに少数はローマ司教に名誉上の首位を、あるいは裁治権か権威の権能を幾らか譲歩することに同意はします。しかし、この首位権は神権に基づくものではなく、『信者たちのなんらかの同意から得られたところである』とします。他の者たちは、『雑種の』と呼べる彼らの集まりが、ローマ教皇その人によって司られることを願いさえします。
しかし、キリスト・イエズスにおいて兄弟的な交わりをしきりに説く非カトリックの多くは、イエズス・キリストの代理者が教えを説く時には、それに従おうともせず、彼が命じる時、それに従順たろうともしません。しかし彼らは喜んでローマ教会と同じレベルで、同輩の者として話し合おうとするでしょう。しかし、現実には、彼らがもしそうしたとしたら全く疑いもなく彼らは、彼らを今でもキリストの唯一の群れの外に迷わせ放浪させているまさにその誤りを放棄しなくても大丈夫だという考えを持ってしか、いかなる同意をも結ばないでしょう。
この条件の下では、使徒座はいかなる口実の下であろうとこれらの集いに参加することができず、いかなる犠牲を払ってまでもカトリック信者は、その賛同あるいは行動によってこれらに好意を与えることができないことは一目瞭然です。
9 そうする(=誤謬を持ったままでの一致に賛同する)ことによって、カトリック信者は、或る一つの偽りの宗教に、キリストの唯一の教会に全くよそ者である宗教に、権威を与えることになるってしまうでしょう。
私は真理が、特に、啓示された真理が、この様に疑問視されるがままになるのを黙認することができるでしょうか。いえ、私がそうすることは邪悪の極みでしょう。
実に、これは、啓示された真理を守ることに関わるのです。全ての国々が、福音の信仰について教えを受けるために、キリスト・イエズスはその使徒たちを遣わされたました。それは、まさしく、全ての国々へとであったのですから、また、彼らのほんの僅かな誤謬さえも恐れ給い、主は、聖霊が全ての真理を彼らに教えるように望まれたのですから、その頭また守護者として天主ご自信をもつ教会に於いて、使徒たちのこの教えが、完全に既に消えうせたり、幾らかの大きな変更を受けたということは、認められ得ることなのでしょうか。更に、私たちのあがない主の明らかな宣言に基づいて、もし福音が使徒の時代だけでなく更に全ての時代に関わるものだとしますと、信仰の対象が、時と共にいろいろの意見、更にさまざまな矛盾までも、今日黙認され得るほどに、かくも曖昧で不確かなものになってしまったと言うことを認め得るでしょうか。もしそうであるとすれば、聖霊が使徒たちのうえに降臨したこと、この同じ聖霊が教会に絶えずおられること、イエズス・キリストご自身のご説教が、数世紀も前からその全ての有効性その全ての福祉を失ったということを支持しなければならなくなります。これは明らかに冒涜的な断言です。
それだけではありません。天主の御独り子は、その使者に全ての国々に教えよと命じ、他方で『天主によってあらかじめ立てられた証人』(使徒10:41)を信じる義務を全ての人に負わせられました。主はこのみ言葉によってその掟を裁可されました。「信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は排斥される」(マルコ16:16)と。ところで、キリストのこの2重の掟は、即ち永遠の救いを得るための教える掟と、信じる掟は、もし教会が福音の教えを完璧にかつ公に示し、かつ、この教えの公示において、教会が全ての誤りから免れている、とした時に初めて守りかつ理解することができるのです。
この地上のどこかに真理の遺産が存在することを信じてはいる迷ったものがまだいるかも知りませんが、彼らがそれを発見しそれに溶け込むために、人生がようやく足りるか足りないかの長い勉強と議論の労苦がそれの追求のために必要でしょう。従って、無限に良い天主が予言者とその独り子によってただ僅かに、年老いた少数の人々だけに啓示を示したに過ぎず、人々をその生涯の長きにわたって導くことのできる信仰と教えと道徳律とを与えようとは夢想だにしなかったということになってしまいます。
10 諸教会を連合させようともくろむこれらの汎キリスト教徒は、全てのキリスト者間の愛徳を発展させるという崇高な計画を遂行しているかのように見えます。
しかし、信仰を犠牲にしてまでの愛徳の増加をどうして想像できるでしょうか。愛徳の使徒である聖ヨハネ自身が、その福音の中で言わばイエズスの聖心の秘密を明かすのですが、そして、互いに愛し合いなさいと新しい掟を信徒たちに絶えず繰り返すこの使徒が、キリストの教えを完全にそして純粋に宣言しない者たちとの全ての関係を一切断て、と言うことを知らない者はいません。
『もしこの教えをもたずにあなたたちのところに来るものがあれば、その人を家にいれず挨拶もするな。(2ヨハネ10)』
11 従って、愛徳の土台は真摯で完全な信仰ですから、信仰の一致こそがキリストの弟子たちを一つに結ぶ第一の絆でなければなりません。
そうならば、信仰に関する問題に於いてでさえ自分独自の見解や思潮を保持しつつ、多大に他人の意見と矛盾していても、キリスト者の間で締結を結ぶ可能性さえ考えられるでしょうか。
私はあなたたちに尋ねます。一体いかなる信仰表明でもって、互いに矛盾する意見の人々を一つで唯一の連合に結ぶことができるとでも言うのでしょうか。(後略)