Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

天主イエズス様の御降誕と新年のお慶びを申し上げます

2012年01月01日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

天主イエズス様の御降誕と新年のお慶びを申し上げます。

旧年中はご愛顧、ご愛読をありがとうございました。

今年も、愛する兄弟姉妹の皆様に善き新年をお祈り申し上げます。私たちが天主イエズス様をますます愛する新年を。イエズス・キリストの十字架を愛し望み受け入れ担う新年を。罪と罪の機会を避ける本当に幸福な新年を私たちの主イエズス・キリストに祈り求めます。
聖母マリア様に願い求めます。聖ヨゼフ様の御取次を願います。
すべてを天主イエズス様を愛するために、すべてを聖母マリア様を愛するために、すべてを聖ヨゼフ様にならって御捧げすることができますように!

すばらしい教会が、常に天主イエズス様が君臨される教会が日本に与えられますように!ただ天主様の御憐れみにより頼みます。

「幼きイエズス様を抱く聖母マリア様を導きたもうた聖ヨゼフ様、極寒の汚れた家畜の洞窟をイエズス様とマリア様のために少しでも快適になるようにしつらえてくださった聖ヨゼフ様、私たちの心は、日本はその洞窟よりも貧しく罪に汚れたものですが、どうぞ清めてください。イエズス様とマリア様をお連れください。」


愛する兄弟姉妹の皆様の上に、新年の上に、天主様の祝福が豊かにありますように!!


トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
追伸。12月に日本で購入した、中野剛志著「TPP亡国論」を読みはじめました。大変面白く興味深く読んでいます。しかし、明日から黙想会ですから続きは後ほど読みたいと思います。日本のために、愛する兄弟姉妹の皆様のために、たくさんお祈りしたいと思います。天主様の祝福が豊かにありますように!!

ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第五十五章 今

2012年01月01日 | カトリックとは
第五十五章 今

私が中国上海の高等学校で英語の文法を教えていた時、単純現在形の使い方を生徒に教えるのが最も困難な部分だと思いました。生徒だけではなく私自身が混乱してしまいました。もし、何かが今起きているのでしたら、私たちは現在進行形を使わなければなりません。単純現在形は事実か、常にまたは頻繁に発生する何かのためにのみ使われます。

それから、私の思い出に単純現在形を用いて、「ローズは私たちの心の中で生きている」と言うのを私が亡くなった後に望んでいます、と友人に語りました。私は小さな女の子の時から、「今」の意味に戸惑い、「今はいつなの?」といつも聞きました。私はどんな答えにも満足しませんでした。私の知る限り、「今」は過去と未来の間に存在します。私たちは、過去から今を知ることが出来ますし、今から将来を待ち望みます。木の年輪、私たちの顔のしわは、私たちに時間を知らせます。時間は存在するのですから、「今」も同様に存在するに違いませんが、どれくらいそれはこの世に留まるのでしょう?

一秒、一分、または一日とか、誰も明確な答えを与えることは出来ません。私たちが「今」という時、それはもう過ぎ去っていますので、私たちは今を捕えることはありません。どうして私たち人間は、今を扱うこと無しに現実の生活を送られるのでしょう?地球はいつも回転し、時計はいつもかちかちと時を刻むので、私たちが住んでいる世界には時間があることを思い出させてくれます。「今」は秒ごとに過ぎ去り、全てが変化していますので、最終的に全ても過ぎ去ります。幸せか苦しみであろうとも、それはここ地球上では永遠に留まりはしません。地獄では時計は止まっていて、そこには終わりのない恐ろしい拷問が常にあります。天国で天使たち、全ての聖人は永遠に天主様を賛美するために楽しく歌っています。この世の乗客である私たちは、反対側に到着するための橋を渡っています。誰も我が家としてそこに留まる為に、橋の上に家を建てることはありません。私たちの目的地はこの橋の上ではありません。

たとえ、非常に豪華か魅力的であっても、脇の景色に気を取られてはいけません。私たちは、この橋を反対側に渡らなければなりません。私たちの人生は一方通行で、往復ではありません。私たちは、自分たちの人生のためのリハーサルを決して持ってはいません。ですから問題なのは、私たちが永遠の罰を避けて永遠の喜びを得るために、どのようにして一時的な時間を私たちが使えるかです。

 なぜそれほど多くの人が、証聖者、殉教者、そして聖人となったのでしょう?彼らはこの世の苦しみの実際の価値を知っており、世俗的な喜びは非常に短い間しか続かないことを知っていたからでした。聖アロイジオ・ゴンザガのモットーは「永遠にとって、これは何であるか」です。小さな聖人であるマリア・ゴレッテイは、むしろ大罪を犯すよりも、殺されるほうを選びました。彼らは、この世の苦しみがとても早く過ぎ去るのを知っていました。私たちを恐れさせるものは永遠の罰です。全ての聖人は、あらゆる状況の下でも天主様を愛するために、全ての「今」を掴んでいました。

私たちそれぞれは、イエズス様と私たちの苦しみのみで天国への切符を買わなければなりません。苦しみと幸せは同じ家族です。幸せは常に苦しみに伴います、苦しみのない幸せは、チョコレートでコーティングされた毒のようなものです。味は甘くても、やはりそれは毒です。多くの人々がカジノで幸せを求めます。最初のうちに勝った人たちは、自分たちがさらに多く勝つだろうと考え、非常に興奮します。もし、彼らが負けた場合は、彼らは次のゲームに勝つだろうと思います。しかし、現実はしばしば反対です。ドリンクやアルコールを取ることで楽しみを味わう人は、とても短い間しか楽しみを味わえません。彼らに本当の幸せがあるのでしょうか?絶対にありません。イエズス様は天国への道を示すために、十字架につけられた後になって初めて復活されました。私たちも、永遠の幸せを得るために、進んで今苦しまなければなりません。

私たちは、過去を取り返そうと奮闘しつつ、過去に生きるべきではありません。過ぎたことは、過ぎたことにしましょう。もし、自分の過去が良ければ、私はそのために天主様を賛美します。もし、私が罪を沢山犯した場合、私は天主様の御慈悲にこれらの罪を委ねることが出来ます。私は自分の罪よりも、はるかに上の天主様の御慈悲を信じています。私は自分の人生からそれらを焼灼するように、天主様の御慈悲を希い、何の希望も無く後悔に後悔するだけでいたくはありません。それは、毎分の「今」を無駄にします。天主様はいつも私たちの今の瞬間に、私たちを見ておられます。

私たちは未来に生きるべきではありません。未来は不確実ですし、明日は分からないからです。ですから、私は期待に期待して、待っているだけでは生きられません。これから来る全てを天主様の御摂理に委ねましょう。私が扱わなければならないのは、今の毎秒です。秒ごとの「今」はユニークであり、そして毎日は非常に特別です。私たちは自分たちの人生に、再び同じ日、同じ瞬間を持つことはないでしょう。聖人となる事は、私たちがどれ位長生きしたかや、どれ位裕福であるかというのではなく、どれ位私たちが天主様を愛し、人を愛するのに「今」を十分に活用したことだけによるのです。
今は天主様を賛美する時であり、私の霊魂を救う時であり、そして他人を助ける時です。今とは許容される時間です。今、イエズス様が私の肩に置いて下さった十字架を背負わせて下さい。フィアット、フィアット、最後の最後である「今」まで、私の死の「今」まで。

ロサンゼルスで病床から
二〇〇五年五月二十六日


-------------------------------------
『楽は苦に在り』ローズ胡美玉 著 目次
-------------------------------------


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】