アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
ベネディクト十六世は教皇になるやいなや、2005年12月22日に第二バチカン公会議の解釈を問題化しました。曰く、「断絶の解釈と継続の解釈がある」という指摘です。
第二バチカン公会議の終了後40年経って、第二バチカン公会議の解釈が定まっていない、定まっていなかった、という告白でした。
教導権とは何でしょうか?教導権の目的は何でしょうか?
教導権の目的とは、教導権の存在理由とは、信仰の内容を、つまり私が信じなければならないことを私に理解させてくれることです。私が救われるために信じなければならないことはこれとこれとこれだ、とはっきり示してくれることです。この意味で、教導権は聖書とも、聖伝とも区別されます。
ベネディクト十六世は、第二バチカン公会議はこの教導権の存在目的を達成出来なかった、と告白したのです。
第二バチカン公会議後40年にようやくその解釈が問題になったのですから。
第二バチカン公会議が言わんとしたことは一体何だったのでしょうか?私が何を信じなければならないかを第二バチカン公会議ははっきり示してくれなかったのです。
何故、第二バチカン公会議後の教皇パウロ六世も、ヨハネ・パウロ二世も、第二バチカン公会議の正しい意味合いを解釈することが出来なかったのでしょうか?
1986年のアシジの集会は、第二バチカン公会議後のエキュメニズム運動の頂点に立つものです。ヨハネ・パウロ二世が第二バチカン公会議の正しい解釈の挿し絵として、アシジの集会を望んで実行したもののはずです。アシジは第二バチカン公会議の忠実な実りではなかったのでしょうか?もしも忠実な解釈であれば、第二バチカン公会議それ自体がカトリック教会の聖伝から離れていたことになります。
何故、第二バチカン公会議後の解釈が問題となったのでしょうか?
第二バチカン公会議がもしも不可謬だったなら、その解釈は問題になることはあり得ません。何故なら、もしも不可謬の文章が解釈を必要とするなら、その解釈こそが不可謬でなければならなくなるからです。私が何を信じなければならないかを不可謬的に示すのが教導権の目的なのですから。
第二バチカン公会議後40年にようやくその解釈を必要とするなら、第二バチカン公会議は少なくとも、不可謬ではなかったということです。
教導権の目的が信じなければならないことをはっきり示すことにあるなら、そこには解釈の余地があってはならないはずです。曖昧さがあってはならないはずです。
しかし第二バチカン公会議はそれを全うできませんでした。教導権の目的を達成出来なかったということです。
主よ、我らを憐れみ給え!
聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
愛する兄弟姉妹の皆様、
ベネディクト十六世は教皇になるやいなや、2005年12月22日に第二バチカン公会議の解釈を問題化しました。曰く、「断絶の解釈と継続の解釈がある」という指摘です。
第二バチカン公会議の終了後40年経って、第二バチカン公会議の解釈が定まっていない、定まっていなかった、という告白でした。
教導権とは何でしょうか?教導権の目的は何でしょうか?
教導権の目的とは、教導権の存在理由とは、信仰の内容を、つまり私が信じなければならないことを私に理解させてくれることです。私が救われるために信じなければならないことはこれとこれとこれだ、とはっきり示してくれることです。この意味で、教導権は聖書とも、聖伝とも区別されます。
ベネディクト十六世は、第二バチカン公会議はこの教導権の存在目的を達成出来なかった、と告白したのです。
第二バチカン公会議後40年にようやくその解釈が問題になったのですから。
第二バチカン公会議が言わんとしたことは一体何だったのでしょうか?私が何を信じなければならないかを第二バチカン公会議ははっきり示してくれなかったのです。
何故、第二バチカン公会議後の教皇パウロ六世も、ヨハネ・パウロ二世も、第二バチカン公会議の正しい意味合いを解釈することが出来なかったのでしょうか?
1986年のアシジの集会は、第二バチカン公会議後のエキュメニズム運動の頂点に立つものです。ヨハネ・パウロ二世が第二バチカン公会議の正しい解釈の挿し絵として、アシジの集会を望んで実行したもののはずです。アシジは第二バチカン公会議の忠実な実りではなかったのでしょうか?もしも忠実な解釈であれば、第二バチカン公会議それ自体がカトリック教会の聖伝から離れていたことになります。
何故、第二バチカン公会議後の解釈が問題となったのでしょうか?
第二バチカン公会議がもしも不可謬だったなら、その解釈は問題になることはあり得ません。何故なら、もしも不可謬の文章が解釈を必要とするなら、その解釈こそが不可謬でなければならなくなるからです。私が何を信じなければならないかを不可謬的に示すのが教導権の目的なのですから。
第二バチカン公会議後40年にようやくその解釈を必要とするなら、第二バチカン公会議は少なくとも、不可謬ではなかったということです。
教導権の目的が信じなければならないことをはっきり示すことにあるなら、そこには解釈の余地があってはならないはずです。曖昧さがあってはならないはずです。
しかし第二バチカン公会議はそれを全うできませんでした。教導権の目的を達成出来なかったということです。
主よ、我らを憐れみ給え!
聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)