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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第五十九章 水

2012年01月05日 | カトリックとは
第五十九章 水

誰もが、水は世界で最も必要なものであると知っていますが、灰と塵のように水は非常に低い位置に留まっています。水は自ら見せびらかすことが無いので、誰もが多くの注意を払うことはありません。私たちはしばしば、水を飲んだり、使うことを当然だと思っています。砂漠や雨が不足している土地のようないくつかの特別な地域のみ、人は水の価値に気が付きます。

ワインは水よりも貴重ですが、水はより重要です。洗礼の秘跡は水なしで施すことは出来ません。司祭は準秘蹟を祝福するために、水を使います。私たちの死後でさえ、私たちの体は水で司祭により祝福されます。私たちは教会に入るたびに、水で十字架の印をします。水。私たちは日常生活及び霊的生活の中で、水を必要とします。

 私は水のように謙虚になりたいです。水は味が無く、そしてそれはコーヒー、紅茶やソーダなどの私たちにとって最高の飲み物となります。謙虚さは水のようです。家族の中、小教区、そしてどこでも小さいこと。最後の者は常に最初に来ます。私の主が容器に私を注ぐ時、それがどんな形状であろうとも、私は水のように従順になりたいと思います。私は容易にそして徹底的にその隅々まで行き渡り、天主様の御意志に完全に自分自身を従わせます。水や水の滴が悪の頑なさをすり減らすように、私は時間がかかろうとも水のように持続する力を持ちたいです。石が削られるその日まで、水の滴は少しずつ垂れて石の上に落ち続けます。天主様、私をこの水の滴にしてください。

水は強いとは思われていませんが、私はその水のように強くなりたいと思います。流れの中の水は、非常に穏やかに流れますが、ナイフや銃は海へのその容赦のない旅を断ち切ることは出来ません。水は着実に、川、海、そして大海へと進みます。私たちは、全く天主様により、そして天主様のために創られたことを覚えていて下さい。何物も天主様を礼拝することから自分を逸らさないようにと祈って下さい。

私は水のようになり、ちょうど水と同じように、必要に応じて自分の形を変えたいと思います。誘惑や試練が来れば、私は冷やされて何物にも負けない固くしっかりした氷になりたいです。人々が私を必要とする時、私は進んで蒸気になって暖かさを与えるか、蒸気機関として良く回ります。

罪人である私は、自分自身を汚れた水たまりであると表現出来ますが、私は清められて流れの中できれいな水と一緒になり、天主様の海へと注ぐように努力します。

私は普通の水と同じくらい平凡であることを願っています。私はむしろ、カラフルな液体石鹸のようになるよりは、普通の水になりたいです。人々は液体石鹸で一時的に輝くシャボン玉を吹くことは出来ますが、それは瞬く間に消えてしまいます。
二〇〇五年十二月六日


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『楽は苦に在り』ローズ胡美玉 著 目次
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