第五十七章 マッチを擦る
私が一九四九年に洗礼を受けたばかりの時、私は上海の君主堂で毎日朝のミサに与りました。 この教会は、壮大な聖歌隊と熱烈な侍者のために非常に有名でした。合唱団は十人以上おり、そのうちの何人かは音楽学校からのプロの歌手でした。大祝日の日に、彼らは神聖なだけでなく芸術的でもあった四部合唱を歌いました。私たちは荘厳ミサには十四人より多くの侍者がいました。ほとんどの侍者は手に香炉を持ち、同じ高さでそれら全てを振りました。それは本当に壮大な光景でした。伝統的なラテン語のミサを捧げる司祭がいました。信者は礼儀正しく健全な人々でした。なんと私はこの聖なるミサを味わったことでしょう!しかし、良い時代は長く続きませんでした。共産主義者が中国を掌握した後、一九五五年に嵐の襲撃がやって来ました。私たちの司教様、そして多くの司祭と信者は投獄され、ミサと全ての教会の活動は無くなりました。神聖なミサは、刑務所で私たちの夢にしか現れませんでした。信仰を保つために、ある熱心な信者の親はミサ典書を読み上げ、子供が霊的ミサに与るように導きました。
私が一九八四年に上海に戻った時、迫害は依然として続いていました。何人かの司祭は信者の家に来て、ミサ、すなわち新しいミサを捧げました。失望したことに、典礼は古いものとはかなり異なっていました。私たちは真実が真実であることを知っています。それは決して変わりません。私たちの教会で何が起こったのでしょう?なぜ彼らは基本的な典礼を変えたのでしょうか?私は本当に、典礼の変化に戸惑いました。中国はルフェーブル大司教様の名前を聞くどころか、第二バチカン公会議について何も知りませんでした。誰も私に答えを与えることが出来ませんでした。
兄の申請により、私は一九八九年に中国を去りました。飛行機の中で、私はアメリカに着くことに関して多くの甘い夢を抱いていました。その時から、私は自由の国にいると考えました。そこにはもはや迫害はありませんでしたので、私は再び逮捕されるのを心配する必要はありませんでした。二十六年の悪夢は終わりました。私は、自分の「失われた楽園」、すなわち泉であり、自分の命の源である伝統的なラテン語ミサに与るための教会を見つけることを期待しました。私はそれ無しには生きられませんでした。私が到着した後の翌日、私は躊躇せずに近くの教会に行きました。私は教会に入った途端、非常に多くの人々が自分たちの手に御聖体の拝領を受けていたのを見ました。それは新しいミサであるに違いありませんでした。前の晩に、兄は私にこう告げました。「美玉、郷に入れば、郷に従えだ。この国のカトリック教徒の大多数は、自分たちの手に御聖体の拝領を受ける」私は盲目的に兄の指示に従いましたが、私の良心は穏やかではありませんでした。ミサが大きく変更された理由を、私はしばしば司祭に尋ねました。誰も私の質問に進んで答えようとはしませんでした。私は毎朝ミサに与りましたが、自分があまり恩寵を得ていないのが分かりました。驚いたことに、一部のノヴス・オルドの司祭は、葬儀で流暢にロザリオの祈りを唱えることが出来ませんでした。彼らが毎日ロザリオの祈りを唱えていないからでしょうか?ある時、司祭がミサを捧げていた時、彼は単に自分の好きな祈りを唱えていただけでした。別の時間に、私は非常に大きな教会で、ミサのために一人だけでいました。「あなたしかここにいないから、私がミサを捧げる意味はありません」私は彼に頼みましだ。「神父様、私は癌患者です。今日は化学療法を受けるために病院に行きます。私は自分を強めるために御聖体拝領をする必要があります」結局、同情が勝って、彼はミサを捧げました。
数年後、友人の一人であるデービッドが私に率直に聞きました。「どのように御聖体拝領をするのですか?」私は「手で」と答えました。すぐに、彼は断固として述べました。「それは冒涜です」その夜は眠ることは不可能でした。私は泣きに泣きました。私は天主様のために何年も苦しんできましたが、今私はそのような大罪を犯すのでしょうか?翌朝、私は舌で御聖体拝領を受けましたが、司祭は私に怒鳴りました。「あなたの手はどこですか?」カリフォルニア州アルカディア天使の聖母の教会で、デービッドが聖ピオ十世会に私を連れて行った時、私は教会に入った途端に我が家に戻ったと感じました。私は自分の少女時代の教会に戻っていました。ミサは神聖で、司祭の説教は強力でした。ここでは、教会は全く五十年前の教会と同じでした。何と私は祝福されていたでしょう!私たちの大司教様は肩に失われた羊を背負い、聖化への道に私を導いて下さいました。
世界にいる沢山の信者を見てください。彼らはまださまよい、真実を渇望しています。彼らは泉と池を探していますが、先頭の羊が正面の池に水を飲むためにその頭を伸ばしていないため、彼らは先頭の羊に従うよりは、むしろのどが渇いて死んでしまいます。何と悲しいことでしょう!聞いて下さい!ローマで教会の鐘が鳴ります。それは、教皇様が部分的に司祭に伝統的なミサを捧げる許可をしたことを告げました。実に伝統に回帰するための大きな一歩です。長年にわたって、平坦な道ではありませんでしたが、現在は門が少し開いています。私はそのニュースを知って興奮していました。
ラテン語ミサを進んで捧げる司祭は、さらに多くなるでしょうか?ラテン語ミサを捧げるように司祭を後押しする信者は、さらに増えるでしょうか?どうして、私の夢には未だ大きな問題が残っていることに、私たちが気付かないでいられるでしょう?ミサは最も完璧な犠牲です。それは私たちの罪の赦しであり、私たちの霊魂の救いです。私たちは、より多くのミサが必要です。ルフェーブル大司教様に感謝。大司教様無しには、私たちは伝統的なミサを持つことは出来なかったでしょう。世界の全ての司祭が、あらゆる時代のミサを捧げる日が出来るだけ早く来るのを、私はなんと待ち望んでいることでしょう。ところが、残念ながら現実はもっと深刻です。
私は十歳の時、アンデルセンによって書かれた物語「マッチ売りの少女」を読んだのを覚えています。非常に寒い大晦日に、少女が路上で非常に空腹で凍えていたものの、彼女は自分のエプロンのマッチ以外には何も持っていませんでした。誰もが貧しい少女に気を留めませんでしたが、それでも彼女は自分の夢をあきらめませんでした。どうしたら、彼女は自分の夢をかなえることが出来たのでしょう?彼女は一つの方法を見付けました。彼女はエプロンから何本かのマッチを取り出して、寒さと暗闇を追い払い、灯りを点けるためにマッチを擦りました。マッチが燃えていた時、彼女は美しいクリスマスツリー、おいしい料理、そして天国の彼女のおばあちゃんを見ました。このようにして、彼女は自分の悲惨な生活を忘れました。翌朝、人々は少女の亡骸を見付ました。小さなマッチの売り子は、彼女の顔に笑みを浮かべて、飢えと寒さで死んでいました。彼女は自分の死まで自分の夢がありました。
ええ、私は陽気な教会の鐘が鳴るのを聞きますが、世界は暗くて寒いです。多くの人々は、はっきりと真実を見ることが出来ません。あわれな罪人である私には、この世に光をもたらすものは何もありません。私は、マッチしか持っていなかったこの小さな女の子のようになれたらと思います。それは、とても小さな灯りしか与えることが出来ませんが、まだ無いよりはましです。私は自分が他人に、より多くの光と少しの暖かさを与えるように、燃えるろうそくになりたいと思います。様々な病気で苦しみながら、私は自分の拙い祈りを天主様に御捧げします。私は、多くの司祭がノヴス・オルドのミサを捧げることを止め、トリエント・ミサに回帰することを切に願います。そして、より多くの信者が天国への道を歩むでしょう。
中国人には、星火燎原(小さな火花も広野を焼き尽くすことが出来る)ということわざがあります。もし、私たち一人一人が自分たちの手にマッチを燃やすのならば、私たちは自分自身の熱意をもって他人を燃え上がらせることが出来ます。天主様と他人を愛するという大きな火は、きっともうすぐ現れます。私たちの大司教様は最初の戦いに勝利していますが、私たちを待っているまだ多くの戦いがあります。天主様と私たちの天の母は、私たちが最後に勝つことを保証されます。自分自身の努力を通して、今すぐマッチを擦ってみましょう。
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『楽は苦に在り』ローズ胡美玉 著 目次
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私が一九四九年に洗礼を受けたばかりの時、私は上海の君主堂で毎日朝のミサに与りました。 この教会は、壮大な聖歌隊と熱烈な侍者のために非常に有名でした。合唱団は十人以上おり、そのうちの何人かは音楽学校からのプロの歌手でした。大祝日の日に、彼らは神聖なだけでなく芸術的でもあった四部合唱を歌いました。私たちは荘厳ミサには十四人より多くの侍者がいました。ほとんどの侍者は手に香炉を持ち、同じ高さでそれら全てを振りました。それは本当に壮大な光景でした。伝統的なラテン語のミサを捧げる司祭がいました。信者は礼儀正しく健全な人々でした。なんと私はこの聖なるミサを味わったことでしょう!しかし、良い時代は長く続きませんでした。共産主義者が中国を掌握した後、一九五五年に嵐の襲撃がやって来ました。私たちの司教様、そして多くの司祭と信者は投獄され、ミサと全ての教会の活動は無くなりました。神聖なミサは、刑務所で私たちの夢にしか現れませんでした。信仰を保つために、ある熱心な信者の親はミサ典書を読み上げ、子供が霊的ミサに与るように導きました。
私が一九八四年に上海に戻った時、迫害は依然として続いていました。何人かの司祭は信者の家に来て、ミサ、すなわち新しいミサを捧げました。失望したことに、典礼は古いものとはかなり異なっていました。私たちは真実が真実であることを知っています。それは決して変わりません。私たちの教会で何が起こったのでしょう?なぜ彼らは基本的な典礼を変えたのでしょうか?私は本当に、典礼の変化に戸惑いました。中国はルフェーブル大司教様の名前を聞くどころか、第二バチカン公会議について何も知りませんでした。誰も私に答えを与えることが出来ませんでした。
兄の申請により、私は一九八九年に中国を去りました。飛行機の中で、私はアメリカに着くことに関して多くの甘い夢を抱いていました。その時から、私は自由の国にいると考えました。そこにはもはや迫害はありませんでしたので、私は再び逮捕されるのを心配する必要はありませんでした。二十六年の悪夢は終わりました。私は、自分の「失われた楽園」、すなわち泉であり、自分の命の源である伝統的なラテン語ミサに与るための教会を見つけることを期待しました。私はそれ無しには生きられませんでした。私が到着した後の翌日、私は躊躇せずに近くの教会に行きました。私は教会に入った途端、非常に多くの人々が自分たちの手に御聖体の拝領を受けていたのを見ました。それは新しいミサであるに違いありませんでした。前の晩に、兄は私にこう告げました。「美玉、郷に入れば、郷に従えだ。この国のカトリック教徒の大多数は、自分たちの手に御聖体の拝領を受ける」私は盲目的に兄の指示に従いましたが、私の良心は穏やかではありませんでした。ミサが大きく変更された理由を、私はしばしば司祭に尋ねました。誰も私の質問に進んで答えようとはしませんでした。私は毎朝ミサに与りましたが、自分があまり恩寵を得ていないのが分かりました。驚いたことに、一部のノヴス・オルドの司祭は、葬儀で流暢にロザリオの祈りを唱えることが出来ませんでした。彼らが毎日ロザリオの祈りを唱えていないからでしょうか?ある時、司祭がミサを捧げていた時、彼は単に自分の好きな祈りを唱えていただけでした。別の時間に、私は非常に大きな教会で、ミサのために一人だけでいました。「あなたしかここにいないから、私がミサを捧げる意味はありません」私は彼に頼みましだ。「神父様、私は癌患者です。今日は化学療法を受けるために病院に行きます。私は自分を強めるために御聖体拝領をする必要があります」結局、同情が勝って、彼はミサを捧げました。
数年後、友人の一人であるデービッドが私に率直に聞きました。「どのように御聖体拝領をするのですか?」私は「手で」と答えました。すぐに、彼は断固として述べました。「それは冒涜です」その夜は眠ることは不可能でした。私は泣きに泣きました。私は天主様のために何年も苦しんできましたが、今私はそのような大罪を犯すのでしょうか?翌朝、私は舌で御聖体拝領を受けましたが、司祭は私に怒鳴りました。「あなたの手はどこですか?」カリフォルニア州アルカディア天使の聖母の教会で、デービッドが聖ピオ十世会に私を連れて行った時、私は教会に入った途端に我が家に戻ったと感じました。私は自分の少女時代の教会に戻っていました。ミサは神聖で、司祭の説教は強力でした。ここでは、教会は全く五十年前の教会と同じでした。何と私は祝福されていたでしょう!私たちの大司教様は肩に失われた羊を背負い、聖化への道に私を導いて下さいました。
世界にいる沢山の信者を見てください。彼らはまださまよい、真実を渇望しています。彼らは泉と池を探していますが、先頭の羊が正面の池に水を飲むためにその頭を伸ばしていないため、彼らは先頭の羊に従うよりは、むしろのどが渇いて死んでしまいます。何と悲しいことでしょう!聞いて下さい!ローマで教会の鐘が鳴ります。それは、教皇様が部分的に司祭に伝統的なミサを捧げる許可をしたことを告げました。実に伝統に回帰するための大きな一歩です。長年にわたって、平坦な道ではありませんでしたが、現在は門が少し開いています。私はそのニュースを知って興奮していました。
ラテン語ミサを進んで捧げる司祭は、さらに多くなるでしょうか?ラテン語ミサを捧げるように司祭を後押しする信者は、さらに増えるでしょうか?どうして、私の夢には未だ大きな問題が残っていることに、私たちが気付かないでいられるでしょう?ミサは最も完璧な犠牲です。それは私たちの罪の赦しであり、私たちの霊魂の救いです。私たちは、より多くのミサが必要です。ルフェーブル大司教様に感謝。大司教様無しには、私たちは伝統的なミサを持つことは出来なかったでしょう。世界の全ての司祭が、あらゆる時代のミサを捧げる日が出来るだけ早く来るのを、私はなんと待ち望んでいることでしょう。ところが、残念ながら現実はもっと深刻です。
私は十歳の時、アンデルセンによって書かれた物語「マッチ売りの少女」を読んだのを覚えています。非常に寒い大晦日に、少女が路上で非常に空腹で凍えていたものの、彼女は自分のエプロンのマッチ以外には何も持っていませんでした。誰もが貧しい少女に気を留めませんでしたが、それでも彼女は自分の夢をあきらめませんでした。どうしたら、彼女は自分の夢をかなえることが出来たのでしょう?彼女は一つの方法を見付けました。彼女はエプロンから何本かのマッチを取り出して、寒さと暗闇を追い払い、灯りを点けるためにマッチを擦りました。マッチが燃えていた時、彼女は美しいクリスマスツリー、おいしい料理、そして天国の彼女のおばあちゃんを見ました。このようにして、彼女は自分の悲惨な生活を忘れました。翌朝、人々は少女の亡骸を見付ました。小さなマッチの売り子は、彼女の顔に笑みを浮かべて、飢えと寒さで死んでいました。彼女は自分の死まで自分の夢がありました。
ええ、私は陽気な教会の鐘が鳴るのを聞きますが、世界は暗くて寒いです。多くの人々は、はっきりと真実を見ることが出来ません。あわれな罪人である私には、この世に光をもたらすものは何もありません。私は、マッチしか持っていなかったこの小さな女の子のようになれたらと思います。それは、とても小さな灯りしか与えることが出来ませんが、まだ無いよりはましです。私は自分が他人に、より多くの光と少しの暖かさを与えるように、燃えるろうそくになりたいと思います。様々な病気で苦しみながら、私は自分の拙い祈りを天主様に御捧げします。私は、多くの司祭がノヴス・オルドのミサを捧げることを止め、トリエント・ミサに回帰することを切に願います。そして、より多くの信者が天国への道を歩むでしょう。
中国人には、星火燎原(小さな火花も広野を焼き尽くすことが出来る)ということわざがあります。もし、私たち一人一人が自分たちの手にマッチを燃やすのならば、私たちは自分自身の熱意をもって他人を燃え上がらせることが出来ます。天主様と他人を愛するという大きな火は、きっともうすぐ現れます。私たちの大司教様は最初の戦いに勝利していますが、私たちを待っているまだ多くの戦いがあります。天主様と私たちの天の母は、私たちが最後に勝つことを保証されます。自分自身の努力を通して、今すぐマッチを擦ってみましょう。
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『楽は苦に在り』ローズ胡美玉 著 目次
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