Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2018年「秋田巡礼」へのお招き

2018年04月01日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖ピオ十世会日本は十二回目の公式秋田巡礼をシュテーリン神父様の指導の下で5月3日から6日まで行います。黙示録12章には天に壮大なしるしが現れたことが記されています。「太陽に包まれた婦人」は、その頭に12の星の冠を戴いていました。この婦人は、カトリック教会のことであり、またその典型である聖母のことです。私たちのこの12回目の巡礼が聖母の頭を飾るものとなりますように!

さて、秋田の聖母のメッセージを読むと、教皇、司教、司祭のための祈りが強調されていることに気が付きます。

第一のメッセージ 1973年7月6日(初金曜日)
「教皇、司教、司祭のためにたくさん祈ってください。あなたは、洗礼を受けてから今日まで、教皇、司教、司祭のために祈りを忘れないで、よく唱えてくれましたね。これからもたくさん、たくさん唱えてください。」

第3のメッセージ 1973年10月13日(土曜日)
「ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください。悪魔の働きが、教会の中にまで入り込み、カルジナルはカルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。わたしを敬う司祭は、同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒らされて、教会は妥協する者でいっぱいになり、悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう。特に悪魔は、おん父に捧げられた霊魂に働きかけております。」

「祭壇が荒らされる」という表現さえもあります。祭壇が荒らされるとは、祭壇の至聖なる秘蹟であるイエズス・キリストの御聖体への尊敬が踏みにじられることでなくて何でしょうか。

ファチマの天使のことを思い出します。ポルトガルの守護の天使は、跪きさらに額づいて深々と御聖体を礼拝した後、子供たちにこう言っているからです。
「恩知らずの人々によって恐ろしく冒涜されたイエズス・キリストの御体と御血を受け、飲みなさい。彼らの罪を償い、あなたたちの天主を慰めなさい。」

2018年、日本の教会に目を向けると、カトリック信心の基礎であり中心であり重要な栄光である御聖体の神秘への崇敬はどうなっているでしょうか?「御聖体は教会の霊魂 velut anima Ecclesiae」(レオ十三世教皇 回勅 Mirae Caritatis 1902年5月28日 No 15)ですが、司祭たちの御聖体への愛はどうなっているでしょうか?

「聖変化」というのは、私たちの感覚には感じられませんが、天地を創造するのと同等の奇跡です。パンを御聖体に全実体変化させるのは、童貞女の御胎内に天主の御一人子が肉体を取って宿られたことと同等の奇跡です。叙階の秘跡を受けた司祭だけにはこの特別の力が与えられました。ちょうどキリストの「御手」がお触れになるとライ病が治ったように、道具として奇跡を起こす力が与えられました。Conversio panis et vini in corpus et sanguinem Christi est opus non minus miraculosum quam creatio rerum, vel etiam formatio corporis Christi in utero virginali, quae quidem nulla virtute creata fieri potuerunt. (聖トマス・アクィナス IIIa, Qu 78, art 4 ob 2 et ad 2)

カトリック教会の聖伝によると、霊的指導者たちによると、天主からそれほどの宝と権能を受けていながら、その御聖体に対する繊細な愛情や尊敬のない司祭というのは、異常事態だ、と警告を発しています。御聖体という愛の中心を失った司祭は、正しい軌道を外れてしまう、と。私たち司祭は、叙階の秘跡を受ける準備をしながら教えられました。

太陽のような巨大な重力に引き付けられていればこそ惑星は太陽の周りをまわることができます。太陽がもしも失われてしまったとすると、惑星は求心力を失ってすぽっとどこか宇宙のかなたに飛んでしまうことでしょう。もしも、御聖体への優しさも心遣いも愛情もなければ、物凄いスピードで狂った道のりを飛んでいくしかなくなります。

御聖体への冷淡を正当化する口実として、社会活動が必要であると論じられます。それは今に限ったことではありませんでした。イスカリオトのユダも、ベタニアでマリアが高価で純粋なナルドの香油一斤でイエズスのおん足にぬり、自分の髪の毛でそれを拭いたのを見て、マリアをなじったことがあります。「なぜキリストの御体に愛と崇敬を注ぐのか、そんなことよりもそれで貧しい人に施したほうがもっと為になる」と。

これは神学校の恩師が私たち司祭に言ったことですが、御聖体への崇敬と愛情がなければ、司祭職という天使を超える聖職さえもその他の職業のうちの一つに成り下がってしまう、と。御聖体への愛が司祭を生かしている、と。「私はあなたの業を知っている。あなたは生きている者だと思われているが、実は死んでいる。」(黙示録第3:1)

聖変化された御聖体は、生ける天主イエズス・キリスト御自身だからです。生きているお方です。単なる「聖なる物」ではありません。つまり「聖なる物だけれども命のない物質」ではありません。御聖体とは、生きて私たちを愛しておられる至聖なるお方です。この世を創造した天主の御血が脈打っている御体です。

ところで御聖体は、どのように取り扱われているのでしょうか?特に日本では、私たち司祭たちはどのような態度を御聖体に取っているのでしょうか?氷のように冷たい心で?信仰の飛躍も緊密な信頼もなく?

イエズス・キリストの御聖体こそ、贖い主のまさにその聖心の最も緊密なところから湧き出たもっとも天主的な賜物 sanctissimam Eucharistiam, donum divinissimum ex intimo plane Corde prolatum eiusdem Redemptoris (レオ十三世教皇 回勅 Mirae Caritatis)です。

日本はかつて御聖体の聖なる殉教者たちを生み出した国です。島原城主松倉重政が雲仙地獄でカトリック信者たちに残酷な拷問を行い、背教させようとしていたとき、私たちの祖先の日本人カトリック信徒たちは、「デウスのため」に苦しみを捧げ、「いと尊き御聖体は賛美せられさせ給え」と叫んで殉教していきました。それが日本の大和心です。日本人のカトリック信仰です。

私たちの先祖たちは、御聖体への愛のために、全てを犠牲にしました。全ての苦しみを甘受し、信仰と熱烈な愛情を持って全てを苦しもうとし、御聖体の讃美のため、躊躇無く、桜の花が散るように、祭壇のロウソクが燃え尽きるように、殉教していきました。

ドン・ショタールの「使徒職の秘訣」によるとこうあります。
聖なる司祭に、熱心な信者
熱心な司祭に、敬虔な信者
敬虔な司祭に、誠実な信者
誠実な司祭に、不敬な信者。

一般信徒の祖先たちがそれほど御聖体への愛に燃えていたのなら、司祭たちはどれほどの愛熱の炎に燃え立っていたことでしょうか!御聖体の周りにどれほどの聖性と愛と礼拝の雰囲気があったことでしょうか!おそらくその当時の司祭たちは、キリシタンたちに聖パウロの言葉を自分のものとして言うことができたに違いありません。聖ヨハネ・クリゾストモが言うように「パウロの心は、キリストの心、聖霊の書き板、愛徳の巻物」Cor itaque Christi erat cor Pauli tabulaque spiritus sancti atque caritatis volumen (S. Johannes Chrysostomus, Homil. 32)でした。私はなんと遠くにいることでしょうか!

「私がキリストに倣っているように、あなたたちは私に倣え。」(コリント前11:1)

「実に愛される子らとして、天主に倣う者であれ。私たちを愛し、私たちのために、香ばしいかおりの生贄として天主にご自分をわたされたキリストの模範に従って、愛のうちに歩め。」(エフェゾ5:1)

「たがいにイエズス・キリストの心を心とせよ。かれは、本性として天主であったが、天主と等しいことを固持しようとはせず、かえって奴隷の姿をとり、人間に似たものとなって、自分自身を無とされた。その外貌は人間のように見え、死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。そこで、天主はかれを称揚し、すべての名にまさる名をお与えになった。それは、イエズスのみ名のまえに、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみな膝をかがめ、すべての舌が、父なる天主の光栄をあがめ、「イエズス・キリストは主である」と言いあらわすためである。」(フィリッピ2章)

祭壇の御聖体といつも親しく一致している司祭はなんと幸せなことでしょうか!「実にこのいと高きいとも尊き秘跡は、霊魂と肉体の健康であり、全ての霊的病の薬」 Est enim hoc altissimum et dignissimum Sacramentum, salus animæ et corporis, medicina omnis spiritualis languoris (キリストに倣いて:コンテムツス・ムンヂ)だからです。

御聖体におけるイエズスがこんなに近くにおられるとは、私たちにとってどれほどのお恵みでしょうか!「イエズス無しにいるのは地獄のどん底なり、イエズスと共にいるのは甘美なる楽園なり」 Esse sine Jesu est gravis infernus, et esse cum Jesu dulcis paradisus (キリストに倣いて)。

イエズス・キリストの愛と憐れみと謙遜の極み!ベトレヘムでは、天主であることが隠されて、弱々しい幼い人間として私たちのもとに来られました。カルワリオでは、天主であることが隠されて、さらに私たちの身代わりに極悪人であるかのように取り扱われました。祭壇の秘蹟においては、人間であるということさえも隠されています。この天主の謙遜を前にして、私たち人間は膝をかがめ、額づくしかできません。特にふすまを開ける時も閉めるときでさえも、膝をついてそうする私たち日本人にとっては、さらにそうです!

イエズス・キリストの愛の秘跡を軽んじるとしたら、イエズスの愛を軽蔑するなら、御聖体の前で跪くことさえも禁止するなら、私たちの主はどれほど嘆かれることでしょうか!イエズスはこう繰り返されることでしょう:「私はあなたが迫害しているイエズスである。」(使徒9:5)
「あなたは私の足に水をそそいでくれなかった、…あなたはくちづけしようとしなかった、…あなたは、私の頭に油をぬらなかった。」(ルカ7:45)

そのようなお叱りの言葉を私たちが、イエズス・キリストから聞くことがないように、ますます主の愛の秘跡を崇敬することができるように乞い求めるものとして、祈りと償いを最も必要とする者として、私は今年も秋田巡礼に参りたいと思います。カトリック教会の司祭として叙階の秘跡を受けたお恵みを感謝するために巡礼に馳せ参じたいと願っています。「教皇、司教、司祭のためにたくさん祈る」ために、聖母のもとに。

何故なら、「マリアは天主の宝庫だからです。聖母がましますところはどこでも天主の聖心があるからです。天主の御目は常にマリアの上にあるからです。主はご自分の使い女である聖母の御謙遜をご覧になるからです。」(An non thesaurus Dei Maria? Ubicumque illa est, et cor ejus. Oculi ejus super eam; ubique respicit humilitatem ancillae suae. 聖ベルナルド)

まだ秋田に巡礼に行ったことがない方も、何度も行かれた方も、今年初めての方も、どうぞ、巡礼にご参加ください。日本のために、カトリック教会のために、荒らされた祭壇や教会の復興のために、祈りと贖罪の業に励むために、私たちの祈りと犠牲を、この巡礼を通して御捧げいたしましょう。

愛する兄弟姉妹の皆様を秋田巡礼にお招きいたします。

2018年3月29日 聖木曜日
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

秋田巡礼5月3日から8日まで:ご予約の連絡はお早目にどうぞ!

秋田巡礼の内容はこのチラシもご覧ください。

Akita Pilgrimage 2018 (English)

インターネットでのお申込みの場合

Webサイトの「メッセージを送る」で送信してください。


【参考資料】秋田の聖母のメッセージ

第一のメッセージ 1973年7月6日(初金曜日)
「わたしの娘よ、わたしの修練女よ。すべてを捨てて、よく従ってくれました。耳の不自由は苦しいですか。きっと治りますよ。忍耐してください。最後の試練ですよ。手の傷は痛みますか。人々の償いのために祈ってください。ここの一人一人が、わたしのかけがえのない娘です。聖体奉仕会の祈りを心して祈っていますか。さあ、一緒に唱えましょう」
「教皇、司教、司祭のためにたくさん祈ってください。あなたは、洗礼を受けてから今日まで、教皇、司教、司祭のために祈りを忘れないで、よく唱えてくれましたね。これからもたくさん、たくさん唱えてください。今日のことをあなたの長上に話して、長上のおっしゃるままに従ってください。あなたの長上は、いま熱心に祈りを求めていますよ」

第二のメッセージ  1973年8月3日(初金曜日)
 「わたしの娘よ、わたしの修練女よ。主を愛し奉っていますか。主をお愛しするなら、わたしの話を聞きなさい。
 これは大事なことです。そしてあなたの長上に告げなさい。
 世の多くの人々は、主を悲しませております。わたしは主を慰める者を望んでおります。天のおん父のお怒りをやわらげるために、罪びとや忘恩者に代わって苦しみ、貧しさをもってこれを償う霊魂を、おん子とともに望んでおります。
 おん父がこの世に対して怒りたもうておられることを知らせるために、おん父は全人類の上に、大いなる罰を下そうとしておられます。
おん子とともに、何度もそのお怒りをやわらげるよう努めました。おん子の十字架の苦しみ、おん血を示して、おん父をお慰めする至愛なる霊魂、その犠牲者となる集まりをささげて、お引きとめしてきました。
 祈り、苦行、貧しさ、勇気ある犠牲的行為は、おん父のお怒りをやわらげることができます。あなたの会にも、わたしはそれを望んでおります。貧しさを尊び、貧しさの中にあって、多くの人々の忘恩、侮辱の償いのために、改心して祈ってください。聖体奉仕会の祈りを心して祈り、実践して、贖罪のために捧げてください。各自の能力、持ち場を大切にして、そのすべてをもって捧げるように。
 在俗であっても祈りが必要です。もはやすでに、祈ろうとする霊魂が集められております。かたちにこだわらず、熱心をもってひたすら聖主をお慰めするために祈ってください」
 (ちょっと間をおいて)
「あなたが心の中で思っていることは、まことか?まことに捨て石になる覚悟がありますか。主の浄配になろうとしているわたしの修練女よ。花嫁がその花婿にふさわしい者となるために、三つの釘で十字架につけられる心をもって誓願を立てなさい。清貧、貞潔、従順の三つの釘です。その中でも基は従順です。全き服従をもって、あなたの長上に従いなさい。あなたの長上は、よき理解者となって、導いてくれるでしょうから」

第3のメッセージ 1973年10月13日(土曜日)
「愛するわたしの娘よ、これからわたしの話すことをよく聞きなさい。そして、あなたの長上に告げなさい」
(少し間をおいて)
「前にも伝えたように、もし人々が悔い改めないなら、おん父は、全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。そのときおん父は、大洪水よりも重い、いままでにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。よい人も悪い人と共に、司祭も信者とともに死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難があるでしょう。その時わたしたちに残る武器は、ロザリオと、おん子の残された印だけです。毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください。
悪魔の働きが、教会の中にまで入り込み、カルジナルはカルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。わたしを敬う司祭は、同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒らされて、教会は妥協する者でいっぱいになり、悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう。特に悪魔は、おん父に捧げられた霊魂に働きかけております。たくさんの霊魂が失われることがわたしの悲しみです。これ以上罪が続くなら、もはや罪のゆるしはなくなるでしょう。
勇気をもって、あなたの長上に告げてください。あなたの長上は、祈りと贖罪の業に励まねばならないことを、一人ひとりに伝えて、熱心に祈ることを命じるでしょうから」
「まだ何か聞きたいですか。あなたに声を通して伝えるのは今日が最後ですよ。これからはあなたに遣わされている者と、あなたの長上に従いなさい。ロザリオの祈りをたくさん唱えてください。迫っている災難から助けることができるのは、わたしだけです。わたしに寄りすがる者は、助けられるでしょう」


第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ (続き10)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年04月01日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き10)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き10)


  (e)内的生活はまた、同じ内的生活を他に生むのであるから、その霊魂たちに及ぼす影響は深く、そして長続きがする (1/3)

 初版に付け加えられた本章を書くのは、私たちの兄弟である司祭たちの一人一人の心へと語りかけた手紙の形をとっている。
C'est en forme de lettre adressée au coeur de chacun de nos confrères qu'il conviendrait d'écrire ce chapitre ajouté aux premières éditions.

 冒頭において考察したように、すべて使徒的事業が成功するか、しないかは、もっぱら、それに従事する使徒自身の、内的生活いかんにかかっている。
 次に、わたしは多く祈り、かつおのれに反省したあげく、ある事業が、実を結ばない、骨折り損のくたびれもうけに終わるのがあるが、これはいったい何に起因するのか、ということを、まじめに考究し分析してみた。そして今では、こういう結論に達している。――もし福音の働き手が、霊魂たちを、内的生活に生まないなら、そのたずさわっている事業は、超自然的に深く根をはっていない、ほんとうに堅固ではない、したがって長続きのするものではない、と。
 事業が、深く根をはり、ほんとうに堅固であり、したがって長続きするためには、どうしても使徒自身が、深奥で強力な内的生活につちかわれていなければならない。本書の第二部第三章に、チモン・ダビド神父(chanoine Timon-David)の言葉をかかげておいたが、それはすべて使徒的事業をやるには、まずその事業の核心となる熱心な信者をつくる必要がある、そうすれば、かれらがその仲間たちにたいして、真の使徒職を発揮することができる、ということであった。
 この人たちは、じつにかけがえのないパンダネのようなものであって、かれらの協力があれば、使徒はその活動力をどれほど増大することができるか、これは誰の目にも、自明の理にひとしい。そのとき、使徒は、ただ一人で働かない。活動の手足となる者がふえるので、活動そのものが、幾倍にも拡大されるわけである。
 だが、急いでつけ加えねばならぬことがある。それは、ただ内的事業家だけが、ただ超自然的生命に充満している使徒だけが、同じ生命に充実するキリスト信者をつくることができる、ということである。
 自分の事業を、宣伝し拡張するために、友情や党派心や競争心によって、熱烈な運動員をかり集めることは、純然たる世間的・営利的な事業だったら、りっぱにできる。熱狂的な事業欲や競争心、党派心や自負心、興味や野心――こんなものに刺激され、促進されて、事業はりっぱにやっていけるものだ。
 ところが、イエズス・キリストの聖心の要求にかなった使徒をつくる、――その柔和と謙遜、その没我的な親切心、天父の光栄のためにのみ燃えさかるその奮発心、に参与できる使徒をつくりだす、という段になると、そうはいかぬ。深い内的生活だけが、そのための唯一の手段なのである。
 事業が、こういう美しい成果を生みださないかぎり、その存続は一時的である。朝に生まれて夕べに死ぬ、かげろうの運命である。そういう事業は、創立者の死とともに滅びる。これは、ほとんど確実な真理だといっていい。

 なぜ、ある事業が“時”の破壊力によく耐えて、ながく存続するのか。その理由は、次の事業にかかっている。すなわち、事業にたずさわっている人が、事業の対象となっている人びとの心に、おのれの内的生活のあふれから、新しいもう一つの内的生活を生みだしてやる、という一事にかかっている。理論は、ともあれ、事実にうったえて、筆者の議論を証明する。

 アルマン神父(l'abbé Allemand)といえば、ご存じの通り、高い聖徳の香りのうちに死んでいかれたりっぱな司祭だが、かれはフランス大革命の起こる前、マルセイユで、学生や労働者のための事業を創設したのであった。この事業は、いまなお創立者の名前をいただいており、百年後の今日といえども、驚くべき繁栄を誇っている。
 ところで、創立者のアルマン神父はどうかというに、かれは自然的な方面からみれば、きわめて恵まれない素質の人であった。ひじょうに近視で、内気で、弁舌の才能などほとんど持っていない。人間的な言い方をすれば、この神父は、その事業の要求する感嘆すべき活動には、とうてい耐えきれないのである。もし霊魂の美しさが、そのまなざしに、そのすべての挙動に、反映していなかったら、かれの生まれつきいかにもまずい、みにくい顔だちをみて、いたずら盛りの若い人たちは、どうしてもふきださずにはいられなかったろう。
 だが、霊魂の美しさのおかげで、天主の人なる神父は、血気にはやる若い人たちのうえに、隠然たる勢力をもっていた。この勢力が、若い人たちを支配し、統御し、かれにたいしてどうしても、敬慕の念を禁じ能わざらしめたのである。
 アルマン神父が、イのいちばんに心がけたことは、自分の事業を、強固な内的生活の土台のうえに、築き上げることだった。かれはまもなく、事業の中心に、一群の若い人たちを、事業の推進力として置くことに成功した。そして、かれらにどしどし、強い要求をもちだしていったのである。すなわち、かれらの境遇のゆるすかぎり、内的生活を完全のいとまねばならぬ。心の取り締まりを十分に実行するように。毎朝の黙想を欠かさないように。一言でいうなら、初代キリスト教徒が理解し、実行していた通りのキリスト教的生活を、かれらもまた完全に実践するように、と要求するのだった。
 さて、このようにして養成された若い使徒たちは、次から次へと続々輩出し、じじつ、マルセイユでは、この人たちが、かれの事業の魂ともなったのである。かれらの中から、数名の司教が、主の教会に送りだされた。いまなお、いくたの在俗司祭が、宣教師が、修道士が、かれらのグループから出ている。そればかりか、げんにマルセイユで、教区事業のいちばん大切な中心人物となっている、無数の善良な家庭の父親を、つくりだしている。そしてこの人たちこそは、商工業会において、事務的職業の分野において、光輝ある集団を形成しているばかりでなく、使徒職を生みだす、ほんとうに幸福な家庭をつくっている。
 「善良な家庭の父親」――と今さきいったが、おそらくこういう言葉をきけば、いまどき方々で、ずいぶんやかましく論議されている家庭問題に、おのずと反響をよびおこさないではおくまい。ある人は、こんなことをいっている。
 「若い男たちや娘たち、それに奥さんたちあいての使徒職は、比較的にやりやすいのだが、年をとった男たちあいてだと、むずかしいどころの話じゃない、しばしば不可能の時すらある。ところで、われわれが家庭の父親たちを、ただ熱心なキリスト信者にするだけでなく、なおそのうえ、かれらをりっぱな使徒にまで仕上げることができないなら、母親たちがどんなにいちじるしい好影響を、家族員に及ぼすことができるにしても、それはいつも未然に防止されるか、それとも一時的のものでしかない。こんな調子では、キリストの社会的王座を、家庭内にすえることは、とうていできない相談である。
 ところで、町の教会でも田舎の教会でも、工場でも病院でも、どうやっても大人たちを、ほんとうにりっぱなキリスト信者にすることができない、どんなに工夫してもダメだ、という泣きごとをきくが、さてさて困ったものである……」
 なぜ、こんな泣き言をならべ立てて、おのれの無能を告白するのか。――それは、自分の内的生活が足らぬ、自分は内的生活の落第生である、というらく印を、自分で自分のひたいに、おしているようなものだ。教会の務めから遠ざかる、大人たちの数はたいへん多い。かれらが教会の務めから遠ざかるのを、未然に防いでくれる、うまい工夫はないものか。
 ――ある。
 ただ、内的生活だけが、それをわれわれに、みつけてくれるのだ。
 不信心な大人たちの、石のようにかたい頭に、氷のように冷たい心に、深い信心を、熱い愛を、強い決心を、起こさせる説教をするためには、まじめに、根気よく、準備しなければならない。それは、ずいぶん、骨の折れる仕事である。骨が折れるからこそ、それよりももっとやさしい労苦ですみ、そのうえ、もっと手っとり早く効果の現われる、若い人や奥さんたちあいてにするあまい話、お涙頂戴式の説教のほうを、先にするのではないか。いうことをきかぬ、年をとった男たちの霊魂に、教えのタネをまく仕事は、じっさい情けないこと、つらいことである。ながくたっても、芽は生えてこない。すくなくとも表面では……。
 このつらい使徒職にたずさわるとき、われわれの勇気をささえてくれるものは、ただ内的生活だけである。われわれの活動に、祈りの労苦と苦業のつらさが、どれほど強い力をあたえてくれるか、また、われわれがイエズス・キリストのすべての御徳を模倣し、その模倣がだんだん進んでいくとき、それがわれわれの使徒職の効果を人びとの上に、どれほど増大させることができるか、これらのことを教えてくれるものは、ただ内的生活だけである。
 仏国ノルマンジーのある大きな町で、兵隊あいての使徒職をやっている神父があったが、それが大変に成功した。その成功のいきさつを、ある人がしてくれたのだが、話がどうも、あんまりうますぎるので、筆者にはちょっと信じかねるのだった。
 その話というのは、こうだ。――兵隊たちを集めたいと思って、音楽会をやる。映画や芝居の催しをやる。むろん、兵隊は多少は集まるのである。ところが、こんどは、兵営内で侵されている冒瀆の罪や、わるい遊びの罪をつぐなうために、夜ふけまで聖体礼拝をやるぞ、といえば、こはいかに、兵隊たちの数は、音楽や映画をする日に比べものにならないほど激増する、というのだ。
 百聞一見にしかずで、筆者はわざわざ汽車賃をつかって、現場を見に行ったのだが、見てはじめて、事実と寸分ちがいのないことがわかった。ナゾは解けた。兵隊付きの司祭が、じつに偉かった。このチャプレンは、聖櫃のなんたるかを、よく悟っていた。そして、聖櫃のそばで、いかにすばらしい使徒を養成することができるか、そのすべを心得ていたのである。

 こんなみごとな実例もあるのに、世の中には今もなお、やれ映画だ、やれ演劇だ、やれダンス・パーティ―だ、こんなものがなければ人は集まってこない、これは聖ヨハネ福音書の次にくる、第五福音書のようなもので、これさえあれば、人びとの回心はお手のものだ、などと、トンデモナイことを考えている使徒たちもいらっしゃるようだが、まことに笑止の至りである。
 なるほど、他に方法が見つからない場合、そのようなものを使っても、人びとは集まってくるにちがいなかろう。したがって、罪悪から人びとを遠ざけることもできるに相違なかろう。こういう効果は、むろん、ある。だが、それは、いつも範囲が限られている。そして最もしばしば、一時的のもので、長続きはしないのだ。
 しかし、誤解しないで頂きたい。自分は、こういう方法を用いねば、他に妙案がない。それを考えだすことも、いわんや使用することもできない――と思っている人は、よろしく従来どおりのやり方をつづけるがいい。けっして奮発心を、冷却させてはならない。または、筆者がまだ若い、まだ経験のないころ、そう考えていたように、自分たちはこういう近代的伝道方法を、成功への絶対要件だと信じている、せっかくの仰せだが、それをいっさいやめにしたら、われわれの青年会は空になってしまう、そういう予感がする――とのことだったら、なんにも遠慮しないで、今までどおりにして頂きたいのである。

  (続く)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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