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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第五十八章 落し物と拾い物

2012年01月04日 | カトリックとは
第五十八章 落し物と拾い物

人間の歴史で、最初の「落し物と拾い物」はアダムとイブでした。彼らの原罪は、楽園の喪失をもたらしました。しかし、天主様は悪から善をもたらすことが御出来になる方です。そう、「幸運な原罪」は、私たちの救い主イエズス様と、私たちの祝せられた御母であるマリア様をもたらしました。次の「落し物と拾い物」は、イエズス様が12歳の時にいなくなり、神殿で見付かったと聖書で語られていることです。長い年月の間、なぜそれが喜びの第五玄義と呼ばれているのか、私は疑問に思っていました。実際には、ヨゼフ様と、原罪無くして宿られたイエズス様の御母であるマリア様2人にとって、非常に悲しいことでした。マリア様は天主様の最も完璧な被創造物です。ヨゼフ様は、全聖人たちの保護者として崇敬されます。二人はイエズス様の御降誕のために、たくさん苦しみました。彼らがベツレヘムに行った時、あらゆる不快感や悩みを進んで苦しもうとしていたことを、聖書は教えてくれます。ヘロデ王がイエズス様を探し出して殺すことを計画していた時に、天使が登われ、不平を言わずにエジプトに逃げるよう、ヨゼフ様に忠告を与えました。イエズス様が2歳の時、彼らはエルサレムに行きました。その帰路に、彼らは自分たちの一人息子を置き忘れ、イエズス様がいなくなっていることがわかりました(最も悲しい事に、彼らはイエズス様が、不合理なことは何もされない天主様であることを確信していたことです)。彼らは何か天主様がお怒りになる事していたかどうかを確かめようと、自分自身を検討しました。彼らは何の答えも見つけず、彼らは何故イエズス様は彼らにこのことをされたのか、不思議に思いました。彼ら2人の心は全く打ちひしがれてしまい、天使は彼らを慰めに来ませんでした。彼らが出来たことは、ただ探し求めることでした。

マリア様とヨゼフ様は涙でいっぱいでした。彼らは自分たちの命や全世界を失うことになっても、イエズス様を失うことは出来ませんでした。彼らは最悪の事態を恐れ、三日間、深い悲しみに沈んで耐えました。三日目に、マリア様が神殿でイエズス様を見つけたとき、彼女は言いました。「息子よ、なぜ私たちにそのようにしたの?御覧なさい、あなたのお父さんと私は、悲しみながらあなたを探したのですよ」彼は答えました。「どうして私を探したのですか?私が必ず父の家にいることを知らなかったのですか?」(ルカ2:48-49)

自分の限られた人間の思考の中で、なぜイエズス様がマリア様とヨゼフ様を軽く扱ったことを本当に理解出来ませんでした。もし、イエズス様が事前にその事を説明していたのでしたら、どうして彼の両親がイエズス様を拒否することが出来たでしょう?イエズス様は御降誕以来神であり、人間です。謙遜、貧困、そして迫害の内に生活されました。彼の口からは何の不平も無く、彼が十二歳にたちした時、自分自身が天主様の御子であることを宣言なさいました。マリア様とヨゼフ様は私たちのために、イエズス様が霊的な知恵を見つけるように代償を払いました。天主様の御摂理は何と素晴らしいのでしょう!彼らは偉大な神秘を理解するために、三日間苦しみました。その後、イエズス様は別の18年間にわたり、彼の母親と一緒に留まりました。

イエズス様が十字架につけられた時、彼の4つ目の最後の言葉は、「我が天主、我が天主、どうして私をお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)でした。イエズス様は、表面上は永遠の御父から見捨てられたかのように見えました。これはイエズス様の酷い苦しみの頂点でした。これは全く私たちの罪のためでした。私たちは天主様を見捨てましたので、永遠に天主様から拒まれ、離れ離れとなるのに値します。イエズス様は私たちに深い教訓をお教えになり、御自分の苦しみによって私たちのために永遠の命を見つけて下さいました。私たちはこの移ろう世界で何かを失わなければなりません。失うこととは、放棄したり、トラブルを受け入れるか、または苦痛に耐えたり、何かを得るための代償を払うことを意味します。私たちが払う代償はとても少ないですが、私たちは永遠のメリットを永久に得ることが出来ます。これは本当の掘り出し物です。

実際に、「落し物と拾い物」は、皆さんの人生で起こります。人はそれらを失うまで、多くの物事の価値が分りません。多くの人々は病気で倒れるまで、健康が何であるかを知りません。自由な国で、我々はストレス無く教会に行き、人々はそれを当然であると考えています。もし、いつの日か迫害が来るならば、人はこの自由の本当の意味が何であるかを知るでしょう。私にとって、大きな「落し物と拾い物」は、いくつか私の人生にありました。毎回何かを失うたびに、私はより多くを見付けました。私が逮捕された時、私は全く自分の自由を無くしました。私は家族を失いましたが、同時に私は、天主様と語り合う自由な時間を見付けました。私は自分の健康を失ったとき、自分の本を書くための多くの時間を見付け、そして自分の精神生活上の健康を得ました。自分のノヴス・オルドの友人である聖職者と信者を失ったとき、ルフェーブル大司教様を見つけました。「落し物と拾い物」に気付くのは、ほぼありふれたこととなっています。

とにかく、「落し物と拾い物」の連続が、私たちの人生となります。それらは留め金のようなものです。ある物はこの方向を指し、他の物は反対方向を指します。このようにそれらは、私たちの霊魂が失われるのを防ぐために用いられる留め金となります。

イエズス様は、「たとえ全世界を得たとしても、己の霊魂を失ったらそれが何になるであろうか?」(マルコ8:36)と聖書で仰せになりました。地獄では全てが失われますが、天国では全てが見つかります。失くすことと、見つけることが、地球上の私たちの生涯であり、この世で私たちは自分たちの霊魂を以外の全てを失うことが有り得るのです。この世では、私が将来何を失うことになるか分りません。それが何であれ、私は天主様にそれを進んで御捧げします。私は自分の罪のため、この世の罪のために、イエズス様の苦しみと共に犠牲となります。親愛なる天主様、今もそして永遠に、あなたの御摂理を褒め称えることをお許し下さい!

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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