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2018年4月1日(主日)復活祭のミサ 「なぜ、復活祭の頃に少なくとも一度、御聖体を拝領せねばならないか」

2018年04月13日 | お説教・霊的講話
2018年4月1日(主日)復活祭のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2018年4月1日の御復活の主日を祝っています。明日は朝ここで6時30分からミサがあります。

そして、つい3日前の聖木曜日には、私たちの姉妹であるモニカさんが霊魂を天主様にお返しになりました。その1週間前の金曜日には、終油の秘跡と御聖体拝領を授かって、そしてとても元気だったのですけれども、安らかにあっという間にお亡くなりになったとの事です。どうぞこの霊魂の為にお祈り下さい。



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は私たちの主イエズス・キリストの御復活です。そこでこの御復活の聖なる慶びを皆さんに申し上げる事をお許し下さい。

今日この日に、一体何が起こったのか、ぜひもう一度確認する事を提案します。

そしてなぜ一体御復活なさったのか?一体その目的は何だったのか?それを黙想しましょう。

最後に、では私たちは今日、今年2018年21世紀に生きる私たちは、一体どんな事を決心として取らなければならないのか、どんな事をこれから生活の中に生かさなければならないのか、という事を黙想しましょう。

では一体、2000年前にどんな事が起こったのでしょうか?

イエズス様は御自分の教え子を、愛をもって、奇跡をもって、そして忍耐をもって、御自ら御説教をして、天国への福音を宣べ伝えました。しかしそれに危機感を持ったユダヤ教の聖職者たちは、「もしかしたら自分の職業が無くなってしまうんじゃないか」と恐れて、イエズス様を亡き者にしようとして、それが成功しました。人民を動員して、デモをして、そして本当なら裁判を受けて「罪が無い」と言われたにもかかわらず、その裁判官の意見を判決を覆して、死刑になりました。

そしてイエズス様は、真に本当に亡くなった、という事が確認されました。ローマの兵士が槍でその心臓を貫いたからです。心臓に槍が貫かれて、そこから血と水が出ました。水が出たという事は、血がすでにリンパ液と分離して、もう死んでいた、という事を表しています。

母親であるマリア様も、イエズス様の亡骸を抱いて、その御死去を確認しました。弟子たちは葬りをしました。時間がなくて、全てユダヤの儀式の通り習慣の通り完璧にする事はできませんでしたが、しかしできるだけの事をして、きれいな布に包んで、埋葬しました。大きな石を、墓の蓋として入り口に乗せました。

弟子たちは、少数の女性と数えるほどの婦人たちと一人ヨハネだけを除いて、皆どこかに逃げ去ってしまいました、大きなショックでした。弟子たちは誰もイエズス様が復活するなどという事を夢にも思っていませんでした。考えにもありませんでした。その証拠は色々あります。

なぜかというと、最も熱心だった弟子の婦人たちが、付き添っていた婦人たちは、この主日の、復活の主日の朝早く、太陽が昇るか昇らないかの内に急いで起きて、お墓の埋葬の続きをしようと思いました。墓をどうやって、誰が開けてくれるかという事さえ考えも及ばずに、「とにかく埋葬をしなければならない。とにかく何とか葬りをそのまま続けなければならない」という事だけを考えていました。

マグダラのマリアは、イエズス様のお墓が空であるという事を見て、「誰かが盗んだ」としか思いませんでした。「もしもあなたが盗んだのなら私に言って下さい。私が引き取りますから仰って下さい。」

ユダヤの聖職者たちは、いざという時の為に、ローマの兵士を配置していました。おそらくお金をたくさんやったのかもしれません、「いいか、君たちの命にかけて、名誉にかけて、ローマの名前にかけて、この墓を守れ。」もちろん、日本の警察を思って下さい、日本の自衛隊の事を思って下さい。それが守っていたと思って下さい。武装していて墓を守っていました。誰も近寄る事はできません。

弟子たちは、墓に近寄る勇気さえもありませんでした。なぜかというと、例えば「イエズス様を見た」と、10人の弟子たちが、「同時に見た」と言っても、その時にいなかった1人は、使徒聖トマスは、「俺は信じない」と言いました。「君たちは夢を見ている。下らないよ。僕はね、この手をイエズス様のこの手の傷に入れて、この心臓の中に手を入れて、槍で貫かれた所に手を入れたら信じるけど、僕はね、足を地面につけて生きるんだよ。信じない。」頑固に拒否しました。

その弟子たち、そしてもう不可能であった、イエズス様が復活するというのはもう人間的に見て、一切不可能であったというその瞬間、その真暗闇の時に、誰も信じていなくて、誰も期待もしていなくて、誰も考えも及ばなかったその時に、傷だらけで命を失ったイエズス・キリストの葬られた肉体が、一瞬にピカリ!と燦然と輝いたのです。

その証拠は、今私たちが持っています。トリノの聖骸布です。イエズス様を包んだその布は、一瞬の内に酸化しました。そして世界最初の写真であるかのように、その御自分の全体の姿をその布に写し出しました。

その瞬間、その直後、今まで傷だらけであった、血だらけであったこの体は、あっという間に傷が無くなりました。そして目をカッと開いて、そして生き始めたのです。心臓がドクドクと動き始めて、そして息をして、そしてこの布をするりと透過して通過して、復活体として起き出しました。墓の中は真っ暗でしたが、御自分の天主の栄光の光で燦然と輝いていました。

おそらくその時に、まだ墓は大きな石で包まっていたでしょうけれど、その墓を通過して、復活されたイエズス様は、おそらくマリア様の所にすぐに会いに行ったに違いありません。なぜかというと、それはナインの寡婦、一人子を失った、そして未亡人のお母さんの泣いたのを見て、普通だったら「あなたは信じますか?」と聞いてから奇跡を起こすところを、この夫人だけは、この子供を甦らせてこの未亡人に返しました。イエズス様はマリア様の事を思っていたに違いありません。マリア様の所にすぐに行って、マリア様をお慰めしたに違いありません。

なぜかというと、マリア様こそ、イエズス様がその御胎内におられて、30年間共に生活され、3年間イエズス様と共に従って、そして最後には十字架の下で苦しみを捧げた、イエズス様をこれ以上愛する事がなかった、という御母であったからです。マリア様こそ、イエズス様からの最初の報いを得て、慰めを受けて当然の方でした。

イエズス様が確かに復活された、という事をまずマリア様に、次に婦人たちに、そして弟子たちに見せます。まず婦人たちには天使を送ります。天使は空から光り輝いて、降りて来て、石をゴロリと除けます。その様子を見たローマの軍人たちは、あまりにもその姿に恐れおののいて、死なんばかりでした。

そしてその1位の天使は、石の上に座って、夫人たちが来るのを待っています、「あなたたちが探しているナザレトのイエズスはここにいない。復活された。さぁ弟子たちに告げに行け。」

弟子たちの元にイエズス様は現れます。「確かに私は復活した。さぁこの手を見ろ。私の体に触りなさい。幽霊に肉はないだろう。私は肉を持っている。さぁ食べ物を与えなさい。」

そして自分が本当に復活したという事を、何度も何度も何度も何度も現れて、ある時には釣りの時に、ある時には朝食の準備をしながら、何度も何度も現れて、確かに復活した、という事を証明しました。

またそれ以外の弟子たちにも現れました。力を落として、「もうこれで終わった」という弟子たちにも現れました。弟子たちはすぐに、「イエズス・キリストである。復活されたキリストである」という事を認識しました。

40日間それをされました。この復活されたイエズス様を見た彼らは、そしてその証人たちを聞いた彼らは、もう疑う事ができませんでした。

今まで恐ろしくて逃げてばかり、隠れていた彼らは、もはや態度をガラリと変えて、「イエズス・キリストは確かに復活した。私はこの目で見た。この手で触った。この耳で聞いた。イエズス・キリストは自分の力で復活された。予言の通り仰った通りに、3日目に復活した。間違いはない。」

これは何を意味するかというと、イエズス・キリスト様が確かに予言された通り、アダムとエヴァの時から予言された通り、「私たちに約束された唯一の救世主、メシアだ」という事です。「旧約の全ての預言がこの方において成就した」という事です。そしてその事を、「自分が全ての預言の成就と、自分の復活をもって証明した」という事です。「イエズス・キリストこそが真のこの世の創造主であって、天主でしかできない事をなさった」いう事です。

イエズス・キリスト以外にはメシアはいません、天主は存在しません。イエズス・キリストこそが唯一の真の天主です。このイエズス・キリストが立てた宗教こそ、カトリック教会こそが、真の宗教です。という事を私たちに教えようとしました。この復活は教えています。

では特に21世紀の私たちにって、どんな利益が、どんな意義があるのでしょうか?

まずイエズス様は、私たちの信仰を確固たるものとしようと思いました。不信の弟子たち、信じる事を拒否して、あくまでも拒否し続けた弟子たちが、遂に態度を変えて信じなければならない、「これこそが現実だ、事実だ。そしてその為にはもう命さえ惜しまない」というほど変わってしまうほどの事実を見ました。ちょうどこの目の前に壁があって、この壁をどうしても壁があるという事を認めざるを得ないほど、「イエズス・キリストこそ復活した」という事を確信したのです。

そしてその事を誰にも言い広めました。言い広めない事は、あるいはイエズス・キリストは嘘だったと言えば、お金も儲かった事でしょう、ユダヤの人々と友達になった事でしょう。地位も上がったかもしれません。しかしその事は全く興味がありませんでした。「イエズス・キリストのような復活を私も頂きたい。イエズス・キリストこそが真の天主だ。彼に付いて行く」と態度を変えていったのです。

そしてこのその信仰は全世界を変えました。全世界は、イエズス・キリストを信じるが為に、何百万何千万という殉教者を出しました。童貞を出しました。イエズス・キリストの為に聖なる生活を送り始めた人たちが、罪をやめて聖なる生活をし始めた人が、何百万といます。王も、貴族も、そして身分の低い者も、奴隷も、イエズス・キリストの為に命を、生活を全て捧げる、という大奇跡という回心が起こりました。もしもガリレアの田舎の数人の漁師が嘘を言って広めた、それでそんな事が起こったとしたら、それこそがイエズス様の復活よりも大きな奇跡となってしまいます。

本当にイエズス様は復活されました。そして今でも生きておられます。復活されて、天国で私たちを愛をもって見守っておられます。私たちが復活するのを、イエズス・キリストと同じ復活をするのを待っておられます。本当に、今、天国で、皆さんの事を見ておられます。ちょうど私が目の前にいるように、それと同じ現実に、皆さんの事を見ておられます。生きて見ておられます。

その私たちの信仰を固める為に、復活されました。

第2に、イエズス様が復活されたのは、私たちに大きな希望を与える為です。

私たちが生きているのは、この地上で80年間、あるいは今現代医学が進んでいるので、150歳まで生きて200歳まで生きて、そしておいしいものを食べて、あるいは…という為に生きているのではなくて、私たちには永遠のとてつもない栄光と喜び、死も苦しみも悲しみも涙も全くない、天主の喜びが無限の喜びが私たちを待っている、という事を教えたいと思っていました。

今私たちは辛い思いをしたり、涙を流したり、悲しんだり、苦しんだり、理由がないのにいじめられたり、あるいは馬鹿にされたり、病気だ、事故だ、辛い、喧嘩をした、などと涙を流したり、辛い思いをしたりしているかもしれません。イエズス様もそうです。しかしそんなものがあっという間に、瞬間に、無くなってしまう時が来る。そして私たちは喜びに満たされて、これ以上の喜びはない、というほどの喜びが待っている。イエズス様の栄光と同じ栄光を持つ。その希望を私たちに与える為です。

もしも皆さんのうち誰かが、「神父様、やりました!お年玉のはがきが 1位になりました!」「宝くじが当たりました、ロトが当たりました!5億円当たりました!」「100億円当たりました!」「あぁ神父様、私の子供がノーベル賞をやりました!」「ピアノで1位になって、コンクールで1位です!世界で1位です!」「あぁ、私の娘がスケートで金メダルを取りました!」ということがあったとします。

もちろん私たちはそんな時に喜びます。「あぁ、私の息子が大学に合格しました!」「良い会社に入社しました!」

もちろん私たちは喜びますが、しかしその喜びは限りのあるものです。もしも皆さんが世界の王となって、世界を支配する皇帝となったとしても、その喜びには限りがあります。

しかし私たちがその持つ希望というのは、それをはるかに超える、永遠の命と無限の喜びです。それをイエズス様は、「一緒に分かち合おう」と、「天の永遠の遺産をあげる」と仰っているのです。その為に復活されました。何と恵まれた私たちでしょうか。

最後に第3には、私たちが何を愛するべきか、という事を教える為でした。

イエズス様が本当に私たちをどこまで愛しているか、愛されているか、という事を十字架で、そして復活でお示しになりました。

もしも誰かが私たちの命を救う為に、死の苦しみを受けたとしたら、どれほど私たちは感謝しなければならないでしょうか。その命の恩人に感謝して、感謝しなければならないでしょうか。もしも誰かが私たちに特別の贈り物をプレゼントする、そしてそのプレゼントの価値が大きければ大きいほど、どれほど感謝しなければならないでしょうか。

イエズス様はそれを全てしました。命を、そして栄光を全て私たちに与えようと、愛の極みを尽くされました。そして私たちはこれを見て、ただイエズス様に、愛する事を求められています。

人間は創られた時から生まれた時から、善を愛するように創られています。でも残念な事に私たちは、天主以外の全ての事を愛しますけれども、しかし本当の善を愛する事をよく分かっていません。その為にある人はお酒を愛したり、そして病気になって、もうこれをやめなければならない、と分かっていながらも、どうしてもそれの愛着を打ち切る事ができない、ある人はコンピューターゲーム、ある人は…分かりませんけれども、何か本当はそうしてはいけないという事を、何かそこに善があるかのように錯覚して、いけないと分かっていながらもそうしてしまう人々がどれほど多くいるでしょうか。そして儚いものに楽しみを求めよう求めようと追求して、ますます不幸になっていく人たちがたくさんいます。

しかしイエズス様は私たちに、私たちが本当に愛する者は誰か、何か、という事を教えています。私たちが本当に愛するべきものは方は、私たちをここまで愛して下さった「イエズス・キリスト」です。

では今日どのような決心を取らなけばならないでしょうか?

まず1つだけ、長く申し上げたので1つだけ申し上げるのを許して下さい。公教会の掟によると、カトリック信者は年に1回少なくとも一度だけ、もちろんたくさんやればやるほど良いのですけれど、少なくとも一度告解を受ける事、そして復活祭の頃に少なくとも一度御聖体を拝領する事、という復活の義務があります。そこで私たちはこの復活祭の義務を今日、特別の意向を持って果たす事を提案します。

どういう事かというと、私たちが拝領する御聖体は、単なる聖なる「物」ではありません。単なる「パン」でもなければ、聖なる「物」でもありません。「物」ではなくて、聖なる「復活された、生きておられるイエズス・キリスト御自身だ」という事をぜひ意識して、それを自覚して、それを私たちが受けるのは、貴重な聖なる「パン」ではなくて、「天主の御体、復活されたイエズス・キリストの復活体だ。ちょうどマリア様にお現れになった、そして弟子たちに現れた、それと同じイエズス様を私たちはこの霊魂に受けるのだ」という事よく知ってください。何という恵まれた私たちでしょうか。イエズス・キリスト、復活されたイエズス様をこの復活の日に、私たちのこの霊魂に受ける事ができるとは。

私たちはどうしても跪いて、もちろんお体のご都合の悪い方は立ったままで大丈夫ですけれども、できる方はぜひ跪いて、手を合わせて、そして目を閉じて、舌べらで、イエズス様を礼拝しながら、愛を込めて御聖体拝領をなさって下さい。

「イエズス様、今まで私は、イエズス様が復活して生きておられる、天国でいらっしゃる、という事をあまりにも遠くの事として思っていました。イエズス様、イエズス様はいつも私が聖体拝領する時に、私の傍に、復活された者として、生きる者として来て下さっています。私をここまで愛して下さっておられます。それなのにもかかわらず、どれほど私はイエズス様を罪をもって、イエズス様がいないかのようにふるまっていた事でしょうか。イエズス様、これからはもうイエズス様を十字架に付ける事がないように、悲しませる事がないように、助けて下さい。」

最後に、マリア様にお祈り致しましょう。マリア様は、イエズス様を決して少しも、ほんの少しも悲しませる事はありませんでした。十字架の下にいつもおられた方でした。そしてその十字架に居たが為に、マリア様の全ての悲しみは、栄光と喜びの元になりました。

「マリア様、どうぞ私の全ての悲しみと喜びと苦しみを全て、マリア様とイエズス様の為に御捧げしますので、どうぞこれを受け取って下さい。これを喜びと栄光だけに変えて下さい」とお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


【聖ピオ十世会 SSPX JAPAN】2018年4月初金・初土の聖伝のミサと、東京での Quasi modo のミサ(ラテン語のミサ・聖伝のミサ)の報告です

2018年04月13日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 4月の初金・初土を大阪で聖伝のミサをささげ、主の御復活後の最初の主日を東京で聖伝のミサを捧げることができました。天主に感謝します!

 復活節では、主日にはミサの前に「ヴィディ・アクアム」を「アスペルジェス・メ」の代わりに歌います。

 東京では主日の午後に、公教要理「天主の存在」について、また復活後第3主日のミサのグレゴリオ聖歌を練習しました。

 来たる主日(4月15日)は、大阪の「聖母の汚れなき御心聖堂」で午後6時から聖伝のミサがあります。レネー神父様の代わりにエチエンヌ・ドモルネ神父様(Father Etienne Demornex)が初めて来日されます。多くの方々が聖伝のミサからお恵みを受けることを希望しております。

【大阪】
4月15日(主) 復活後第2主日(2級)白
         午後5時半 ロザリオ及び告解 
         午後6時  ミサ聖祭

4月16日(月) 平日(4級)白
         午前6時 ミサ聖祭 ← 時間が変更になりました


 4月22日(主日)には東京で午前10時半から聖伝のミサがあります。

【東京】
4月22日(主) 復活後第3主日(2級)白
         午前09時  グレゴリオ聖歌の練習及び告解
         午前10時  ロザリオ及び告解
         午前10時半 ミサ聖祭

4月23日(月) 平日(4級)白 (殉教者聖ジョルジオの記念)
         午前07時  ミサ聖祭

復活後第3主日のミサで歌う固有文のグレゴリオ聖歌は次の通りです。




Iubiláte Deo, omnis terra, allelúia : psalmum dícite nómini eius, allelúia : date glóriam laudi eius, allelúia, allelúia, allelúia.
Dícite Deo, quam terribília sunt ópera tua, Dómine ! in multitúdine virtútis tuæ mentiéntur tibi inimíci tui.
V/.Glória Patri.




Allelúia, allelúia. V/. Ps. 110, 9. Redemptiónem misit Dóminus pópulo suo.



Allelúia. V/. Luc. 24, 46. Oportebat pati Christum, et resúrgere a mórtuis : et ita intráre in glóriam suam. Allelúia.




Lauda, anima mea, Dóminum : laudábo Dóminum in vita mea : psallam Deo meo, quámdiu ero, allelúia.




Módicum, et non vidébitis me, allelúia : íterum módicum, et vidébitis me, quia vado ad Patrem, allelúia, allelúia.


【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

4月の初金・初土の御ミサの報告をお送りいたします。

4月6日初金 ご復活後の金曜日のミサには13人が、
4月7日初土 レクイエム・ミサには17人の方々が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオ・グラチアス!

初金曜日にはイエズス様の聖心をお慰めするため、聖心への罪を償うために御聖体降福式がありました。聖時間では御聖体のうちに復活されたイエズス様を黙想しました。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 25人(内、子供3人)
女: 28人(内、子供5人)
計: 53人(内、子供8人)

【報告】
♰Ave Maria! Immaculata!

ご報告を送らせていただきます
復活の八日間の白衣の主日のごミサをありがとうございました。

御復活の頃の義務をこのごミサに与ることで果たすことができると伺いうれしく思いました。ご聖体拝領では、御復活のイエズス様の永遠のいのちをいただくのですという言葉を胸に拝領しました。このご聖体拝領によって私の霊魂の深奥に御国が作られてイエズス様がいつも王として君臨してくださいますようにと祈りました。ご聖体によって養われる私の霊魂がいつも永遠のいのちにつながっていることができますように。

イエズス様のご復活を誰より信じていた聖母マリア様はひと目で復活されたイエズス様をみとめられたことでしょう、でもマグダラのマリアも声を掛けられるまではわからなかったし、トマスもその釘痕に指を触れなければ信じられないと言いました。信じないものでなく信じるものとなりなさいというイエズス様の言葉に、わたしにももっと信じる力をくださいますようにと祈りたいと思います。

スイスで六月に着衣式が行われる姉妹のためと、そして7月の総会のためにも特別にお祈りいたしました。クリスマスに初めてこの聖伝のミサに与った友人がこの白衣の主日のミサにまた来てくださっていたことがうれしく、ごミサのお恵みがこれからもますますたくさんありますようマリア様に願いました。

午後の公共要理は、この世は偶然によってあるものではなく確かにはっきりとした意図によってデザインされてつくられたものである、そのつくられたお方を天主とお呼びしている、ということをお話しいただきました。

グレゴリア聖歌の練習は求道者の方の歌う響きがキレイだなあと思いました。

翌日の朝は童貞聖マリアの御告げの祝日のごミサをありがとうございます。神父様がミサの初めに提案してくださった次の二つのことを黙想することができました。

この日は、神性が人性を取られ、イエズス様の聖心がこの地上で始まろうとした日であること・・・この日から私たちのために聖心がつくられはじめ脈打ち愛し傷つき悲しみ苦しみを忍びそして最後には開かれてすべての御血を流しつくされた・・。

そして、マリア様のご胎は三位一体が宿ることをのぞまれたほどでありどれほど清らかで汚れのないものであるかということ、そのマリア様の御心もどれほどに清らかで汚れのない御心であるだろうかということ。

マリア様がハイと言ってくださったことにより天主が私たちの住むこの世界に降りてこられたというのは、とても神秘的な出来事で普通には現実と受け止めるのは難しいことなのに、わたしはそのことを信じる恵みをいただいているのだと思いました。復活が本当の出来事であり事実であり、それはこの御告げの日に起こったことからそのすべてが始まったのだと思い、聖心からあふれ出る聖寵もこの日からであることを思いました。汚れなく罪と無関係の御方でいらっしゃいますマリア様がいらしたから、マリア様をとおしてすべての恩寵がこの地上に降り注がれるようになったのだと感謝と賛美を捧げました。

ミサ中のラテン語の典文の祈りのなかに毎日となえているアヴェマリア…の響きが幾度かあってそれによりこの日はマリアさまのためのごミサであるとしみじみと実感されて胸がときめきました。童貞聖マリアの御告げのごミサに与れましたこと感謝いたします。神父様いつもありがとうございます。

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